リストボタンベートーベンの「喜びの歌」  2002/10

 毎年、年末になるとベートーベンの第九交響曲「合唱」が繰り返し演奏されているし、各地でも大規模な合唱がなされている。この合唱は、「喜び」を歌っているものであるが、それは具体的にどんな内容なのか、また聖書には、そうした深い「喜び」の世界があって、それが指し示されていることも一般の人には知られていないことが多い。
 この彼の最後の交響曲には「喜びを歌う」という、ドイツの詩人シラーの詩の一部が組み込まれている。ベートーベンは日本でも最も多くの人が愛好する音楽家と言われているが、その多数の音楽のなかでも、とりわけこの第九番交響曲は広く知られてきた。音楽の専門家もこの交響曲には高い評価を与えている。この音楽に対する評価の言葉はいくらでもあると思うが、ここではその一つをあげておく。

(第九交響曲の)第三楽章は、変奏曲形式を主体にしているが、比類ない天国的な感情を示し、彼が晩年に到達した祈りの世界を完全に表現している。
 さて第四楽章であるが、この楽章は、シラーの詩による声楽が導入されているところに最大の特徴がある。中心の主題は、かの有名な、「喜びの歌」の旋律である。
 声楽部は、四人の独唱者と大合唱とによって作られ、まことに、その表現は、全人類的感情にみちみちている。
 前人未踏の大交響曲であるし、また、彼以後においても、この曲に比較する音楽を見いだすことが出来ない、といっても過言ではないであろう。」(*

「この交響曲は、喜びの情が、博愛の徳を生むことを讃美し、そのなかに神を敬う心を鼓吹したもので、ベートーベンは若いときから深くこの詩を愛し、再三この作曲を試みたのであるが、ついに最後の交響曲の最後の楽章によってその宿望を果たしたのである。
天国の平和を夢見るような第三楽章は、現世の苦悩と戦ってこれを克服する意思を表し、最後の「喜びの歌」は、神を敬うことと、博愛によって生きることを喜ぼうとした作曲家の思想を告白したものと見られるからである。」(**

 ベートーベンの音楽がなぜ際だって有名なのか、それはそこに力を感じるからである。弱っている者、うずくまっている者をも奮い立たせるような、不思議な力をベートーベンの音楽は持っている。とくに、晩年の作品には、私たちを打ち倒そうとするようなこの世の力に抗して、立ち上がらせる力が強く感じられる。
 このシラーの詩はベートーベン の心にとくに一致したようである。それは、この詩を用いようと考えたのは、ベートーベンが二十三歳のときであったことからもうかがえる。その時すでに、この作者であったシラーの夫人にそのようなことを触れているという。ベートーベンの有名な伝記を書いた、ロマン・ロランの伝記の中から一部を引用しよう。

ベートーベンが「喜び」を歌おうと考えたのは、こんな悲しみの淵の底からである。それは彼の全生涯の計画であった。まだ、ボンにいた一七九三年(ベートーベンが二十三歳のとき)からすでにそれを考えていた。生涯を通じて彼は「喜び」を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きい作品の一つを飾る冠にしようと望んだ。生涯を通じて、彼は、その「喜びの歌」の正確な形式とその歌に正しい場所を与える作品とを見いだそうとして考えあぐねた。***

 その意図が、第九交響曲のなかに実現したのは、それから、実に三十年も後の、五十四歳のときであり、それは彼の死の三年前であった。ベートーベンの心のなかに、このシラーの詩がそれほど深く結びついていたのがわかる。
 そしてその交響曲が生み出されるまでの長い間には、さまざまの苦しみが彼を襲った。二十六歳ころから耳の異常を知った。音楽家としては、耳が聞こえなくなるということは、致命的な問題だと思われるために、次第に聞こえなくなる耳のことでベートーベンは、非常に苦しんだ。ベートーベンはほとんど鬱病になり、自殺まで企てて、遺書も書いたほどであった。そして重い病気にかかって死にそうになり、たえず死の問題を考えずにはいられなくなっていた。
 また、弟が死んでその子供を引き取り、こまやかな愛情を注いだが、その甥は、面倒な問題をいろいろと起こした上に、ピストル自殺まで企ててしまい、ベートーベンは非常な苦しみを覚えるようになっていた。
 こうしたさまざまのわずらわしい苦しみのただ中にいたにも関わらず、彼はかえって耳が聞こえなくなっていくとともに、交響曲やピアノ・ソナタの傑作を生みだしていったのである。
 そして、彼は数々の苦しみや悲嘆、絶望などを経験しながらも、若き日に知ったシラーの「喜びを歌う」という詩にはずっと心が結びつけられていた。
 本来は、喜びへの力強い讃美、そのようなものがとても持てないような状況に置かれてもなお、大いなる喜びを歌おうという心が留まり続けたのであった。

 ここでは、「第九の合唱」と言われてもどんな内容なのか知ることができない多くの人のために、交響曲第九番の第四楽章にある、「喜びに寄せて」という詩の中から、その一部を引用して簡単な説明を加えておきたい。なお、原文に触れてそのニュアンスを知りたいという人のために、原文は終わりにおいてある。

おお友よ、これらの調べではなく、
もっと喜びをもって、楽しくともに歌おう。

 この合唱の最初の部分は、シラーの詩でなく、ベートーベン自身が作詞したものである。この部分は、最初の草稿では、「われわれは、シラーの不朽の詩である『喜び』を歌おうではないか」となっていたけれども、後から現在のように変更されたと、身近に生活していたベートーベンの伝記著作家のシントラーが述べている。
 従来の音楽は、直接的に「喜び」を歌っていることが少ない、もっと喜びそのものを讃美しようではないかとの呼びかけである。喜びには、地上的な楽しみとは全く別の天から来る喜びがある。それを歌おうではないか、とベートーベンが冒頭に自らの言葉を書き込んだと言われている。
 つぎに続くのが、シラーの詩からの引用である。


喜びよ、美しき神の光なる喜びよ、
楽園からのたまものよ
我らは感激に満ちて
天国のあなたの聖殿にすすもう

神の力であなたは、
世のひきはなされたものを、ふたたび結び、
あなたのやさしい翼のとどまるところ、
人びとは、すべて兄弟となる。
……
幾百万の人びとよ、たがいに抱きあおう!
全世界にこの口づけを与えよう!
兄弟たちよ、星空のかなたには、
愛する父が、かならずおられる。

幾百万の人びとよ、地にひざまづくか
世界よ、創造の神をみとめるか
星空のかなたに、神をもとめよ!
星のかなたに、神はかならずおられる!

 シラーの詩の中にあるこうした言葉に、ベートーベンはとくに惹かれていたのがうかがえる。それゆえに、シラーのもとの詩はもっと長く二倍以上の長さのある詩であるが、とくに、右に引用した内容を中心にベートーベンが用いている。
 ここにベートーベンが見つめていたものが何であるかの一端をうかがうことができる。この世には暗い、絶望的な事態が数多く生じる。どこに神がいるのかと思わせることも多い。それゆえ一時の逃避的な音楽や、軽薄な内容の乏しい音楽も多くなっている。そうしたことは昔も同様であったろう。そこでベートーベンはそのような表面的な音楽でなく、ことなる雰囲気と力の音楽、すなわち喜びそのものを正面に出した音楽を強調している。この壮大な力に満ちた合唱は、この世界に小さな、利己的な楽しみや影のようなはかない喜びしかなく、またそれどころか不安や恐れの影がいつも背後にあるような世界にあって、いわば神が、ベートーベンを用いてそうした背後に、力強い喜びの世界があることを、知らそうとされたように感じられる。
 神のつばさ(御手)が臨むとき、人々の差別的な考えは消えて、そこには神を共通の父としているゆえにみんな兄弟姉妹なのだ、という考え方が生じる。私たちが必要なのはそのような人間の努力とか力を越えた神のつばさであり、神の御手なのである。
 本来人間同士は兄弟姉妹なのだ、だから全世界に兄弟姉妹のしるしであり、愛情の表現であるキスをおくろう。私たちを敵対するもの同士でなく、兄弟姉妹であるというのは、愛する父なる神がおられるからである。神がいますからこそ、その神によって新しく生まれた子どもたちなのであり、しぜんに兄弟姉妹だということになってくる。
 星空の彼方には、必ず神がおられる、ここに著しい強調がおかれていて、それが締めくくりの内容となっている。星空の彼方といった無限に遠いところに神がいる、ということでなく、それは詩的な表現であり、本来神は、どこにでもおられるのである。キリストが、私はあなた方のただなかにいると確言され、また他の箇所でも、キリストは私たちの心に生きておられるということも言われている。
 「神は星空の彼方にいます」という言葉の意味は、神は、人間世界の汚れた状況とは全く隔絶されたところにおられるということなのである。地上の人間やその社会は、周囲の汚れたもの、罪深いものに染まっていったり、何らかの影響を受けてしまう。自然界ですら、人間の科学技術によって破壊され、汚染さていく。
 しかし、神はそうしたいかなる人間の営みによっても汚されたりしない、それは、言い換えると「聖なる神」ということである。いかに、人間社会が混乱と汚れ、また不正に満ちていても、そして地上のものはみんなそうした汚れにがしみこんでいるように見えても、神はそうした一切の地上的なものとは、別個にその聖なる本質を保っておられる。それを詩的に表現した言葉が、「神は星空のかなたにいます」ということなのである。
 ベートーベンが数々の言いしれぬ苦しみや悲しみと憂いのただなかでもこのような力強い喜びの歌を生み出すことができたということは、その背後に聖書の影響をふかく感じさせられる。

 「喜べ、いかなる状況のもとでも、主によって喜べ」といわれた使徒パウロの心が現在においても、聖書が読まれている世界の至る所でところで繰り返し新たに経験されているが、ベートーベンのこの第九交響曲に組み入れられた「喜びの歌」も、やはりこの聖書の言葉の影響を感じさせられる。

あなたがたは、主によっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(ピリピ書四・4)(****

最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。
互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。
そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。(コリント 十三・11

 ベートーベンが、シラーの「喜びの歌」を自分の音楽にの死の三年ほどまえにようやく完成したこの大交響曲は、新約聖書にある、使徒パウロのこの言葉、「喜べ、主によって喜べ!」という言葉の音楽的表現の一つだといえよう。
 この世界にはそのような大いなる喜びなどあり得ないように見える。しかし、この世界の根底を見抜いていた使徒パウロ、そして彼に啓示を与えられた主イエスは、私たちに、この世の背後に実際に存在する大いなる喜びの世界を指し示しているのである。

(一)
Freunde, nicht diese Tone,
Sondern lasst uns angenehmere
anstimmen, und freudenvollere.

(二)
Freude, schoner Gotterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische dein Heiligtum


(三)
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Bruder,
Wo dein sanfter Fluger weilt.

(四)
Seid umschulungen Millionen!
Diesen Kuss, der ganzen Welt!
Bruder! uber'm Sternenzelt
Muss ein lieber Vater wohnen.

(五)
Ihr sturzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schopfer, Welt?
Such ihn uber'm Sternenzelt!
Uber Sternen muss er whonen!

*)諸井三郎著「ベートーベン」216頁(旺文社文庫)諸井は、作曲家、音楽評論家。元東京都交響楽団楽団長。東京帝国大学文学部美学科、ベルリン国立高等音楽院作曲科卒業。
**)「西洋音楽史」中巻 371頁 音楽之友社 乙骨三郎著  
***)「ベートーベンの生涯」ロマン・ロラン全集第十四巻 41頁 みすず書房刊
****)「喜べ、主によって喜べ!」の英訳、ドイツ語訳を参考にあげる。
Rejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice!
Freuet euch im Herrn allezeit; und abermal sage ich: Freuet euch!


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