リストボタンことば  2002/11

(146)「キリスト者であるとはどういうことかね、エヴァ?」
「何よりも一番にキリストを愛することよ」と、エヴァが言った。(「アンクル・トムの小屋」第二六章)

"What is being a Christian,Eva?"
"Loving Christ most of all," said Eva.

・主イエスは、最も大切な戒めとして、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」と言われた。信じるということは愛するためには不可欠であるが、信じるだけでとどまっていては深い主の平安は与えられないだろう。人間関係でも、相手を信じることで留まっているのよりは、相手がどうあろうとも、よりよくなることを祈る心、つまり主にあって愛するということへとすすむのが本来であるから。
 キリストを何者よりも愛するとは、ほかのどんなものよりもキリストに心を注いでいることでもある。そして愛するからこそ、その声につねに耳を傾けようとするし、語りかけてくる静かな細い声に従おうという気持ちが自然に起きる。そしてそのキリストとは神と同様なお方であるから神の国のあらゆるよきものを持っておられる。そのよき天国の賜物へと心を開いていることでもある。

(147)あなたの悩みをすべて主にゆだねよ、
主はあなたに代り配慮される。
あなたの家族のための心配を
われらの信ずる主にゆだねよ、
主は思い悩むことを好まれない。
しかし、あなたがささげる天に向っての祈りはよろこんで聞き給う。…

あなたを苦しめるために
理由なく苦難が与えられたのではない。
信じなさい、まことの生命は
悲しみの日に植えられることを。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために上 三月十五日より」)

・悲しみをわざわざ求めるものはいない。しかし悲しみがなければ、私たちの心は深く耕されないゆえに、神は私たちにさまざまの苦しみや悲しみを与えるのであろう。主イエスも「ああ、幸いだ、悲しむ者! その人たちは神によって慰めされるから」と言われた。


返舟だより

○十一月十五日(金)から十九日(火)にかけて、松山、熊本、福岡、大分などでみ言葉を語る機会が与えられたことは、主による導きとして感謝でした。また広島、岡山、香川などで、主にある方々と交わり、「祈の友」会員をも一部ですが訪問して語り合う機会が与えられました。この五日間を祈りによって支えてくださった集会の方々、また各地の信徒の方々の主にあるご配慮にも深く感謝します。
 私たちは、一人一人が直接神と交わり、主イエスの生きた働きに導かれることが必要ですが、それとともに信徒の方々との主にある交流も重要なことと思います。聖書にも使徒行伝や使徒の手紙などにも、キリストを信じる者同士の深い交流が記され、たがいに祈り、支え合っていたようすがうかがえます。信じる者同士はキリストのからだであると言われている意味が、あちこちの集会に参加してみるといっそうよくわかります。パウロも身近にいる信徒だけでなく、めったに会うこともできない遠くにいるキリスト者たちとも、キリストのからだであると言っていることを思い出します。
 神の言葉こそ、そのような結びつきを生みだし、支え、そしてそこからよきものをくみ取ることができるようになっていることを思い、神の言葉を知らされた祝福を感じました。

○愛媛県の佐多岬半島を通るときには、道路が山の斜面を通るので、秋の植物があちこちでみられました。徳島県では一部にしか見られない、リュウノウギクの白いキクがたくさん見られ、その一部をつんで熊本の集会に持参しましたが、集会の人にとってもその葉の独特の香りが印象的なようでした。
 また、海岸植物である、ダンチクの上部の穂がついている部分がうまく採取できたので、それも持っていきましたが、参加者の一人の方はハンセン病療養所におられる方ですが、子供のときに海岸近くの家であったために、このダンチクに親しんでいたといわれ、そうした遠い昔とふるさとのことを思い出すよすがとなったようでした。ダンチクは、ヨシタケ(葦竹)とも言われ、三メートルの高さにも達する植物で、草のなかまとしては日本では最も大きいものの一つとされています。
 その他、ヤマシロギクの白い花、ヤマハッカの青紫色の花の群生があり、秋らしさを味わうことができました。また、熊本の集会に行く途中の阿蘇山に通じる道、大分県の竹田付近の山道では、シマカンギクという黄色の野菊が多く見られました。これは徳島の山々では私はまだ見かけたことがないように思います。

○訂正
。十月号六頁三段目左より三行目 「懇願した」→「ひれ伏して」(すでに訂正されて届けられたのもありますが、未訂正のものがあります。)


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