リストボタンイエスが引き寄せた人々    2002/12

 十字架上で処刑されたイエスの体をどうしたかなどということは、聖書的にはどうでもよいことだと思われるであろう。それは、心の問題や真理に関わることを主題とするはずの聖書にはそのような雑事のようなことは記さないと思われるかもしれない。
 しかし、聖書にはそのような遺体の処置に関する記述のなかにも、信仰にかかわる重要な意味が込められている。
 イエスの遺体を受け取って、新しい墓に埋葬したい、という特別な願いを持っていたのは、十二弟子でもなく、主イエスと行動を共にしたとも記されていない人であった。それはアリマタヤのヨセフという人物である。だれも顧みないような、重罪人として処刑された人間の遺体をわざわざ引き取って、自分の新しい墓に入れるということ、それは、よほどの主イエスへの愛と尊敬の気持ちがなければできない。
 そのために自分が周囲の人から批判され、地位が引き下ろされるかもしれない。けれども、主イエスはそうした危険をも顧みないほどに、このヨセフの心を自らに引き寄せたのである。イエスは、どんな状況であっても、さまざまの人間を引き寄せる。
 イエスは誕生のときからすでに、はるか東方の博士たちを引き寄せた。砂漠を越えて、数百キロをはるかに越える長い旅路を危険を冒しても主イエスに会いたいとの切実な願いを起こさせる存在であったのがわかる。
 また、イエスの一言、私についてきなさい!という一言で、ヤコブ、ペテロ、ヨハネたちは主イエスに引き寄せられ、従うようになった。そして、弟子のペテロに言われた、「あなたを人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉は、イエスに向かって引き寄せる特別な力を、ペテロにも与えようという約束に他ならない。
 また、当然毎日の生活の衣食のことについても、だれかがイエスの世話をしたのである。
そのような身の回りの世話をするための女性たちもまたつぎのように、イエスのもとに集められていったことも記されている。

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たちそのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書八・2

 ヨセフが自分の地位や将来において重大な損失となるかも知れないのに、あえて、主イエスの弟子であることを言って遺体を引き取るという、だれもしなかったことを申し出たのである。これは十二弟子たちすら考えもしなかったことである。
 主イエスはさまざまの人を徹底して愛し抜かれた。(十三・1)その現れをここにも見ることができる。 だからこそ、このヨセフはこのように遺体を引き取ることを申し出たのであった。主イエスの愛に動かされたのでなかったらこのような行動をとることはあり得なかった。
 私たちの言葉や行いは、主イエスを見つめてなされているか、あるいは人間の個人的な欲望や感情でなされているか、の二つに分かれる。イエスの愛を受けた者、実感した者は自ずからその主イエスを見つめて何事もするようになる。主イエスの愛を感じていない場合には、人間の欲望や、人間的感情や意思で行うようになる。その場合には愛といっても、自分を愛してくれる者だけへの感情であり、憎しみやねたみも当然つねに生じてくる。しかし、主イエスから受けた愛に動かされるほど、どのような状況やどのような人に対しても祈りの心をもって対するようになる。
 主イエスが死に至る最後まで人間を愛し抜かれたということの他の例は、ルカ福音書に記されている。それは十字架上の重罪人のことである。そのような最後の場面においてすら、一人の犯罪人は主イエスの愛が伝わってきて、その愛に感じて悔い改めたのであった。

 また、息を引き取るときに、ローマの将軍のような権力と武力のただなかで生きてきた人すら、つぎのように深く心を動かされ、イエスがふつうの人間でなく、神の本質をもった特別な人であることを示されたのであった。
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マルコ福音書十五・39

 このように、主イエスは生きているときから、死の直前、そしてその死後もさまざまの人を引きつけていくのである。これは、つぎの主イエスご自身の言葉が実現していったのである。

わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネの福音書十二・32

 このようなキリストの大いなる力は、地上に来られる前から神とともに存在していた。それはこの福音書の冒頭に書いてある。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 (ヨハネ一・3
 これは万物がキリストによって創造されたという宣言である。神とともに創造のわざをなされたというおどろくべき記述であって、一般の人が、キリストというと地上の人間のかたちをしていた時だけだと思っているのは、キリストのごく一部を知っているだけなのである。
 また、ヨハネ十二章には、マリアが三百デナリもする高価な香油をイエスの足に塗ったこと、ルカ七・38には、罪深い女が、やはり高価な香油をイエスに塗ったことが記されている。こうした行動は、主イエスが人間の最も奥深い心を引きつけていくこと、主イエスの神からの愛に引き寄せられた者は、そのために自分の最も重要なものを捧げようとする心になっていくことを示している。
 私自身も、二十一歳のときにキリストと聖書を知るまでは、キリストとはまったく無関係な人間であって、およそ宗教というものに心惹かれたとか、何らかの関心などは皆無に等しかった。それが、わずか古い小さな一冊の本の一頁によって、キリストに引きつけられるようになった。
 人間世界には数々の心を引きつけるものがある。子供であっても上に立つことに目を注ぐ。子供仲間の上に立とうとする傾向である。趣味や娯楽、飲食なども引きつける。さらに異性は場合によっては全存在を引きつけるため、間違った異性愛のために生涯を破滅させてしまうことすらある。
 女性であると、身を飾ることにたえず心が引かれて大金をはたいてしまうこともみられる。
 こうしたさまざまのことに人間は引き寄せられるがそれらはたいてい、一時的である。どんな娯楽、快楽も生涯を通して引きつけるというのはまずない。けれども人間の最も奥深い本性を引きつける存在というのはたいていの人が経験していないことである。だからこそ、たえず自分を引っ張るものを変えているのである。 しかし、ひとたびキリストが私たちの心の奥深いところに宿るとき、キリストは私たちを日々、どこまでも引き寄せてやまない。なぜか、それはほかのあらゆる心を引くものの最善、最も美しいもの、最も力強いもの、最も変化あるものなどをすべて持っているからである。
 イエスの遺体の処置というようなふつうは目にも留めないようなことについて、聖書はさらにもう一人の人物のとった行動を記している。それはニコデモという人物である。
 ニコデモは、イスラエルの信仰のいろいろの派のうちでは、パリサイ派に属し、ユダヤ人議会の議員であり、律法の教師であり、指導者であった。そうした地位の高い人でありながら、イエスにどうしても尋ねたいことがあって主イエスを訪ねた。しかし多くのパリサイ派のユダヤ人はイエスを憎んでいたので、夜にわざわざ訪問したのである。
 主イエスはニコデモに対して、こう言われた。

(聖霊によって)新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。(ヨハネ福音書三・3

 この言葉はニコデモには理解できないことであった。たしかに聖霊によって新しく生まれるというようなことは、旧約聖書の膨大な内容にもほとんど記されていないことである。しかし、それでもニコデモは、分からないからといってあきらめることはしなかった。その後もずっと自らの内に、キリストに引き寄せられるある力を感じ続けていた。そしてそれがだんだんふくらんできたのが、キリストの処刑された時であったのであろう。
 だれもが恐れて逃げてしまうようなただなかで、ヨセフという人が、ローマ総督に特に許可をもらって、イエスの遺体を十字架から降ろし、引き取ることを申し出た。その時、ニコデモも待ちかねたように、高価な香料などを多量に持っていった。その量はおよそ、三十三Kg にも達するのであった。(*)これは、大人一人で、かなりの距離を運ぶのはむつかしい重さである。遺体に塗る香料とかのたぐいはそのような多量を要しない。それにもかかわらず、ニコデモは多額の費用をそれに注いだのであった。
 主イエスに引き寄せられた魂は自ずからこうした行動にと導かれる。周囲の者からみると、理解できない無謀なこと、無駄なことと見えるだろう。しかし、主の愛に動かされ、主への捧げものとしてそうせずにはおれない心になったのである。キリストは、そのような心にさせる力を持っている。
 同様なことは、すでに触れた箇所にも記されている。これは主イエスが十字架にかけられて処刑されるときが近づいてきたときのことである。

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ福音書十二・35)(**

 この場合にも、キリストの弟子であっても、このようなきわめて高価な香油を一度に主イエスのために注いでしまうのはあまりにも無駄であり、浪費だと思われたのである。しかし、主イエスに救われた者はそうせずにはいられなくなったのである。それが、まず神を愛するということなのであった。そのような神(主イエス)への愛に応えて、神ご自身が必要なことをして下さる。

*)聖書の原文には、「百リトラ」の量と書かれている。一リトラは約三二六グラムなので、百リトラはおよそ三十三Kgとなる。
**)当時は一日の給料が一デナリオンと主イエスのたとえにあるので、現在の日本では、おおまかに言って一日一万円とすると、この香油は、およそ三百日分の月給にあたり、日本では三百万円ほどにもなる。

 このように、主イエスの力は驚くべきものがあって、地上で福音を宣べ伝えておられたときにも、ハンセン病の人、貧しい人、重い病の人、さまざまの障害者といった多様な人々を引き寄せたけれども、死後もなおこうした地位の高い人、裕福な人をも引き寄せ、多額を捧げようとする心を起こさせたのである。
 宗教というと、その強固な組織で縛られ、組織のトップの言うままに洗脳されていき、人間の個性や自由も奪われ、金も奪われていくといった暗いイメージを持っている人が日本では多いようだ。
 けれども本当の神への信仰は、このように自発的であり、魂の奥から動かされて何かを捧げようとする心を起こさせるものである。それは人によって時間やエネルギーであり、祈りであり、愛の心であり、また物品や金であったりするであろう。どんな人でもこれらのうちの何かは捧げられる状況にあるので、神に深く引き寄せられた人間はそのように自発的に捧げていく道を歩み始めていく。
 水野源三という人も寝たきりで何十年も生きた人であるから、物品や金などを捧げることはできなかった。しかし、その詩には、主イエスへの精一杯の心がにじみ出ており、彼が心を捧げていたのだとはっきりわかる。

私のようなものが 水野源三

主イエスの御姿は見えない
御声は聞こえない
だけど
私のようなものが 喜びにあふれ望みに生きている

今年も毎朝

今年も毎朝
母に聖書を
一ページ一ページをめくってもらい
父なる御神からの
新しい力
新しい望み
新しい喜びを受ける

まだ母ら静かに眠る春の朝 寝床の中でみ言葉思う

 イエスの遺体を取り下ろし、墓に葬るという目立たない行動は、一般の人にはほとんど意味のないことであっただろう。もうあのさまざまの奇跡を行って、権威と力をもって教えたその人は殺されてしまって、すべては終わってしまった。残された人々はだれもまだキリストの復活などは信じられなかったし、そのような無惨に死んだだけのイエスが神のように罪をあがなうなどとも、信じられなかった。十字架処刑の直後には、イエスに関わっていた人々には底知れない虚脱感があり、神への疑い、深い悲しみや裏切ったという苦悩、無力感だけが残っただろう。
 しかし、そのような特別な状況のなかでも、キリストは人間を引き寄せ、精一杯の行動をとらせるのだということを、ヨセフとニコデモたちの記事が示している。死んでしまって何の意味もないような遺体にすら、そのような愛と真実を注ぐようにさせるのがキリストの力であったから、復活したキリストが絶大な力をもって、全世界の無数の人たちを引き寄せていくのは当然であった。この二人の記事はそうした以後の歴史に生じることを預言する象徴的な行動となったのである。
 さまざまの困難な問題が生じて、どうなっていくのか前途が見えないような現在の世界においても、主イエスは昔と変わることなく、たえず新しく人間を引き寄せておられる。そしてそのような複雑きわまりないこの世にあって、罪を赦し、本当の平安を与えて、自分の大切なものを神に捧げていく人間が生み出されていくであろう。
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