リストボタン私たちを担って下さる神    2003/2

 私たちは日々何らかの重荷を背負って生きている。その重荷は、病気であったり、家族の問題、また仕事上でのこと、あるいは友人や異性などの人間であったり、また、世界の多くの国々では貧しさや内乱などで、生きることそれ自体が困難な重荷であったりする。
 地位がなくて、いつ辞めさせられるか分からない状態も重荷であるが、地位が高くて責任ある場合にも別の重荷がある。職業生活にはそれぞれに苦しみもあり重いものを背負っているが、その職業を辞めたら重荷がなくなると思っても今度は、退屈とか病気、将来への不安など老年のさまざまの重荷がやってくる。
 こうしたさまざまの出来事のゆえに生じる重荷とは別に、もっと内的な重荷がある。それは自分が正しい道から外れているということである。過ぎ去った日々を思い起こすとき、あの時には○○すればよかったとか、○○したのは大きな間違いだった、もう一度やり直しがきけばよいのだがなどといった過去に犯した罪ゆえの苦しみと重荷がある。それは過去にとどまらず、現在の自分についてもどうしても除けない自分の内なる罪ゆえに、生きることが重荷となってくる場合がある。それは朝目覚めたときに、そうした重荷が自分を覆ってしまいそうになり、これからまた背負わねばならない重荷を思って苦しい思いで起きあがる人も多いだろう。
 また重い病気で、苦しみにさいなまれ、治らないのではないかという恐れを伴った不安は生きること自体を重くしてしまうだろう。
 このように、この地上で生きるかぎり、私たちにはさまざまの重荷があり、その重荷を除くことはできないのである。
 私たち自身が自分の背負わねばならない重荷で日々苦しめられている。そのような私たちの実態を知ってくださっているのが、すべてを見通し、憐れんで下さる神のまなざしであり、その重荷を担って下さるためにキリストは来られたのである。
 キリストは救い主だと言われる。何からの救いなのか、それはこうしたさまざまの重荷からの救いである。病気や人間関係、家族問題などいろいろの問題を、根本から重くしているのが、私たちの罪であるが、それに私たち自身は気付いていない。
 私自身、キリストを信じるまでは、他人や社会の罪は絶えず思い起こされても自分の罪というのは分かっていなかった。
 福音書に書かれていることであるが、中風で起きあがることもできず、長年寝たきりであった人を運んできて、どうしてもイエスに会わせたいとの熱意から、入る場所もない状態だったので、家の屋根をもはぎ取ってイエスのいる場所の前につり降ろしたという人たちがいた。そのような主イエスへの絶大な信頼に応えて、イエスが言われた言葉は、その病気をいやしてあげよう、というのでなく、「あなたの罪は赦された」であった。中風の苦しみと差別に耐えかねてきたであろう病人や運んできた人たちへのねぎらいや癒しでなく、彼らがだれ一人気付かなかった罪、真実なる神から心が離れていることを見抜き、それが中風の苦しみを救いがたいものにしていたことを知っておられたのである。
 このように、重荷の根源が罪にあることを知っておられたがゆえに、キリストがこの世に重荷を取り去るために来られたとき、それは罪を取り除くためというのが第一の内容になった。そして十字架上にて死なれたのもその罪の力を取り除くためであった。罪の力は最大の重荷であるからだ。
 主イエスは罪の重荷を取り除くという大変なわざを、ただ信じるだけで可能な道を開いてくださった。これは驚くべき道である。どんな学問や経験、あるいはよい家庭などであっても除けない、人間の奥深い本性を、何一つ償いとか、修業、費用などをかけずに、それぞれがただ心の真実をもってキリストの十字架を罪の赦しのためと信じて受けるだけでよいのである。私自身がそのようなきわめて単純な信仰によって、罪の重荷を軽くして頂いたのである。
 しかし、その赦しが与えられてからも、人間には病気や家族、また職場などでさまざまの重荷が残っている。それをどうするかということになるが、そのことについても主イエスは、重荷を取り除いてくださる道を備えてくださった。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの首木(*)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの首木は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ福音書十一・2830より)

*)首木(くびき)とは、丈夫な横木で造られた道具で、二頭の家畜の首に固定させ、車やすきを引かせた。軛とも書く。

 この主イエスの言葉は、罪赦された者が日々の生活で出会うどんな種類の重荷であっても、主イエスを仰ぎ、私につながっていなさいとの言葉の通り、主イエスにいつも心をつないでいるかぎり、その重荷は必ず軽くされるという約束だと言える。
 そのようなことはない、重荷はいっこうに軽くならないと言う人もいるだろう。長く続く病気や人間関係からくる苦しみからいかにしても解決の道が見えないときには、たしかにそのような気持ちにもなる。しかし、そのような時にそれなら他のどんな解決の道があるだろうか。人間の重荷や苦しみには金や医者や家族、友人などによってもどうすることもできないことも多い。
 そのような重荷を主イエスのところに持っていくだけで、担って下さるという約束である。持っていくところのない重荷を、主が共に担って下さる。解決の道がいつまでも見えないときであっても、それでもなお主イエスの約束を信じ続けるとき、神の力はそこに必ず現れる。
 こうしたこの世の重荷を担うことについて、すでに主イエスより五百年ほども昔に書かれたといわれる書物では、神ご自身がそのような重荷を負いきれないで苦しむ者を、担って下さることが書かれている。

同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ四十六・4

 苦しみのときに助けて下り、また、共に歩んで下さるということを約束して下さっている。その上に、私たちがもはや歩けないといったような弱り果てたときでも、神はさらに深い配慮をしてくださる。それはつぎの聖書の言葉にあるように、歩けなくなった者をそのままで担って下さるというのである。

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い
昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ書六三・9

 そしてこうした「担う」神のすがたは、別の箇所でもこのように記されている。旧約聖書の神とは、しばしば裁きの神とか、怒りの神などと言われることがあるが、決してそのような単純なものではない。そうした裁きとか怒りといったことも、まちがった道に行くならば必ず破滅する、本当の幸いから引き離されてしまうという強い愛の心からの警告であり、裁きといわれるものも、そのような苦しみを与えて本当の道、神を信じる道に立ち帰らせる目的があった。
 人間には、だれにでも最後にだんだん重い荷となってくる、老年と病気、そして死ということがある。とりわけ死ということはいかなる人もだれかの死を代わりに担うことなどできない。死という厳粛な事実に対しては、いかなる権力者や科学技術、人間の助言や働きかけもすべて力なくうなだれるばかりである。
 このような死という事態が襲ってきたときでも、神は私たちを担って、本来ならだれもその重荷のゆえに越えることのできない川のごときものを越えて、神に担われて神の国へと、キリストのおられる光と愛に満ちた世界へと導いて下さるのである。私たちが地上にある間は、最も重荷となる罪を赦し、罪への罰を身代わりに担って下さり、さらに私たちが死を迎えたとき、本来なら命を失って闇のなかに沈んでいく存在であったものを担って御国にへと導いて下さる。
 私たちの信じる神とはこのように、最も困難な重荷を最後まで担い続けて下さる神なのである。
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