リストボタン戦争と平和について   内村鑑三(*)の言葉から    2003/3

 現在のような世界の各地で動乱が発生している状況のもとで、私たちキリスト者はいっそうこの世が与えることのできない平和、主の平和(平安)を保っていることが必要であるし、またその平安をもってさまざまのことを見つめていくことが求められている。
 今からおよそ百年ほど前、日露戦争の始まったとき、日本中が戦争をあおる雰囲気で満ちていた。しかし、そのただ中にあって、内村鑑三という一人の真理の証人がいかにそのような状況を受け止めていたか、その一端を学びたいと思う。
 なお、内村の文は百年ほど前の力強い文語であるが、現在では使われない表現や言葉もあって、意味がよくわからないという声をたびたび聞いてきたので、現代のわかりやすい言葉にして記し、そのあとの○印は筆者の補足説明、感想などを記した。内村の原著を持っていて、原文がよくわかるという人は原文のままがよいのは当然であるが、これからの世代の人に対しては、もはや一種の翻訳が必要となっている。ここでは文語表現のよくわかる人だけでなく、だれでもがわかる表現で紹介したいと思う。

(*)内村鑑三(一八六一〜一九三〇)は日本の代表的なキリスト者。無教会といわれる、聖書の原点に立ち帰ることを強調する信仰のあり方は彼によって始まった。高崎藩士の長男として江戸に生まれ、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学。ここで「少年よ、大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士によってキリスト者となった。卒業後は水産研究に従事したが、結婚に破れて深刻な悩みと苦しみを抱えて渡米し、アマースト大学に学んだ。そこで総長のシーリー博士と出会い、十字架の信仰による救いを得て深い平安を与えられた。そのことが以後のかれの生涯を決定付けたほどに重要な出来事となった。帰国後、旧制一高の教員のとき、教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件として大きな問題となり、大きな苦しみとなった。これは内村鑑三不敬事件として知られている。しかしその間に「基督信徒の慰め」「求安録」「代表的日本人」などの名著が生まれた。さらに「万朝報」(よろずちょうほう)「東京独立雑誌」によって社会評論に健筆をふるい、足尾銅山鉱毒事件にかかわり,あるいは日露開戦に際しては非戦論を貫くなど、広い分野で神の言葉に立った言動を続けた。一九〇〇年創刊の「聖書之研究」誌によって、内村の信仰と、彼の聖書の深い読み方が全国的に知られるようになり、キリストの福音伝道に大いに貢献し、今日まで永続的な影響を与えてきた。

静けさのあるところ

 静けさは天然にある。神の造った天然にある。静けさは聖書のなかにある。神が伝えた聖書にある。
一輪のオダマキが露に浸されてその首(こうべ)を垂れているところにある。
 一節の聖句がわが心中の苦悶をなだむるところにもある。怒涛四辺に荒れるときに、私は草花に慰めを求め、聖書にこの世が与えることのできない平安を求める。

○聖書の言葉は、過去数千年を通じて、変わることなき真理を保っている。過去の歴史のなかには、戦争、飢饉、自然災害、病気、あらゆる事態が生じてきた。しかしそのようないかなる動揺と混乱においても、聖書の言葉は永遠に不動の神の言葉であるがゆえに、揺るぐことはなかった。現代の私たちもその歴史のなかを生き抜いてきた神の言に頼ることによって、この世の新聞や雑誌、テレビなどの与えることのできない平安を与えられる。
 また、身近な自然のすがたも同様で、それもこの世の人間社会が持っていない清さと平和を宿している。数千年といわず、何万年も変わることのないような静けさが小さな野草の花にはある。空のしずかな広がりや夜空の星の輝きもまた変わることなき平安を目で見えるかたちで私たちに示してくれている。そうしたところにつねに私たちの魂はとどまって平安を与えられる。

戦闘の止むとき

 勝つことが必ずしも勝つことでない。負けることが必ずしも負けることではない。
 愛すること、これこそ勝つことである。憎むこと、これ負けることである。愛をもって勝つことだけが永久の勝利なのである。愛はねたまず、誇らず、おごらず、どこまでも神への希望をもって忍耐をする。そして永久の勝利を得て永久の平和を与えられる。世に戦闘の止む時とは、愛が勝利を得たときだけなのである。

戦時の事業

 今や世に「燃える木」を投げ込む者は多く、静けさを世に提供する者は少ない。戦争を勧める者が多く、平和をうながす者は少ない。この時にあたってわれらは主の静けさの内にとどまり、この主の平和のうちにあって戦争に向けて熱している同胞に主の清涼を分かちたく思う。敵対心のゆえに心が渇いてしまっている者たちに、平和と友好の清水を提供したいと思う。戦争に関わる騒がしさを静めるために福音の清い音楽を提供しよう。
 平和はこの世から出ることなく、天より来る。天の神を世に知らせて、地は初めて平和に回復するのである。

騒乱にいかに対するか

 戦争などの騒乱はこの世では常に生じている。波は海にはつねに見られるのと同様である。この世にあって騒乱を避けようとするのは、海上に浮んでいながら揺られまいとするのと同様である。
 もし私たちが、この世とともにありつつも、騒乱に巻き込まれないようにしようとするなら、岩に頼らねばならない。「幾千年を経てきた岩」に頼るのである。
 この世はこの世にとどまっていたままでは救うことはできない、世を離れ、自分の身を「永遠の静けさ」(神のもと)に置いて、上と外からこれを救おうとするのである。それゆえに聖書は言う、「あなた方は、かれらの中より出で来なさい」と(コリント後書六章十七節)。

喜びの由来

 喜びは勝って来るのではない。また負けて来るのでもない。
 喜びは神がつかわされたそのひとり子を信じて来る。キリストの福音は戦時となっても必要である。また平常のときにも必要である。
 世に死と涙とのある間はその必要がなくなるという時はない。ゆえに「私たちは道を宣べ伝えなければならない、時を得ても時を得なくても励んで福音を伝えようと努め、さまざまの忍耐と教えをもって人をさとし戒め勧めなければならない」(テモテ後書四章二節)。

我々の非戦論

 非戦を論理的に説くことはむつかしい。しかしイエスキリストを信じることによって、あらゆる争闘は私たちが忌み嫌うものとなったのである。私たちの理性が納得させられる前に私たちの心が感化されたのである。どうしてそのような変化が生じたのか、その理由は説明できない。しかし私たちが、ひとたび心にイエスキリストを宿してからは、怒りや憎しみの角(つの)はことごとく折れて、柔和を愛する人と変えられたのである。私たちの非戦論はこの心の大いなる変化の結果にほかならない。

○非戦論は、現在の日本の平和憲法というかたちで、具体化されている。しかしこの憲法にも反対論があとを断たないことでもわかるように、だれもが納得するような論理的説明というのはなかなか難しい。
 それはこの非戦論というのが、愛と真実の神が正義の神でもあり、万能でもあるゆえに必ず神が最善になされるということ、また悪は時が来れば裁かれるという信仰から来ているからである。そしてキリストを信じてそれまで経験できなかった魂の平安を与えられた者は、そのような比類のない価値あるものを与えたお方が、決して武器をとらず、みずから十字架にかかって死なれたことを知るとき、他者への怒り憎しみといった感情はおのずと鎮められる。
 さらにキリストの霊である聖霊を少しでもうけるとき、武器をもって相手を殺害するなどという戦争行為には自ずから加わらなくなる。キリストによって私たちの心情の根本的変化が生じ、おのずから戦争への反対の心を生み出すのである。

イエス・キリストの御父

 神は昔は万軍の主として現れた。しかし今は十字架上のキリストとして世を悔い改めに導かれる。昔は正義の剣をもって背信を重ねる民を罰せられた。しかし今は愛の心をもってかたくなな心を砕かれる。さきには外より責められた神は今は内より説き勧められる。さきには厳格なる主であった神は今は柔和なる夫として現れてくださった。
 わが神は剣を抜いて異教徒を滅ぼした旧約聖書のヨシュアやギデオンたちの神ではない、世の罪を担って十字架に釘づけられたイエスキリストの父なる御神なのである。

○旧約聖書に現れる神と新約聖書にキリストによって現された神の性質とを比べると、重要な違いを見せることの一つが、戦争にかかわることである。旧約聖書においては神ご自身が偶像を拝む民と戦い、滅ぼすことを命じておられる。
 しかし、新約聖書にあらわれるキリストは武器による戦争とか戦いを全面的に退け、神の愛の力によって神が働かれることを待ち望むのである。それはまた、祈りの力でもある。キリストの精神を最もふかく受けついでいる使徒パウロも同様である。

 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。」悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・18〜21)

愛の十字軍

 私は何によってこの世界を救おうか。武力によらず、天国の喜びを世に提供して救いたいのである。すなわち新しい愛の心の力をもって、世のすべての低く卑しい心を排除し、これに代えて天の高き心を用いようと思う。異端を撲滅するための十字軍を起こすのでなく、痛める者をいやすためのよき香りともいうべきものを提供したい。私は愛と喜びと希望とをもって世を征服したいと願うのである。

○この世で真に力あるものは、武力とか憎しみや敵対心ではない。最もこの世で強力なものは神であり、その神が送って下さったキリストである。そのキリストの心に信頼し、すがる心は神の力を呼び覚ますゆえに最も強いものとなる。そしてキリストの心とは、神の国にある愛や喜び、希望であり、それらこそが真に力あるものなのである。御国を来たらせたまえ!という、主の祈りにある言葉は、この願いにほかならない。
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