リストボタン最も大切なもの    2003/4

 私たちが最も大切なものということで、何を思い出すでしょうか。まず、命、家族、お金、健康、仕事、といったものがほとんどの人で共通していると思います。それらは子供でもだれでもわかる大切なものだと言えます。
 しかし、それらは大切なものですが、 共通していることとしては、いとも簡単になくなってしまうということです。人間の命は、一瞬の事故で失われ、弾丸のような小さな鉄の塊によってすら、瞬時に破壊されてしまいます。家族も同様です。事故や病気で、またそうでなくとも、ちょっとした一言でも心が通わなくなり、冷たい関係になってしまい、そういう状態がひどくなっていくと、大切だという気持ちどころか、いなくなったらよいとすら思うようになるほどです。それが離婚といった形にも表れていきます。
 それらのもう一つの特徴は、簡単になくなるというだけでなく、心の深いところを満足させないということでもあります。どんなにこの命があって健康であっても、心が感謝や喜びで満たされているということにはなりません。
 逆に貧しく、健康でなくとも、感謝をいつも持って生きている人もいます。
 このように、最も大切なものと思われているものも、それがあまりにもはかなく、消えていくということのゆえに、人間生活全体にはかなさや空しさを感じさせるものとなっています。
 最も大切なものと思われている命や家族、友人の愛や健康すべてが死とともに消えていく、それなら今の生活も崩れ落ちる寸前だと言ってもよいわけです。あと五〇年、六〇年あるといっても、それらは永遠の時間から見れば、一瞬のようなものです。過去の無数の人間たちもみんな消えていったのです。
 そのような、死によってよいものも悪いものもすべてが消えてしまうという常識に対して、全く逆に最もよいものに変えられて永遠に続く存在とされる、という驚くべきことを啓示して下さったのが、キリストの復活です。復活とは死に打ち勝つ力が存在するということです。
 死とはあらゆる権力や金、人間的な愛や仕事など一切を滅ぼしていく力です。そのような根源的な力に勝利する力ということですから、この世のあらゆる 困難な問題にも打ち勝つことができるわけです。それは私たちの力でなく、神の力であり、天地万物をも創造した神の万能の力だからです。
 死という最大の力に打ち勝つということは、死に至らせる悪(罪)の力にも打ち勝つということです。
 それゆえ、パウロがなぜ、聖書のなかで、「キリストが私たちの罪のために死んで下さったこと」と「キリストの復活」を最も大切なこととして伝えたと言っているのかが分かります。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことコリント 十五・4

 罪とは真実と愛の神に背くようなあらゆる心の動きを含みます。その罪の行き着く先は、滅びです。自分中心の心はその人自身の魂のよい部分を次第に滅ぼしていき、ついには真実な存在からも自ら離れていってしまいます。それは生きているときからすでにその人の目の輝きがなくなり、声や語ること、その表情などにも生き生きしたものが消えていくことで、その人が滅びに向かっていることを暗示させる場合があります。
 
 復活という言葉は、私たちの日常生活ではほとんど聞くことがありません。死人の復活などおよそあり得ないことだ、と思いこんでいるのが大多数の日本人の実態だと思います。
 しかし、私にとっては、自分自身のなかで、新しい命を実感してきたので、最も身近なことでした。また、現在の私たちのキリスト集会の人たちにおいても、以前は闇であった人たちが復活の主の力を受けて、新たにされていったのを目の当たりにしてきたこともいろいろとあります。
 こうしたことは、つぎの聖書の言葉を思い起こさせるものがあります。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して死ぬことはない。」(ヨハネ十一・2526

 悩みや罪のゆえに、死んでいるのも同然になっていた心の状態が、主イエスを信じて新しい命に生き始めたからです。「死んでも生きる」という言葉は、
すでに死んでしまった者も、よみがえるという意味のほかに、そうした意味をも含んでいるのです。
 こうした経験を与えられた人は、無数におり、そうした人々によって復活は最大の重要事となって伝えられてきました。それゆえおのずと復活の日、つまり日曜日に集まるようになり、それが今日では世界的に日曜日が休みとなることにつながったのです。日曜日とは、復活の記念日とし、復活の主に礼拝を捧げる日として休みとなってきたのです。
 このように、復活ということは、自分の内的な経験や周囲のキリスト者たちの経験で身近なものであり、また日曜日が休みとなっているその出発点でもあるゆえに、制度的な方面からいってもごく身近なものといえます。
 復活を信じるとき、私たちの将来はどうなるのか、そのことについて聖書のメッセージを見てみます。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(ピリピ 三・21

 ここに私たちが最終的にどのように変えられるかということが、記されています。私たちが幼い頃から聞いてきた言葉は、「死んだら終わりだ」ということです。これは死んだら何にもなくなるということです。しかし、それなら人間はみんな死んでしまうのだから、最終的にはみんな終わりだ、ということになってしまいます。
 しかし、聖書では、神とキリストをただ信じて罪赦されて生きた者は、最終的には、キリストの栄光ある体と同じ形に変えて頂けるということです。キリストのからだとは、神と同じような体です。
 人間は罪深く、かずかずの過ちを犯し続けるものであるのに、そのような汚れた者、弱き者を、根本から造りかえて、キリストと同じように変えられるという ことは、真に驚くべきことです。それは、万物を創造し、支配している無限に大きい力によるからです。
 私たち人間が欲しているのは、力です。赤ちゃんが本能的に母親にすがるのは、幼児にとって母親が絶対的な力を持った存在だからです。子供になって、友達に頼るのはその友達が力を持っているからです。あるいはグループで上に立ちたいのも力を求めるからですし、学校で成績やスポーツに力を入れるのも、やはり上に立つことが力とつながっているからです。
 また、少しでも大きい会社に入ろうとするのも、そのような会社がより力があり、報酬も多くもらえる、金もまた人間を支配したり、物を購入することができるので、力を持っています。それゆえに人はだれでも金を求めるわけです。
 このような力を求めるという、人間の幼児からの本能というべき傾向は、国際的な問題でも現れます。今回のイラク戦争も軍事力という力を重要視し、それを用いることを強硬に求めたからでした。戦争は、武力という力を双方が用いようとする戦いだといえます。そして太平洋戦争では、そうした武力の究極的のものといえる、原爆が使われ、たった一発で二〇万もの人が死んでしまったのです。
 このように、地上では力を求め、力に頼ることからあらゆる紛争、戦いが生じるのがわかります。地位が高いことを求めるのも、高い地位が力を持っているからです。
 こうした地上のあらゆる力とまったく異なる力があります。それが神の力であり、死にも打ち勝つ力です。そのような力は当然、悪にも打ち勝つのです。
 こうした絶大な力を世に現して、それを信じる人がだれでも受け取れるように道を開いて下さったのが、キリストの復活ということでした。だからこそ、キリストの弟子たちが最初にキリストを宣べ伝え始めたとき、その内容は、キリストの復活であったのです。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。…… ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。
 神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と驚くべきわざとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
このイエスを、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
(新約聖書・使徒言行録2章より)

 これは、使徒の代表的人物であったペテロの初めての伝道の言葉として聖書に書かれているものです。以後二千年にわたって続いていくキリスト教伝 道の、第一声ともいうべきものは、きわめて単純な、「イエスが復活した」という証言であったのでした。
 ここには、隣人を愛せよとか、敵のために祈れ、あるいは偶像を信じてはいけない等などにはまったく触れられていません。それはいくらよい教えを聞かされてもそれだけでは、力は与えられないからです。実行していく継続的な力が与えられるのでなければ、こうしたキリスト教の教えなど到底永続的に実行できるものではありません。
 このことは、ペテロ自身、キリストから三年もの間、親しく教えを受けて、その奇跡を数多く目の当たりにしてきたのに、主イエスが捕らえられるとき、ひどい裏切り行為を犯してしまったのを見てもわかります。
 単なる教えでなく、教えを実行する力が与えられるのでなかったら、いかに多くの教えを受けても実を結ぶことはないのです。
 私たちは、復活の力を与えられているゆえに、今のこの世においても神の力を与えられつつ生きることができるし、さらに肉体の死のあとでは、キリストの栄光のすがたと同じ姿に変えられるという比類のない約束を与えられ、必ず実現される希望を与えられています。キリストの復活こそは、私たちの生きた 希望の源なのです。
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