リストボタン休憩室    2003/4

復活祭について
 日本ではキリスト教の最大の祝日である復活祭(イースター)はほとんど知られていません。
 クリスマスすなわち、キリストの誕生を祝うということは誰にでもわかりやすく、また普通の人も誕生祝いということは広く行われていてなじみがあります。またプレゼントをしたり、子供の心にも入りやすい上、サンタクロースやクリスマスツリー、クリスマスソングなど、神やキリストを信じない人たちにもなじみやすいものが多いからです。ことに、日本では、クリスマスプレゼントやクリスマス商戦、クリスマスパーティといったキリストや聖書と直接に関係のないことで用いられ、最近ではお正月以上に店も繁盛するとのことです。
 しかし、復活祭ということはそれに比べて比較にならないほど知られていません。それは誕生というだれにでもわかりやすいことに比べて、復活ということはふつうにはおよそあり得ないこととして受け止められているからです。その上、復活祭が毎年その日が変わる移動祝日であるということもなじみを薄くしています。
 これは旧約聖書にある過越の祭りが、春の満月の夜に守られていた地方があり、(*)またローマ地方ではその満月の次の日曜日に復活祭を守っていたので、古代において、いろいろと議論が重ねられた結果、現在では、「春分の日(三月二十一日頃)の後の、最初の満月のつぎの日曜日」という分かりにくい決め方になっています。

*)小アジア地方(トルコ半島)では、旧約聖書に由来する過越を、キリスト教の過越として守っていたキリスト者たちがいた。それは旧約聖書にあるように、ニサンの月の十四日(満月の夜)に守られていた。ニサンの月とは旧約聖書に出てくるユダヤ人の暦の月で、現在の私たちの暦の正月のような、第一の月である。いまの太陽暦では三~四月の頃に対応している。過越の祭りとキリストの復活がどうして関係づけられているかというと、キリストが十字架で処刑されたのは、ユダヤ人の過越の祭りの時であり、その祭りのときに捧げられる小羊として、主が死なれたと信じられたからである。

 また、キリストの復活が日曜日であったことから、世界的に日曜日が休みの日となっていますが、その制度を初めて日本が取り入れたときは、明治政府ですが、その政府はその成立の時から、江戸幕府と同様に厳しくキリスト教を迫害していたのです。しかし外国の強い抗議に直面して、ようやく一八七三年(明治六年)になってキリスト教を邪教と見なし、迫害する姿勢を止めたのでした。
 そしてその翌年に文部省は官立学校の日曜休日制度を定めたのです。その後一般にも日曜日の休日制度が徐々に広がっていくことになったのです。
 キリスト教を全面的に否定して迫害していた政府であったゆえ、そのキリスト教の中心となる日曜日の休日制度を取り入れるという際に、キリストの復活のゆえに日曜日が休日となっていて、それは復活の主への礼拝の日なのだというようなことを、国民に説明することは到底できなかったわけです。
 現代の私たちにとっても、二千年前にはじまったように、日曜日ごとに、主イエスの復活を記念し、その復活のいのちを新しく受けるということができれば、最も望ましいことと思われます。

春は、キリスト者でなくとも、死んだようになっていた冬枯れの木々がいっせいに芽吹き、野草も花を咲かせ、花壇にも色とりどりの花が咲いて、復活させる神の力を視覚的にも感じさせてくれる季節です。植物は季節によって定期的に新しくよみがえったような新緑や花を咲かせますが、人間は、そのように定期的に季節によって新しい命を与えられることはありません。私たちが心から求めるのでなかったら、神の復活の命は与えられないからです。「求めよ、さらば与えられん」(マタイ福音書七・7)という言葉の通りです。

聞き取ること、読みとること
 手話にしても英語のような外国語にしても、自分の思っていることを手話で現したり、英語で話し、書くことは何とかできても、手話を読みとることや外国人の英語を聞き取ることはまた別の難しさがあります。 手話も一つの外国語のようなものですが、自分の思っていることを手話で表すには、数ヶ月時間をかけて手話表現を覚えていけば相手に手話で通じるようになりまが、ろうあ者が話している手話を読みとるのは、人によって地方によって、異なる表現や省略もあり、また手話のはやさが早いこともあり、とても難しいものです。私も手話を長く使っていても、初対面のろうあ者の場合など、なかなか読みとりができない場合があります。これは英語などでも同様です。英語を読み話すことと、聞き取ることは別のことで、耳が慣れていないといけないし、国によって、また人によってアクセントも違っていたりで難しいことです。
 主イエスや神に対しても、私たちが思っていることを話す、祈ることは簡単です。そこに心も込めずに習慣的に主の祈りを唱えることもあります。
 しかし、神からの語りかけを聞き取ることは全く別のことです。 神はいろいろの場合に、いろいろのものを用いて私たちに語りかけておられます。時には個人的な祈りのなかで、また歩いているとき、本を読むとき、礼拝集会や祈祷会のとき、さらに病気や何らかの苦しみのときなどいろいろの状況にて語りかけておられます。また、樹木や野草などの花など、植物の姿や、夜空の星や夕焼、山の谷川の流れなど、神は万能であるゆえ、また霊的存在でどこにでもおられるゆえに、そうしたものを通して語りかけておられるわけです。私たちも一層そうした神からの語りかけを聞き取ることができるように、霊の耳を敏感にしていただきたいものです。


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