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154)ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、全く違った目で彼らを見ることができ、およそそのような場合にのみ、人間を正しく判断することができる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 四月二十一日)

 このような態度を他人に対して持つためには、自分が精神的に満たされている必要があります。自分の内にいつも不満や満たされるものを感じていないなら、どうしても他人に求めることになります。
 神によって、キリストによって霊的に満たされているときに初めて私たちは、他人に何かを求めるということがなくなっていきます。私たちは、たいてい特定の人からの好意、愛、評価を求めてしまいます。そうなると、どうしてもその人に気持ちが引き寄せられ、正しい判断や理性的に考えられなくなっていきます。私たちが間違った判断や行動をしてしまうのは、人間関係において、いつも他人から何かを得ようと、無意識的にすら考えてしまうからと思います。
そんなことは思っていないという人でも、他人から批判の言葉や、見下されたら腹を立てます。それは、その人が他人からのよい評価を求めているからです。

155)愛からなされることは、いかにそれが小さく、また取るに足らないものであっても、全く実り多いものである。神は人がいかに多くのことを成し遂げるかというよりも、いかに大きな愛をもって働くかを見られるからである。
 多く愛する者は、多くのことをなす。(「キリストにならいて」第一編十五・12より)

・ここで言われている愛とは、もちろん人間の自然に持っている愛でなく、神からの愛を指している。人間が持っていると思われている愛は、必ず自分への見返りを期待するものであり、それは愛でなく自己愛の一種といえるからである。
 この言葉は、主イエスが言われた、「人が、私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書十五・5)を思い起こさせる。主イエスにつながっているとは、主イエスの内にとどまっているといしことであり、それは右の言葉のすぐあとで、「わが愛のうちにとどまれ」(同9節)と言われているように、主イエスの愛、神の愛のうちにとどまることである。主イエスの愛のうちにとどまって、何かをなすときには、主が働かれる。
 「多く愛する者は、多くのことをなす」これは、神の愛をもってなす者は、外見ではいかに小さいわざのように見えても、神の目から見れば多くのことをなしているとみなされるし、逆にいくら社会的に目だったことをしても、自分の利得とか名誉のためになしているときには、愛からなされておらず、神の目からはそれはとるにたらないことと見なされる。


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