リストボタン一つのビラと神への方向転換    2003/5

 四月二十九日に、キリスト教独立伝道会主催の講演会にて、右にあげた内容「悔い改めよ、天の国は近づいた!」という題で話をする機会が与えられました。
 その話を聞いた方から、来信と「ともしび」という伝道誌が送られてきて、その方の若いとき、今から四十年ちかく前の経験と、今回の話しとの関連について書かれてありました。
 その方は、有名大学への進学を最高の目的とする高校で、みじめな経験をし、大学受験にも失敗し、仕事についた、その時に思いがけなく与えられた聖書の言葉を見て、大きな変化が後に生じていきました。この文章は、そうした人生の重要なとき、与えられた経験について書かれたものです。 これは証しとして書かれているので、神の不思議な導きの一端に触れて頂きたいと、少し長いのですが、引用をさせて頂きました。

生徒同士の人間関係も冷たいものであった。受験競争で勝ち抜く、それには自分の点数をあげなければならない。他人のことなど考えている暇がなかった。自分のことさえ考えていればよかったのである。他人に勝って、自分の点数をあげる。これが生徒の本分であり、これ以外何もなかった。私は落ちこぼれの生徒になっていった。
 そんな中で、私は友人を失い、精神的にも不安定な状態になっていった。今まで考えてきた自分の価値観が、足元からガラガラと崩れていくのを感じた。ああ、何でこんな学校に入ったのだろうという後悔がおそった。
 やがて、三年生になり、私は地方の大学を受験したが、失敗してしまった。予備校に通えるような経済力もなく、職を転々として、三山電鉄(現在廃止になっている)に勤務するようになった。私はそのある駅に勤務することになった。駅長と私の二人勤務で、仕事は何でもしなけれぱならなかった。
 ある日のことだった。昼頃だったと思う。私は、プラットホームの掃除をしていた。ふと、線路を見ると一枚の広告紙(ビラ)が落ちていた。掃除をしなければと思い、線路に降りて、そのビラを拾い上げた。B5程度の大きさのビラだったと思う。それを見て驚いた。それには大きな字で次の聖書の言葉(黙示録二十一章からの言葉)が書いてあったのである。
「涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや苦しみも労苦もない」
 私が見た文には確か、「苦しみの叫びもない」とあったと思う。
 私は背筋に電気のようなものが走るのを感じた。いままでの苦しみがスーウッと体中から抜け去っていくのを感じたのを覚えている。
 あの当時は無我夢中であった。聖書も読んでおらず、自分の心中に何が起こったのかもわからなかった。 しかし、あれから四〇年あまり、今考えると、人間の世界で四面楚歌の状態にあった当時の精神状態が、神の国、つまり天の御国に心が向けられたのではないか、と思う。この世がすべてだ、と思っていた私の心に、神の国が映し出されたのではないか、と今は考えるのである。
 今年の四月二十九日に「キリスト教独立伝道会総会」で、吉村孝雄氏の講演があった。演題は「悔い改めよ。天の国は、近づいた!」であった。その折、吉村氏から「悔い改める」とは、この世のことから神の国に心の向きを変えることだ、と教わった。
 私は思った。なるほど、これが、救いなのだと。それまで何回か「コンバージョン」という言葉でこういう類のことを見聞きしたことはあった。しかし、このたびほど私の心に響いたことはなかった。それと同時に、あの十八歳の時の体験は、「天の国」に目を向けることであったのだといまさらながら自分でも気づき、驚いたのであった。(「ともしび」二〇〇三年五月号より 山形県寒河江船橋町四~四 黄木 定 氏発行)

・この証しを書かれた黄木さんは、最近教職を辞して、福音伝道のための歩みへと決断された方です。この文を読んでいて、星野富弘さんのことが思い出されました。彼は、体育教師であったときに転倒し、以後、首から下が動かなくなる重度の障害者となったけれども、後にキリスト信仰を与えられ、さらに口で描いた絵と詩で知られるようになった人です。つぎに彼がはじめてみ言葉との出会いが与えられた時のことが書かれている箇所を、その著書の中から一部引用しておきます。
 
 たしか高校生のときだった。豚小屋の堆肥を籠に背負い、畑に運んでいた。暑い日であったうえに、堆肥の熱が背中に伝わり、汗びっしょりになっていた。細く急な坂道を上っていると、突然真っ白な十字架が目の前に現れた。そこは小さな墓地で、十字架は建てられたばかりの真新しいもので、花束も添えられてあった。その十字架のおもてには、つぎの短い言葉が記されてあった。
「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」
 思えばこれが、私と聖書の言葉との最初の出会いであった。
しばらく立ち止まり、声に出して読んでみた。心に何かひびくものを感じた。
 「我に来たれ」とはどういう意味なのだろう。畑仕事をしながらも、それからずっと後まで、その疑問が私の頭から離れなかった。(「愛、深き淵より」一三三~一三四頁 立風書房刊)

 こうした全く人間の側からは偶然としか思われないようなことが、実は後になって生涯のきわめて重要な転機であったと知らされたのです。それは神ご自
身が、私たちの生活のただなかに来て下さって、私たちの魂の方向を、神の国へと向け変えて下さったことだと知るのです。
 こうしたことは、社会の状況や本人の心がどこを向いているかということすら関わりなく、ただ神の憐れみと恵みにより一方的に与えられた方向転換であり、本人がまだ目覚めていないときからすでに方向転換への啓示がなされていたのがわかります。
 私自身も、自分ではまったくキリスト教など関心なく、求めてもいなかったときに、たまたま立ち寄った大学の裏通りの古書店で見つけた一冊の本、何気なく手にとった本のあるページのわずかの言葉から、人生で最大の方向転換をさせて頂いたのです。 
 こうした呼びかけや光は、人間の予想を超えたところで働くこと、そこに私たちの大きい希望があります。神は過去数千年にわたって、こうした呼びかけを送り続けてこられたし、 今後もどんなに社会状況が混乱に陥ろうとも、また時代が大きく変わっていこうとも、神はその御心によって、予想しなかったような人を呼び出し、救いを与え、さらにその福音を宣べ伝えさせるのだとわかるのです。

あなたを創造された主はこう言われる。
「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(イザヤ書四三・1より)

 このような神からの呼びかけが、闇のひろがるこの世の生活のただなかに突然聞こえ、すでに信仰を持っている人にも、困難なおりや動揺するときに、このような励ましが響いてきますように。
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