リストボタン北海道でのこと    2003/7

瀬棚聖書講習会について

七月十八日(金)の夕方から二十一日(月)の昼まで、北海道の日本海に面した瀬棚郡瀬棚町にて、第三十回瀬棚聖書集会が開催され、今回初めてその集会にて聖書の講話を担当することになりました。北海道は三十八年前に学生のとき、山ばかりを登ろうと考えてテントなども携行して一人で出かけて以来のことでした。
今回の聖書講習会では、天の恵みを数々受けて祝福された数日間でした。多くの人たちによる準備や当日の私たちへのお世話、また徳島聖書キリスト集会の人たちには私の体調が最近すぐれなかったこともあって、とても心にかけて祈りをもって備えて下さって、主にある愛を感謝でした。
一週間前には、阪神方面での聖書講話を三日間かけて担当する予定でしたが、二日間に短縮したり、北海道に旅立つ一週間ほどは、一〇日ほどは集会も休み、体調がもとに戻ることを第一にして備えることにしました。この数日間、主がともにいて、支えて下さったのを感じています。
私たちの集会員あるいは参加し始めている人、それから県外にいるかつての集会員も加わり、五名がともに参加できたことも感謝で、埼玉県から参加された栗原庸夫(つねお)兄たちとともに、瀬棚の人たちとの合同の集まりのような面もありました。
 数カ月まえにはそういった町の存在さえも知らなかったところでしたが、今回のような聖書を中心とした集会が三十年ほども続けられていることに驚くとともに、それが酪農をやっている人たちが大部分を占めていると知っていっそう意外な気がしていました。
全国にこうした夏期の聖書講習会のようなものは多く開催されており、農業をしている人が多く加わっている集会も知っていますが、酪農業をしているひとがほとんどであるような集会というのはきいたことがなかったからです。
 北海道に着くと、肌寒く、体調が十分でなかったこともあって、その気温の低さが予想外でした。これは例年にまして寒いとのことでした。
 車で今回の集会の責任者である西川 譲(ゆずる)兄が迎えに来ておられ、私たち四国からの参加者五人と、埼玉県の栗原兄たちを車で運んで下さいました。走り出してまもなく、湿地の原野に、アヤメかノハナショウブと思われる野草の花が点在していて、他にも関西では見られない花があちこちに見られ、山間部になると、オオウバユリの野性的な姿も多く見られました。
北海道の瀬棚町といっても、四国の人にとってはほとんどが知らないと思われます。この日本海側の人口三千人ほどの町に、いまから百年余り前に、同志社大学出身の一学生(志方之善)がこの地方に入ったのが、キリスト教が入った最初で、その後、その志方(しかた)と結婚した、日本で初めての女医となった、荻野吟子(おぎの ぎんこ)もキリスト集会であったので、この夫妻によってキリスト教の種が蒔かれました。それ以来、この地方や隣接する地域にキリスト者の開拓者が入ってきて今日に至るまで、キリスト者たちの多い集落となって続いてきたということです。 
 今回の集会にて印象的であったのは、酪農業をしながら三十年という長い間を、最初に開拓に入った人たちとそのつぎの世代の人たちが一緒になって開催していること、夏の聖書集会の責任は、次の世代の人たちにゆだねられて、若い世代が去年から企画運営しているということでした。開拓した世代の人といっても、まだまだ現役で酪農をやっておられる人たちであり、十分に聖書集会も企画運営できる人たちであるけれども、若い人たちへの信仰的訓練と、信仰の受け渡しという意味を兼ねてなされていることと思われ、このことも異例のことだと感じました。
 今年はとくに寒くてセーターなどが不可欠の状態で、外には真夏とは到底思えない春先のような冷たい風が強く吹いていて、夕日の射す瀬棚の町の風景と周囲に広がるうねうねとした丘陵とあいまって日本ではない、どこか外国にいるような感じがありました。
 集会は部分参加の人が大部分で、乳牛に関係した仕事を朝に夕にしつつ、集会に参加するという状態で、これも他ではない形です。何らかの形で参加していた人たちは連れてきていた子供も含めると四十人ほどはいたように思います。子供たちと、その若い親、さらにその親と三代の世代が集まるという集会で、もとは、ある方の孫が生まれたときに、若い世代に何とかキリストの福音を伝えたいという願いから始まったとのことで、長く横浜の堤道雄氏が年に一度瀬棚町に来られて聖書講話をされていたということです。
 関西では考えられない、広大な森林や原野、点在する酪農家、となりの家が時にははるか遠くにあるという環境のなかで、自然一色に包まれて、そこでキリストの福音を信じて信仰を続けて来られた人たち、素朴さと生活に密着した力が感じられ、その背後にそうした人口三千人ほどの小さな町にも長い年月を導かれたキリストの力が実感されたことです。 
 今回は、ちょうど、四十年前に地元教会のワークキャンプ(キリスト者の若い人たちが何らかの仕事を泊まりがけでする。この地域ではとくに酪農を実際に手伝いをする)に参加していた人たちが今は全国に散在しているが、その人たちが四十年ぶりに一種の同窓会をすることになって、その八人ほどの人たちとも教会の礼拝や食事など部分的にともに参加することにもなりました。
 今回は聖書講話が中心で、土曜日から月曜日まで七回ほど(主日礼拝説教も合わせて)、合計時間では、七時間ちかい時間がそれにあてられていましたので、なるべく変化をつけるために、旧約聖書と新約聖書の双方を用いることにし、旧約からは創世記と詩編、新約からはマタイ福音書とパウロの手紙から選びました。
二十日の日曜日には、日本キリスト教団の利別(としべつ)教会の主日礼拝での聖書講話(説教)を担当することになっていて、創世記からの聖書講話を三十分ほど語りました。その日は、前述の四十年ぶりのワークキャンプの同窓会に参加した人たち(東京や埼玉など)、そして私たち、それから地元の教会関係の信徒とその子供たちも集まったために、全部合わせると六十人以上は参加していたようでした。
礼拝のあと、そのような遠くいろいろの地方から参加した人たちを歓迎するために、教会にて特別なメニューでの昼食となり、交流の機会ともなりました。
この瀬棚地方といっても、大多数の「はこ舟」読者の方々には未知のところと思いますので、少し説明をしておきます。北海道南部の日本海側にあり、函館と札幌のほぼ中間部といえる位置にあります。
札幌からでも、一部(札幌-小樽間)高速道路を用いても四時間半ほどもかかるところです。
瀬棚という所は、広大な北海道のなかで私たちには全く未知のところでしたが、そこにおられた人々のうちには、以前から私たちの集会のテープや「はこ舟」誌を毎月一度お届けしていた方のご子息や孫にあたる方々が参加されていると知って、神の導きの不思議を感じたことです。ことに、今回の聖書集会の責任者であった、西川譲さんの祖母であった、西川 ことさんは、今から一年半あまり前に、私が静岡での合同集会に聖書講話に出向いた際に、会場となっていた二階にも上がれない状態であったけれども、熱心な方で参加の気持ちが強く、何人かの人が車椅子に乗せて運び上げて参加されたのでした。その後数カ月で、西川ことさんは九十歳で天に召されたのです。そのようなわけで、特別に印象に残っていたのでした。
また、この瀬棚聖書講習会で以前の責任者であった野中正孝さんのご両親は一九九五年からの「はこ舟」の読者で、時々来信あり、奥様はすでに四回も脳の切開手術をされたこと、その後も後遺症や糖尿病など病気の苦しみのこととともに、「はこ舟」を楽しみに待っていると書いてこられたのを覚えています。(九九年十一月の来信)
そうした方のご子息やその孫に当たる若い人たちが何人も参加されているのを知って、とても思いがけないことでした。
また、日曜日の礼拝のあとで、会場となった利別教会に属している方が来られて、「祈の友」会員であることを言われ、このようなところにも祈りの友としての結びつきが与えられていることも感謝でした。

礼文島でのこと

今回は、聖書の講習会の後で礼文島を訪れることができ、いっそう強い印象を与えられて帰途につくことができました。
四十年近くまえに、学生時代に礼文島で数日間とてもお世話になったKさんのところにできれば行きたいと願っていました。Kさんご夫妻はたまたま山道で出会った行きずりの山登りしている学生にすぎなかった私に、それまでの経験では考えられないような親切と好意を注いで下さったのです。
 私はどうしてこんな全くの他人にこんなにしていただけるのかわかりませんでした。日本の最北の島では自然の人間に与えられている、神のかたちとしての善意がそのまま保たれているのかと強い印象を受けたのです。
 礼文島から始まって二〇日あまりを一人で、テントも持って、大雪山とか十勝岳、羅臼岳、雌阿寒岳など、北海道の山々に登り、また人の行かない湖や海岸などをたずねて歩き続けたので、その印象は今もそのままに鮮やかですが、そのような自然とそこに住む人間の真実な心が織りなされるときにはいっそう深いところに刻まれるものです。礼文島でのKさんご夫妻との出会いはまさにそのようなものでした。
今回は健康上の問題もありましたので、無理かもしれないと思っていました。しかし、数十年も機会はなかったのですから、今回を逃せばもう二度とその機会はないと思われました。わずかの時間でもと考えて、思い切って予定に組み込みました。
私が教員を十年ほど前に退職したときに、記念の旅行券を支給されていたのですが、いままではずっと夫婦で旅行するといった機会がなく、そのままになっていました。しかし、今回初めてその機会が与えられ、旅行券も使うことができることになり、それを用いて、わずかの時間でしたが、礼文島を訪れ、三十八年ぶりに再会することができました。
 大学二年のときに初めて訪れてからもう何十年にもなりますが、それ以来しばしばKさんご夫妻は私に礼文島にくるようにと招いて下さっていました。しかし、日本の最北の島でもあり、はじめからそんな機会はないだろうと思ってあきらめていたのです。
今回せっかく訪問できても、午後五時すぎに着いて、翌日の朝十一時にはもう離れるということで、かつてお世話になった人と会うことだけできたらと思っていましたが、その人の家に着くと驚いたことに、その方のご子息夫妻や孫など親族の方々が集まっていて、私たちを歓迎して下さり、その地方の珍しい海の幸などたくさん用意して待っていて下さっていたのです。Kさんのお孫さんもすでに結婚されている方が多いようでしたが、一人のお孫さんは、ボーイフレンドとともにその場に加わっていました。
 全くの他人にすぎないし、もう四〇年ほども会ったこともない、ゆきずりの旅人であった私に対して、そのような形で迎えて下さることが驚きでした。
その人の前述の人とは別の孫であるYさんがお母さんとともに夕方近いのに、私たちを車に乗せて下さって、高山植物が咲き乱れる美しい場所へとつれて行ってくれました。そこからは、海を隔てて、富士のような美しい姿で利尻岳(標高千七百メートル余)が海の中にそびえているのが正面に見えて、それを見ている足元には、数々の高山植物群落が四国では考えられないほど豊かに咲き誇っている光景が広がっていました。
それは、他では見られないような静けさに満ちた光景であり、ほとんど人もおらず、海中に浮かぶ雲をまとった神秘的な山と海、そして九州、四国、近畿地方などでは決して見ることのできない高山植物の大群落は、神の創造された特別な園に置かれた感がありました。
それは三八年前に初めて見て以来、ずっと心に焼き付けられていた光景でしたが、前回はゆたかな植物群落のことは少ししか見ることができなくて、知識もわずかであったのですが、今回はそれ以来四〇年ちかく、いろいろの地方の植物に接してきて、植物に関する知識もはるかに増加していたので、いかにこの地域が、貴重な植物たちが一面に広がっているか、その豊かさに息をのむほどでした。
これは、私にとっては、たしかに「神の言葉」でありました。神の国のことをいろいろと私に語りかけてくるものであり、それはいまも心に響いているのです。この世の汚れと不真実に満ちた世にあって、神は自然のなかに御国のおもかげを刻みつけておられるのでした。
他の地域なら、高い山を長時間かけて登り、ようやく一部の地域にて見いだせる貴重な植物たちが、ここではあふれるばかりに育っていて、私に語りかけてくるのです。そしてまだ、一〇代であった頃、山という自然によって初めて目に見える世界と異なる清い世界、力に満ちた世界をほのかに感じた私にとって、今回の礼文島で接した自然は、神の国を思わせる美と清いものに満ちた世界を新たに刻みつけてくれた思いでした。
夕暮れ近くであったゆえに、他の人もほとんどおらず、火山特有の一面に広がるなだらかな草原状の山にあって夕日が射していて得難い美しさのひとときを恵まれたのです。
 瀬棚という地では神とキリストを信じる人たちの織りなす場にて新しい息吹を受け、神がいかに歳月を超えて人間を導き祝福を与えられるかを目の当たりにして、神の生きた導きを知らされました。
また、礼文島においては、かつて何のゆかりもない他人にも、心からの親切をもって対して下さり、四〇年近く一度も会ってなくともなおつながりが消えることのなかった人間の好意、そしてそれを包む美しい自然がやはりともに神の愛や万能の力を指し示してくれたのです。
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