リストボタン神が聞かれる祈り  2003/8

私たちの祈り、願いは聞いていただけるのか。それはだれもが大きい関心を持っていることであろう。聖書にはこのことについてどう書かれているのだろうか。
ヨハネの手紙に次のように記されている。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。
これが神に対するわたしたちの確信である。(第一の手紙五・14

ここではっきりと言われているのは、何でも願ったら聞かれるというのでなく、神の御心、すなわち、神のご意志(*)にかなったことを願うときには、かなえられるということである。そこで、私たちがまず求めるべきは、自分の願いや祈りの内容自体よりも、神のご意志であることになる。

*)各種の日本語訳聖書では、ほとんど「御心」とか、「御旨」と訳されているが、原文は、セレーマ(thelema)であって、「意志」という語である。日本語訳では、古い永井直治訳、最近の岩波書店から出ている訳などが、「意」と訳している。しかし、外国語訳では例えば二十種類ほどの英語訳をみてもすべて「will」と訳している。ドイツ語訳では、Willen フランス語訳では、volonte を用いていて、これらの外国語訳もみな「意志」という意味の語。
日本語の「心」という語は心やさしいとか、心惹かれる、あるいは心を痛めるなどのように、「意志」よりも感情を表す語として使われることが多い。


神のご意志がわからなければ、私たちは神のご意志に反することを願うことが多くなるだろう。
例えば、職場で嫌いな人間がいる。その人を除いて下さいというのは信仰があるなしに関係なく、だれでもが願うことだろう。また、自分が人からほめられたり、人が注目するような人になりますようにとか、もっと容姿がきれいになりますようにといった願いは、やはり神を知らない人でも子供でもだれでもが持つような願いである。
しかし、例えば職場で信頼できないようないやな人がいるとする。その人をすぐに除いてもらおうという願いは神のご意志にかなうことなのか、それとも、その人とともにいるのにも耐えられる忍耐を与えようと神は意図されているのでないだろうか、さらにそのいやな人が真実な人になるように神に祈ることが求められているのではないだろうか。
また、人からほめられたり、外見の容姿がきれいになりたいという願いより、内面の心が清められ、真実な心になって神に喜ばれる人になることを主が求められているのでないかと考えると、どちらが神のご意志なのかということは、はっきりしてくる。
また、苦しみや悲しみのときに、死にたいというような気持ちになる場合も、長い人生の間には生じることがあるだろう。そのようなときにも、今死にたいというのは、自分の意志や願望であるが、神のご意志はそのように死ぬことを望んでおられるのか、神は私がその苦しみに耐えて、神への信仰を一層深くすること、その苦しみによって自分の心が耕されることを望んでおられるのではないかと考えるときには、やはりいずれが神のご意志なのかが分かってくる。
それゆえ、主イエスは、私たちがまず求め、祈るべきこととして、主の祈りにおいて、「御旨(ご意志)がなりますように」ということをあげておられるのである。これは、まず神のご意志を求める祈りである。
このように、私たちの願いをまず出すこと以上に、神のご意志を求めることの重要性がわかる。

それから、つぎにヨハネ福音書で言われていることを思い出す。

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ福音書十四・1314より)

これはわかりにくい言葉である。単にイエスの名前を使ったら何でも願いが聞かれるということでないのはすぐにわかる。「あんないやな人を除いてください、イエスの名によって祈ります」、などという祈りが聞かれるはずがないことは誰でもわかる。
イエスの名とはイエスご自身であり、イエスご自身が神と同質であり、イエスは何でもできることを心にはっきりととどめた上で祈るということである。
それは、マタイ福音書の八章(*)に書いてあるように、イエスのただ一言でもいやされると信じることである。


イエスはすべてをなすことができると信じた上で祈るとき、私たちは主の名によって祈ったということになるし、当然イエスが私たちのとりなしもして下さるという意味も含んでいる。私たちの祈りの後に、「イエスの名によって祈ります。」というのもそれである。主イエスへの絶対の信頼をもって祈りますという意味なのである。
さらにヨハネ福音書では次のように記されている。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。
そうすればかなえられる。(ヨハネ福音書十五・7

ここにも、はっきりとどんな祈りが聞かれるのかが示されている。それは、主イエスに留まり続けること、主イエスの言葉がつねに私たちの内に留まっていることである。私たちの心はいつも何に留まっているか、それは自分自身が知っていることである。日常の家族のこと、仕事のこと、特定の人間それは、人間的な意味での愛を注いでいる人間、あるいは赦せない相手とか憎しみとかでいつも忘れられない人間である場合もあるだろう。また、音楽や自然、書物などであるかもしれない。しかしそうした一切のことに優先していつも主イエスが心にあるのかどうか、主イエスの言葉とはすなわち、神の言葉であるから神の言葉がいつも心にあるかどうか、生きておられる主イエスからの語りかけがいつもあるかどうかをここでは指摘されている。
私たちが祈るときに聞き入れて下さる祈りとは、こうした条件にかなった祈りであるということになる。
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