リストボタン人間の弱さ  2003/8

人間は弱い。私が子供のとき、四十歳、五十歳にもなる大人は強いと思っていた。力も強いし、考えもしっかりしていると何となく思っていた。
しかし、自分がそのような大人になり、自分自身や他の大人を見てもはっきりとわかることは、人間はいつまで経っても弱い存在であるということだ。最近も、ある人と話していて、一般的な話をしていたのに、その人が突然涙を流し始めたことがあった。心にずっとたまっていた問題についての悲しみがふとあふれてきたようだった。
何十年と経験を積んだからといって、人間は強くなるというのではない。かえって、生きることの難しさに打ちひしがれて心が弱くなっていく場合も多い。友人や家族など信頼していた親しい人から裏切られ、また別れて孤独になることも多い。そのような経験を重ねると強くなるどころかかえって自分を支えていたものが次々となくなって、頼るものを失い、弱くなってしまう。
さらに、若い間は仕事や育児など、子供や仕事のことで気がまぎれることもあるが、老年になるとそうした支えになっていたこともなくなる。
そうした弱さは、人間の体がふとしたことからも病気になったり、異常を生じたりすることとも関係がある。体の具合がわるいと、少しのことにも耐えられなくなるからである。ずっと気分がわるく、体調が不全であるときには、心も弱くなりがちで、ちょっとしたことにも揺り動かされやすくなる。
それから、人間の弱さは、人を恐れるということと深く関わっている。私たちは、自分の弱さゆえに他の人間を恐れる。自分がこのことをしたり、発言したら周囲はどんなに言うか、それを気にするから思うこともできない。そうした人間を見て恐れるとますます私たちは弱くなる。
地位が高かったら人を恐れないかというと、そうでない。例えば地位が特別に高いのは天皇とか総理大臣である。地位が高いということは、その部下や周囲の人間の支持が必要である。だからたえず周りの人間の意見や考えを恐れることになる。地位が高いほど、多くの人の注目するところとなる。だからこそ、一言を発するにもいつも細心の注意をしていかねばならない。不用意な一言が大変な問題を引き起こすことがあるからだ。天皇は形式的には最も地位が高いところにあるが、最も人を恐れていなければならない。だから自分の思ったこと、したいことすら何もできない。いつも周囲の厳重な監視のもとに置かれていて、それを無視しての言動があればたちまちそのようなことを言わさないようにされてしまう。
また、暴力をふるったりする人間は強そうに見える。 しかし、暴力をふるう心は、相手を恐れる心である。恐れているからこそ、暴力で倒さねばということになる。戦争も、相手国を恐れるからこそ、巨大な暴力(軍事力)をもって相手を倒そうとする。
個人的な憎しみもまた、弱さの現れだといえる。相手からの不当な言動、見下したような言葉や仕打ちに対して、憎しみが生じる。しかし、もし私たちが、本当に強いならそうした不当な言動を気にすることなく、見過ごし、または忍耐をする力があるはずである。私たちがそうした他人の悪に耐えられないからこそ、憎しみが生じる。そういう意味で、人間関係に憎しみが生じるのも、悪しきことを言う人間の弱さとそれに耐えられない人間の弱さが絡み合って生じることである。
主イエスが、「敵を愛せよ、あなた方に悪をなそうとするもののために、祈れ」と言われたのは、こうした弱さからくるさまざまの問題の解決の道を指し示したのであった。
そしてそのためにこそ、キリストは来られた。
学校教育とか一般の道徳教育では、人間が努力して、意志の力で強くなれと言う。しかし私たちの現実を見るとき、どのような意志の強そうな人間でも、やはり内に弱さを持っているのである。意志の力が強そうに見えるのも、弱さを見られないように隠しているだけなのである。人間の弱さは、そのような内面的なことだけでなく、事故やガンなどの病気によっていかに弱いかだれでも思い知らされるものである。さらに死ということの前には、どんな意志の強そうな人間や暴力、武力あるいは権力を持っている人間もみな同様に無力であって、死の力にはみんな飲み込まれていくほかはない。
このようにどこから見ても人間の弱さはどこにでもみられるし、私たち自身が日々痛感していることである。
その弱さという事実から、キリスト教の信仰は出発している。心の内面の弱さ、それが人間の根本にあるが、それを罪という。正しいことやよいことがどうしてもできない弱さ、それが罪なのである。その弱さそのものである、罪を認め、それを赦して下さるお方としてキリストが来られた。私たちの弱さを代わりに担って下さるために主イエスは来られた。
そのような内面の深い問題を解決できるということは、キリストがただの人間でないこと、神と同質のお方であるということになる。それが、キリストを神の子と信じるということである。そのことを信じるときに、ただその信仰だけで、私たちに新しい力が与えられ、神の子どもになることができる道を開いて下さった。神の子どもとは、この世の悪に染まらず、負けないで、神の清めと力を受けて生きる人間ということである。
キリスト教とは、弱いものへの福音に他ならない。新約聖書の最初にある有名なキリストの教えはそれを示している。

ああ、幸いだ、心の貧しい者たちは!
天の国は彼らのものである。
ああ、幸いだ、悲しむ者たちは!
彼らは(神によって)慰められるからである。

心に何も誇るもの、頼るものもなくなった状態、それを「心の貧しい者」と言われている。それは自分の弱さを深く自覚した心である。そうした心をもって、そこから神に求めるとき、神は天の国という最もよいものを与えて下さる。天の国とは神の支配のうちにあるあらゆるよきものを指している。愛や真実、力、清さなどなどをすべて含んでいる。
また、自分の愛するものを失い、あるいは信頼していた者から背かれ、また老年になってすべてを失っていくことへの悲しみ、病気や事故によって働くことも、かつての元気な生活も二度とできない状態になっていく悲しみ、自分の罪によって他者を苦しめ、悲しみをあたえてきたこと、そうした二度ともとに戻せないことへの深い悲しみなどなど、この世界では生きるかぎりそれぞれの人がそれぞれの悲しみをもっている。
そうした悲しみもまた、人間の弱さから生まれるものであって、キリストはまさにその弱さから、神の国へと通じていることを、この有名な教え(山上の垂訓)で語っているといえよう。
パウロのような、キリストの最大の弟子もその弱さを深く知っていたし、弱さからくる痛みを日々実感していた人であった。


わたしの身に一つのとげが与えられた。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願った。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足している。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからである。(コリント十二章より)

この弱さのなかにこそ、神の力が与えられるということ、それは旧約聖書にもたくさん書かれているが、詩編にはそれが具体的にどんなに苦しみ、弱さに打ち倒されそうになっているか、そのなかからいかに神に向かって祈り、叫んだかが多くの箇所で示されている。
そうした人間のさまざまな意味の弱さからくる悲しみ、それは自分自身にもあり、他人や、社会全体にもその弱さがいたるところにある。その悲しみはキリストによって確かにいやされ、また最終的にはこの世界の悲しみもいやされると聖書は約束している。この約束からくる希望はどれほど多くの人を力付けてきたことだろう。
私は、草花にどうしてあのような美しい花、しかもきわめて変化に富んだ花を咲かせるのかと不思議に思われることがしばしばある。柔らかな草花、それは足で踏んだだけでも倒れてしまい、花も失われてしまう。そのような弱くはかないものなのに、見事な花をつけている。これは弱さのただなかにも、神の持っている美しさを持つようにと創造された神のお心ではないかと思われる。
聖書の最後の黙示録の終わりの部分で、そうした弱さとそれと不可分に結びついている悲しみが最終的にいやされるということが記されているのも、神は私たち人間の悲しみを深く知っておられ、それの最終的な解決を示そうとされているのである。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録二十一・34より)
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