はこ舟 0039月 第512

内容・もくじ
ひとみを守るように
終わることなき希望  ヒルティの詩から
祝福を求め続ける歩み
ヤコブとエサウ
ことば
謙遜について
休憩室
止むにやまれぬ心
返舟だより


リストボタンひとみを守るように   2003/9

 旧約聖書には、神の示した正しい道に従えなかった人々がきびしく裁かれる状況がしばしば記されている。そうした印象によって旧約聖書の神は裁きの神であると漠然と思っていて、新約聖書で初めて愛の神としてのすがたが現れると思っている人が多い。しかし、すでに旧約聖書においても、神の愛は特別な表現で記されている。 

主が、あなたたち(神の民)を略奪した国々に、こう言われる。
あなたたちに(危害を加えようと)触れる者は
わたしの目の瞳に触れる者だ。(ゼカリヤ書二・12

人間は他人の苦しみや悲しみに対しては鈍感である。自分の親しい人、肉親であったら、その苦しみなどは身近に感じるが、それでも本人が感じている苦しみのごく一部に感じている程度であろう。身近な人であってもこういう状態であるから、どんな悲劇が新聞などで報じられていても、ほとんど何も感じないことが多いし、ときたま感じてもすぐに忘れてしまうというのが私たちの実体ではないだろうか。
しかし神は、どんな小さいことでも感じて下さる。神の愛の敏感さ、繊細さ、それは、私たちを目の瞳のように敏感に守って下さるほどのものだということが、記されている。瞳というのは、人間のからだのうちで、最も敏感に反応するところである。ほんのわずかのゴミでも、近づこうとするとただちにまぶたが閉じられて、瞳は守られる。
このように瞳はきわめて小さな攻撃にも守られているが、神がそのように敏感に私たちを守ってくださっているというのは、驚くべきことである。神の愛が人間の苦しみに対してとくに敏感に感じて守って下さるということが、このような箇所に見られる。
それは、この預言を受けた預言者自身の経験であっただろう。神の言葉を受けるということは、神の近くに引き上げられることであり、神のご性質をいっそうはっきりと示されることである。

主は荒れ野で彼を見いだし
獣のほえる不毛の地でこれを見つけ
これを囲い、いたわり
御自分の瞳のように守られた。(申命記三十二・10

このような繊細な愛のことは、すでに旧約聖書の古い時代、モーセが神から受けたと伝えられてきた文書(申命記)にも記されている。水や食物のない砂漠地帯において、最も必要であったのは、そのようなこまやかな神の配慮であり、守りであったのである。私たちも人生の荒野において、心を病むことがさまざまのところで生じているのを知っている。
けれども、もし、私たちがこうした心の奥深いところまで届くような愛を受けるならば、そのような心の病に陥らずにすむだろうし、そのような心の病も、瞳を守るような神の愛に触れるならいやされることであろう。
日本も、世界も現在の状況は、外見的にも、内的、精神的にも荒廃の中にある。
東京都知事が、T外務審議官の自宅に発火物をしかけられたことについて、T氏や、外務省の北朝鮮外交を批判して、「当たり前の話だ。良識ある国民の不満、怒りだ」などと公言した。北朝鮮は拉致という一種のテロをやっていると批判する一方で、気に入らないやり方をするものは、爆発物を仕掛けるというテロ行為をしても当然だというのは、もし、適当な機会があれば、自分もそれと同種のことをやるということになる。こんなひどいことを公然と言う危険な人物が、日本の首都の代表者だとは驚き入る。
二年前のアメリカの世界貿易センタービル爆破事件や、現在のパレスチナ紛争はまさに、こうした考え方によって双方が攻撃しあっているのである。
こうした考え方は、今に始まったことでなく、人間の攻撃的な本性のゆえに昔からどこにでもあった。子供が誰かにいやなことをされたから、仕返しをするというのと同様な考え方なのである。それが、規模が大きくなると、そのまま戦争の肯定になっていった。
相手が気に入らないことをやっているなら、武力で攻撃して殺しても当然だということになり、そのとき、関係のない一般市民が巻き添えになっても構わないという考えである。
私たちがそうした精神の荒野にあることを痛感するとき、今から数千年前に書かれた、この申命記の言葉に記されているような神の愛こそ、荒野をうるおすいのちの水となってくれる。
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