リストボタン止むにやまれぬ心    2003/9

現在、聴覚障害者が手話を用いることはごく自然なこととして、多くのひとたちや学校でも手話が学ばれている。しかしそれは最近二十年ほどのことで、それ以前は、手話といってもまだまだ奇異な目で見る人も多く、全国のろう学校でも、ほとんどすべてが手話を禁止していたのであった。私がろう学校の教育にかかわっていた当時、全国でわずかに数えるほどのろう学校が手話をろう教育のなかで取り入れていただけであった。手話を用いないで、唇の読み取りを重んじ、残されている聴力を補聴器を使って発声できるように訓練していく口話教育が全国のろう学校に浸透していた。
それは、ろう児に手話だけで教えると、正しい日本語が身につかない、言葉を発することができなくなる、残っている聴力を訓練しなくなる、補聴器をつけなくなるといった弊害が案じられてのことであった。確かに、幼いときから手話だけで教育して、発声の練習とか聞き取り、唇の動きで言葉を読み取る訓練などしないなら、ろうあ者の能力は相当制限されてしまうだろう。
しかし、ほとんど全国のろう学校で手話を全面禁止するようになったことで、ろうあ者には、楽しく会話するということが禁じられる結果となった。唇を凝視して、読み取ることは至難のわざで、そこにはリラックスして会話を楽しむといった雰囲気とはほどとおいものになる。たえず、読み取り間違いをしつつ、前後の文や発言から類推をしつつ、唇の動きを読み取っていかねばならない。それは非常に疲れることであり、そのような会話は到底たのしい会話とはなりえない。
発声や聴力の訓練、読み取りなどとともに、手話を併用していくのが正しいあり方であると私はじっさいにろう教育にかかわってはっきりと知らされたのである。
戦前において、全国のろう学校で、手話が禁じられていくなかで、ただ一つだけ手話の重要性を見抜いて、それをあくまで守り通したのが、大阪私立ろう学校であり、当時の高橋潔という校長であった。彼は、いかに周囲が口話教育へと全面的に移っても、自分が経験的に知った、手話の重要性を決して見失わなかった。それで、手話を重要視して教育でも用い続けたのであった。
その高橋潔は、キリスト者であって、彼のそうした信念は、キリスト教信仰に基づくものであったし、彼は、それだけでなく、人間として生きるためには、宗教教育が不可欠であるとしてそれを行ったのであった。高橋の宗教教育に関する考え方をつぎに引用する。

音楽の世界から絶縁された淋しい人生を明るく生きてきた、そうしてまた、生きていくであろうところの彼らろうあ者が淋しいこの世から再び明るい世界へと旅立つとき、すべての子等がかくあってほしい 。
身の障害を恨み、悲しむ心は露ほどもなく、まず、生きているということに感謝し、人生の終わりにおいて、悲しみの中にもなお、感謝と希望の心に満たされて皆と別れ、よりよき世界へと旅立つように、これが私のろう教育における宗教教育の念願なのでございます。
そうした大願望の止むにやまれぬ心から、あるいは、省令に反し、あるいは訓令に反きつつ、自己流の宗教教育を行ってまいりました。
宗教教育は、実にかくあらねばならない、またかくあるべしと指示されてなさるべきものに非ずして、あの子たちの持つ魂を尊重してそれをはぐくみ、育てんとする、止むにやまれぬ心からのものでなければならぬと信ずるものであります。(「手話は心」377頁~ 全日本ろうあ連盟発行)

高橋は「止むにやまれぬ心」というのを強調している。当時の文部省の省令や命令などに背いてでも、自分の内に起こってくる、止むにやまれぬ心からの動きを重んじたのであった。それが当時の日本全国の流れに逆らって手話をあくまで重要視し、また人間を超えた存在へと心を向けさせる宗教教育をなさしめたのであった。
また、生活の身近ななかからもつねに神の存在に触れるようにと心がけたのはつぎのような文からもうかがえる。

校庭に散るプラタナスの落葉もまた、私には尊い宗教教育の材料でした。来年の春の新芽を立派に残して枝を離れ、安心して再びもとの土に帰るのです。家や世界を一つの樹木とするとき、お互いは一枚の葉でなければなりません、と。そこには実に意義ある人生を教えられ、不可思議な自然の妙味を知らされます。かくて、一枚の落葉も神の摂理、宇宙の神秘を教えるには十分であり」(同354頁)

こうした身近な現象も何とかして万物の背後におられる存在を知らせたいという、止むにやまれぬ心を持つとき、よき宗教教育の材料となる。
キリスト教の長い歴史においても、つねにこの止むにやまれぬ心をもってキリストの福音をつたえようとする人たちがあとを断たなかった。それを新約聖書では、聖霊にうながされてのはたらきだと記している。聖霊が働くとき、人はそれがどのような結果をもたらすか、周囲から見下されるかといったことを超えて、自分でも止められないようなある力を内に感じ始める。そしてそのあとは、神がなさるという信頼の心も同時に生じてくる。
今も生きて働くキリスト、そして聖霊は神の御計画に従って、そうした止むにやまれぬ心を起こし、真理の福音を伝えるようにと働いているのである。
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