リストボタン語りかける神 創世記三十四章より    2003/10

旧約聖書のなかには、どうしてこんな内容が載っているのかと、不思議に思われる箇所がときどきある。数千年も昔に書かれたものだから、現在の基準で考えてはいけないことは当然だが、それにしてもなぜ、こんな記事がわざわざ残されてきたのかと読む者にとって不可解な内容がある。
創世記の三十四章のような記事もその内の一つである。なぜこのような事件が生じたのか、それは、ディナというヤコブの娘が、その土地の娘に会うために出かけたということであった。そのような単純なことから、大きな事件となってしまった。その土地のヒビ人のシケムという男が彼女を辱めた。そのような事態になって、どう解決するのか、どのようにしたのが最もよい道なのか、ヤコブもはっきりとは示されなかったし、動揺のために祈ることもできなかったようである。ヤコブはただ事態を見守るだけのようであった。しかし、ヤコブの息子たち、とくに二人の子供、シメオンとレビは、激しく怒って、復讐を計画した。ちょうど、シケムと父親がディナを嫁にもらいたいとの申し出をしてきた。シケムたちは、どんな高額の結納金でも出す、贈り物も差し出すと言って、ヤコブたちを金品で引き込もうとした。もし、ヤコブや息子たちが、そのような物質的なことに惑わされていたらそのまま彼らの言うままにして、ヤコブたちの一族はヒビ人と合体してしまっただろう。
ヤコブや、息子のシメオンとレビは、そうした誘惑には負けなかったが、彼らがとった方法は、決して神に選ばれた者のすることではなかった。彼らはシケムとその父親をだまして、その求めに応じるといい、そのかわりに、シケムの属するその土地の人全部が、全員割礼をせよといったのであった。それは、割礼を受けさせてから婚姻関係を結ぶためではなく、その後で襲撃して復讐するためであった。
シケムたちはだまされて、その要求に従った。ヤコブの息子、シメオンとレビは、 正しいことに反することをしたから、それに対する義憤と、人間的な復讐の感情が入り交じっていた。そして復讐の感情が聖なる契約のしるしであったはずの割礼を、欺くという悪に用いてしまった。彼らが全く物質的なことへの欲望から自由になっていなかったのは、ヒビ人たちを襲ったときに、シケムとその父親を殺しただけでなく、町中を略奪してヒツジ、牛、ろばなどみんな奪い取ったということに現れている。こうした暴虐のゆえに、後になって、ヤコブは彼らの行動を強く非難して、彼らに神の裁きが下ることを預言している。

シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。 わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。
わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し、思うがままに雄牛の足の筋を切った。
呪われよ、彼らの怒りは激しく、憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け、イスラエルの間に散らす。(創世記四十九・5-7

実際に、後の歴史において、シメオンは、シケムの土地から追い出され、カナン地方では最も砂漠で人が住めないような、ユダの南部が割り当てられ、レビは定住の場を持つことがなくなったのである。
この事件は忌まわしい事件であって、読む者を不快な気持ちにさせるものである。本来は、ヤコブと息子たちが、シケムとその親に対して、毅然たる態度で臨み、彼らに厳重に抗議し、謝罪を要求すべきであった。そうした正しい道をとらなかったがあえてこのような内容が聖書に記されているのはなぜか。
それは、彼らの罪ですらも、神は結果的にそれを用いて、ヤコブ一族が土地の人たちと混血して、偶像崇拝をするようになり、部族としても消えていくことから守られるということにされたのであった。
ヒビ人たちは、多額の金や物をヤコブ一族に与えるといったが、それはそのうちに、すべて自分たちのものになると考えていたのであり、自分たちと同化してしまうと考えていたからである。(二十三節)
神は、人間が大きい罪を犯しても、それをもご自身の御計画に用いていかれる。罪を犯したものは、裁かれる。しかし、いかなることが生じようとも、神の全体としての計画は揺るぐことなく進んでいくのだということがここには示されているのである。
こうしたヤコブの弱さのただなかに、神は語りかけて下さった。それが三十五章にある。

神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(創世記三十五・1

この短い言葉、「神は○○に言われた」ということが、創世記の重要な内容でもある。人間はカインのことでもわかるように、はじめから罪深い存在である。いつも真実なものに背き、離れていく傾向がある。しかし、そのような罪深い人間に、たえず神が語りかけるということが、大いなる光となっている。この混乱と汚れた世界のただなかにあって、神が私たちの魂に語りかけるという事実、それは奇跡として感じられる。人間の声、不信実な言葉や事件が横行するただなかにあって、それらと全くことなる世界からの語りかけがある。
箱船で知られているノアにしても、周囲の人々の状況はつぎのようであった。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見たこの地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地上を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべての人は堕落の道を歩んでいた。
(創世記六章より)
こうしたただなかではみんなその悪に染まってしまうと考えられるだろう。しかし、そのような悪に染まったただなかにおいて、神はノアに語りかけられた。
神はノアに言われた。「すべての人を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」(創世記六章、七章より)

この世では、悪は裁かれることもないと思っている人は実に多い。聖書で言われている神などいない、と考える人にとっては、裁きなどは存在しないことになるだろう。死んだらそれで終わりで、地獄も天国もなくみんな無になるというのが一番多くの人の漠然とした考え方だと言える。
しかし、悪は必ず裁かれる。 裁かれないように見える悪の力が世に満ちていると思われても、そのただ中に、神が語りかける。現在においても、さまざまの悪によってこの世はおびやかされ、真実に生きていくことができないように見える時がある。しかしそのようなどこにも神はいないと思われるようなただ中に神は語りかける。
ノアの後の時代、アブラハムやヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデなど、重要な人物は多くいる。彼らはみんな、何らかの悪意や敵意などのただなかで生きていた。もしそのような悪意ばかりしかないのなら、彼らもついに倒れてしまったであろう。預言者のうちで、最も力ある人の一人であったと思われる、エリヤという預言者ですらも、厳しい迫害に直面して、もう生きる気力をも失ってしまったこともあった。しかしそのような絶望的なほどに悪に追い詰められたときでも、そのただ中に、神が語りかけて、再びエリヤは力をうけて、自分に課せられた使命のために立ち上がることができたのである。(旧約聖書・列王記上十九章)
神の生きた語りかけ、それこそは創世記全体においても、とくに重要なテーマなのである。失敗や、罪、思いがけない事件、それらからの悲しみや苦しみ、そうしたすべてを主はご存じであって、そのような闇のただなかに神の語りかけが与えられる。ディナの事件は大きな闇である。ヤコブ一族を覆う暗い陰となった。しかし、そのような闇のなかに差し込む光があるということをこの記事は語っているのである。


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