リストボタン水仙  ワーズワース作    2003/12

私は雲のようにひとりさまよっていた、
谷や山を超えて高く浮かぶ雲のように。
その時、突然にして私は花の群生を見た。
金色の水仙の無数の花の群れであった。
湖のほとり、木々のもとで
そよ風に吹かれ、揺れ、踊っていた。

銀河にちりばめられた星のきらめきのように、
水仙の花はどこまでも続いていた。
入り江にそって縁どるかのように。
一目見て、一万株にもなろうか
それが皆顔をあげ、喜ばしく踊っていた。

入り江のさざ波も踊っていた。
しかし、水仙の花たちの喜びは、
きらめく波にもまさっていた。
このような喜びにみちた花たちに出逢って
詩人もまた心喜ばしくなってくる。
私は、見つめた、じっと見つめていた。
しかし、その光景がどんな恵みを私にもたらしたかは、
その時にはまだ気付かなかった。

その後、心のなかが空しく、淋しい思いに沈んで、
身を長椅子に横たえているとき、
その花たちは、しばしばわが内なる眼にひらめくようによみがえる。
内なる眼、それは孤独のときの祝福。
そして私の心は、喜びに満たされ、
水仙とともに踊りはじめるのだ。

*)ワーズワース (一七七〇~一八五〇)イギリスを代表する詩人の一人。八歳の頃に母を、その五年後には父を失う。自然への深い直感を歌っている詩が多い。

ここで言われている水仙とは、黄色のラッパズイセンである。日本で海岸に近いところで、多く野性的に咲いているのは、それとは違うもので、日本水仙といわれるものである。現在の日本においては、湖の湖岸一帯に群生しているこうした水仙に遭遇するということは、まずないだろう。 しかし、スイセンでなく、他の花ならこれに類する経験をしたことのある人は多いと思われる。それが、群生でなくわずかに一株の野草であっても、付近の情景とともに鮮やかに心に刻印され、ずっと後になっても、ふとした時にそれがひらめくように、心によみがえるのである。
 私にとってはそうした野草や植物はいろいろ思い出される。以前に本誌に書いた、由良川源流の原生林地帯で見つけたリンドウもそうであった。また、徳島県の奥深い祖谷の山で、もはや廃道となってしまった古くからの峠に至る山道を迷いながら登ったことがあった。とある谷川は天からの流れかと思われるような、清い水が流れていた。そして、その谷のすぐ傍らで幾百年の歳月を見守ってきたと思われる、まれにみるようなトチノキの大木が沈黙のまま、私を見下ろしていた。そこに、はじめて見るジャコウソウが、いくつか水際で咲いていた。
 この野草を見かけたのは、この一度だけであった。もうそれは二〇年以上も昔のことであったが、今もなお、その清い流れと堂々たるトチノキ、美しい野草の花が一緒になってよみがえってくる。
 それは植物だけでなく、あるときの空の夕日と大空一面の夕焼けや、海の激しい波と音の情景、あるいは、山を歩いているときに眼前にひらけてくる雄大な展望なども心に深く残って後々まで、ふとしたときに心にある種の栄養を与えるのであった。
 これはどうしてなのか、そのような心に深く影響を残す自然はその背後に神がおられ、その神の愛がそこに込められているからである。
 神は、清いものには、清く、邪なものには曲がったものとなられる。(詩編十八編)といわれる。私たちが神に向かって、その創造された自然に向かって心を空しくし、心を開いて受け入れるとき、神がもっておられる清さや、美、そして力が、それらの自然を通して私たちに流れ込んでくる。それはそのようにして神の本質を分け与えようとされる、神の愛の働きそのものなのである。
 自然だけでない。私たちの暗い心のとき、憂うつなときに、思いがけなく私たちの心を照らしてくれるもの、それは神の言葉であり、神の光である。
 迫害に全力をあげていたパウロに、そうした神の光が突然ひらめいた。そしてそのときからキリスト教の迫害者のリーダーは、その光を魂にふかく受け取って、光を伝え、分かち与えるリーダーとなった。
現在の混乱した世に生きる私たちに必要なのは、そのような闇のただなかに、輝く光なのであり、それと共に伝わってくる神の命なのである。
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