リストボタンマリアの讃美    2003/12

新約聖書のなかに、マリア讃歌といわれる有名な神への讃美の言葉がある。それは、イエスの母マリアが歌ったものとして記されている。

…そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしため(*)にも目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。」ルカ福音書(一・4653

*)「はしため」という言葉は現代では、ほとんど使われていないし、この言葉を会話や文章で用いたことがあるという人はほとんどいないだろう。これは端女と書き、召使の女を意味する。原語は、ドゥーレー(doule)であり、ドゥーロス(奴隷) doulos という言葉の女性形なので、「奴隷の女」というのが原意である。なお、使徒パウロは、新約聖書に収められた彼の手紙の冒頭には自分を「キリスト・イエスの奴隷(ドゥーロス)と言っている。主イエスのいわれるままに、すべてを従って生きるという姿勢がそこには表されている。」

イエスが生れることになると、天使から知らされたマリアは、親族のエリザベトに会いに行った。彼女も老年になっていたのに、神の御手が触れて身ごもっていることを知らされたからである。そのとき、エリザベトは聖霊に満たされて、喜びにあふれてマリアに祝福の言葉を与えた。そのとき、エリザベトの胎内にいた子どもが、喜びおどったと記されている。
イエスの誕生はそれほどまでに大きな喜びを与えるものだということがここに象徴的に示されている。聖書における喜びは、目に見えるものにとらわれている人にはわからない。
例えば、天で最も大きな喜びが、生じるのは、一人の罪ある人が悔い改めて、神に立ち返ったときであると書かれている。この世では、スポーツである球団が優勝したとか、給料が増えたとか、結婚とか就職で希望がかなえられたとかいうときに大きい喜びがある。
しかし、聖書ではそうした通常の人たちの喜びと全く違った喜びを伝えている。
ここでのマリアや、エリザベト、そして胎内の子どもの喜びはそうした喜びである。
その喜びは、マリアの言葉にあるように、「神を喜ぶ」ということである。私たちがもし、神を喜ぶことができるならば、どのような時にも逃れる道が備えられているということになる。清い喜びこそは、安全な逃れ場であるからだ。そうした喜びを実感しているとき、私たちは他の汚れたもの、悪いものに誘惑されたりしない。
新約聖書には、神を喜ぶということが、はじめから記されている。
主イエスが、教えられた本当の幸いということ、そのなかに含まれている。

ああ、幸いだ、心貧しき人たち、
天の国はそのひとたちのものである。
ああ、幸いだ。悲しむ者たちは。
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。(マタイ福音書五章より)

この有名な言葉は、神を喜ぶということを別の表現で言っているといえよう。心貧しき人とは、心に何も自慢や高ぶりを持たず、目に見えるものによっては本当の満足が与えられないと思い知らされた心の状態である。
天の国が与えられるとき、それは私たちの魂に神の御手が臨むことであり、悪の力が追い出されるのであるから、当然喜びが自ずから生じることになる。
また、悲しみのただなかにあって、神との結びつきが深くなるとき、神による慰めが与えられるとあるが、そうした慰めは深い喜びであるだろう。
こうした、主イエスの教えで約束されていることは、このように、神を喜ぶということに他ならない。

このマリアの讃歌は、ラテン語で最初の言葉をとって、「マグニフィカート」(*)といわれている。この讃美は、歴史的に有名である。

*)この讃歌の最初の「わたしの魂は主をあがめ」の原文(ラテン語)では、その最初の文が、 Magnificat anima mea Dominum (マグニフィカート アニマ メア ドミヌム)となっている。 magnificat とは、magnus(マーグヌス)「大きい」という語と、facio(ファキオー)「作る」から成っている言葉で、もとの意味は、「大きくする」。そこから、「重んずる、称賛する、あがめる」といった意味になる。アニマ(魂)、メア(私の)、ドミヌム(主を)という意味なので、「わが魂は主をあがめる」と訳されている。「古くからこの讃美は礼拝に用いられ、カトリック教会で、毎日捧げられる祈りに用いられ、聖公会、ルーテル教会でも、夕べの礼拝に用いられる。ことばが美しいので、名曲が多い。バッハのものが特に有名。」(「キリスト教大事典」教文館)

マリアがこの讃美で最初に、主を讃えると言っているが、この本来の意味は、「主を大きくする」というもので、聖霊に導かれるほど、神が大きくなって見えてくる。神を信じないほど、神は小さく感じる。日本人は、神の大きさをいわばゼロと見なしているからこそ、聖書で記されている神を信じないのである。
人間はどれほど神を大きく実感しているだろうか。天地創造ということを本当に信じるとき、神はどこまでもおおきい存在として実感されてくる。
マリアの喜びは、自分の低いところ、弱いところに神様が、じっと見つめて下さったこと、そこに大きい喜びがあった。それが新しい時代の喜びであり、それはマリアの挨拶を聞いただけで、親族のエリサベツにも、喜びの波動が伝わっていく。それはエリサベツの胎児にまで伝わっていった。
そしてその波は二千年の歳月を通して、現代にも伝わっていく。聖書とはそうした目には見えない波動を伝えるものである。
福音とは、まさに喜びのおとずれという意味である。そのおとずれは時代を越えて、地域を越え、年齢や職業などを越えて伝わっていった。
マリアのこの讃美は、マリアの時代から千年ほども昔に現れた一人の女性、ハンナの歌と内容的に深い共通点がみられる。

主にあってわたしの心は喜び…
御救いを喜び祝う。
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。…
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。…
主は貧しくし、また富ませ
低くし、また高めてくださる。
弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥(あくた)の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。(サムエル記上二・18より)

このように、重要な共通点をもっている。それは、「主による喜び」が特別に大きく深かったために讃美せざるをえなくなったということ、そして高ぶるものは引き下ろされる、弱く貧しいものを見つめて下さり、高くあげて下さる…といった点である。
マリアの讃歌はこのハンナという女性の讃美を知っていたと思われる。知っているから同様の歌を歌ったということでなく、神による喜び、取るに足らないような者すら顧みて下さる神の愛を深く実感したものは、おなじことをやはり語らずにはいられないのである。
また、旧約聖書の内容、とくに詩的表現の部分には、預言が多い。例えば、詩編二十二編は、キリストが経験することの預言ともなっている。

わが神、わが神、
なぜわたしを見捨てられたのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(詩編二十二・2

このはじめの言葉は、主イエスが十字架上に釘づけられたときの叫びそのものであった。主イエスが最も苦しい叫びをあげたその言葉が、旧約聖書の詩編のなかの詩人の叫びとまったくおなじであったことは何を意味しているのだろうか。その詩編の言葉をたんに思い出して言ったということなのだろうか。そうではない。それは、詩編の言葉はキリストより五百年以上昔のある人間の叫びであったが、それはまた、預言ともなっているのである。それとおなじことが、将来生じるという預言であり、神の言葉なのである。そして主イエスがそのとおりに叫ばれたということは、その預言がそのとおりになったということを示している。預言そのものが含まれており、また神の救いのたしかなこと、神のなさることの表明など神の語ること、なされることが含まれているゆえに、本来は人間の言葉である詩が、神の言葉とされているのである。
この詩編二十二編には、ほかにも、キリストの最後の十字架にて処刑のときに生じたこととの、驚くほどの一致がある。

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」(詩編二十二・89

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ福音書二十七・3940

わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く(詩編二十二・19

この記述は、主イエスが十字架にかけられたときに、同様なことが生じたことを思い起こさせる。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、(マタイ福音書二十七・35

このように、旧約聖書の詩編というのは、ふつうに詩と言われているもの、日本の万葉集や古今和歌集なども含めて、そうした詩のように、決して単なる個人の感情を記したものではない。それは、千年、二千年という時の流れを越えて、変わることのない真理をそこにたたえており、預言ともなっているのである。
それゆえに、人間の詩でありながら、神の言葉とされ、聖書に収められているのである。
マリアの讃歌は、それより千年も昔の、旧約聖書の一人の女性の喜びと感謝の讃美(ハンナの讃美)と深い共通点があるのも、ハンナの讃美が単なる詩でなく、預言となり、またそれは数千年を経ても変わることなき、真理をそこにたたえているからであった。
数に足らぬ、奴隷のように最も低い地位にあるような女であるにもかかわらず、神はまさにそのような低いところに来て下さって、大いなる恵みを注いで下さった、ということ、それは旧約聖書、新約聖書を通じて一貫して流れている真理である。
主イエスが生前に、ハンセン病の人や、長い間苦しんできた病人、盲人やろうあ者のような、昔は特別に苦しい状況におかれていた人、あるいは重い病人といった人たちのところに行かれたこと、さらにキリストの十字架での死も同様である。罪を犯してどうすることもできないような人間のことを深く思って、そのような人間の心に来て下さり、その罪を赦し、いやしてくださる、それは何よりも大きい恵みとして実感されるものである。
このマリア讃歌が、多くの讃美歌となっていろいろの作曲家によって、曲がつけられてきたのも、この讃美が深い意味をもっているからにほかならない。二十一世紀に向けて、従来の「讃美歌」に変わるものとして、発刊された「讃美歌21」には、この讃美の重要性のゆえに、「頌歌 マリアの賛歌」一七四番から、一七九番までの六曲も取り入れられている。その内の一七五番は、讃美歌では九五番の讃美として、従来の讃美歌でもよく知られていたもので、その一部を引用する。

(一)わが心は 天つ神を 尊み
わが魂 救い主を ほめまつりて 喜ぶ

(二)数に足らぬ 我が身なれで 見捨てず
今よりのち 万代(よろずよ)まで 恵みたもう うれしさ

(三)低きものを 高めたもう み恵み
おごるものを 引き降ろして 散らしたもう み力

今から三〇〇〇年も昔に、一人の苦しみと悲しみにうちひしがれた一人の女性の祈りが聞かれたその喜びと感謝は、多くの人の深い気持ちを表すものとしてうけつがれ、それが作られてから一〇〇〇年のちに、イエスの母マリアの讃美へと受け継がれ、さらに、それは二〇〇〇年もの間、世界で広く歌いつがれてきたのであった。
これは、ハンナ以来三〇〇〇年にわたって、世界に響いてきた讃美なのである。ここには、神は苦しむものの祈りや叫びを聞いて下さり、弱いものを愛をもって顧みて下さるという深い実感がある。
現代の私たちにおいても必要なのはまさにそのような、弱き者、失敗を重ね、罪を犯したくなくとも、罪を犯してしまう弱い私たちの祈りを聞いて下さる神なのである。
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