リストボタン愛と悲しみ    2004/1

キリストの福音(*)とは、その名のとおり、喜びのおとずれであり、知らせである。私たちの最大の問題である、心の中の問題、そのなかでも一番奥深いところにある罪に苦しむ人間に対して、その根本的な解決の道を知らされた者は、どのような状況にあっても、深い平安と喜びを感じる。そこから自然にその喜びを伝えようという気持ちになる。
そのような心に真正面から対立してくるのが、現実のまわりの厳しい状況である。キリストの十字架の死が、私たちの罪を赦すこと、あがなうことだと、単純に信じるとよいのであるが、それをどうしても受け入れず、罪などないとかキリストの十字架は罪をあがなう力などないといって、受け入れない人がきわめて多いことに気付く。
それはパウロの時代から見られたことであった。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言うが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い。
 彼らの行き着くところは滅びである。彼らは、この世のことしか考えていない。(ピリピ書三・1819より)

キリストの十字架に敵対するとは、ふつうには耳にしない表現である。十字架とは私たちの罪を担って死なれたということである。それに敵対するとは、そうした死は必要ない、キリストは十字架にかかってまで、私たちの罪を清めようとされたが、罪そのものがないなどという場合である。
 しかし、自分の罪を認めようとしないで、歩むときには必ずその人の心は次第に固くなり、よきものを感じたり、心動かされることがなくなっていく。それは滅びという状況である。
そのような人々に対してパウロは、涙ながらに言うと書いている。神の愛に敵対する者に対してもそういう人々を憎むことなく、また見下すこともなく、深い悲しみをもって見つめていたことがうかがえる。
また、他の箇所でも次のように、パウロの涙を見ることができる。自分が去ったあと、キリスト教の真理を曲げて真理でないものを教えて人々を惑わす者が表れることをパウロは予見していた。そしてさらにこう言っている。

あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。だから、目をさましていなさい。
そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。(使徒言行録二十・3132

涙をもって、それは単なる一時の感情ではない。それとは逆に、相手がどのようであっても、変ることなき愛のしるしであった。背く者にさえも心からの愛をもってする、それこそ神の愛であり、それは神とともに永遠的な起源をもっている。そのような愛から注がれる心からの涙であった。
主イエスも、自分を受け入れようとしないエルサレムの人たちを見て、涙を流された。

いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら......しかし、それは今おまえの目に隠されている。
いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来る。(ルカ福音書十九・4143

この主イエスの深い悲しみは、まもなく歴史の中で実際に生じたことによって、イエスが時間を越えてその背後にあるものを見抜いていたことを示している。
紀元七十年に、ローマの将軍によって、エルサレムは攻撃され、数えきれない人々が殺され、最も重視していた神殿も破壊され、炎上してしまった。
こうした事態をそれが実際に生じる四十年も前から、はっきりと予見されていたのである。そして数知れない人々の命が失われ、神の約束の地であった場所から追い出され、以後は国なき民となり、そこで生じる人々の悲しみを主イエスは何十年も前から、それを自分のことのように、実感して、深い悲しみにおそわれたのだとわかる。

人間は、他者によくないことがあったらすぐに怒ったり、見下したりする。それでもどうにもならないときには見捨ててしまう。
パウロは、さらに、キリストを信じる者が、怒り、憎しみ、悪口などよくない言動をすることによって神の霊(聖霊)が悲しむことを知っていた。

悪い言葉を一切口にしてはいけない。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されている。 (エペソ信徒への手紙四・2930

愛は、高ぶらず、ねたまず、すべてに対して希望をもって見つめると言われている。そうして愛はまた、悲しむということができよう。愛なき者にも悲しみはある。しかし、神を信じる者の悲しみは、人間の悪に対してそれが除かれるようにとの祈りをこめた悲しみであり、神の力がそこに働くようにとの願いを伴った悲しみであるだろう。
このような、涙と悲しみは、旧約聖書から見られる。そのなかでとくに読む者の心に深く残るのは、預言者エレミヤの涙である。

わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、夜も昼もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ書八・23

エレミヤとは、キリストよりも、六百年ほども昔の預言者である。国が真実の神でない偶像を拝むことに傾き、宗教的指導者、政治家たち、また民衆の心も荒廃してついに神のさばきを受けて、滅びることになる。それは当時の大国、バビロン(新バビロニア帝国)が攻撃してきたことによって現実となった。そのときに神によって神の言葉を語り、警告し、本当に歩むべき道を指し示したのが、エレミヤである。
当時の荒れ果てた社会の現状を神がいかに見ているか、それをエレミヤはまっすぐに人々に語った。しかし、そうした神からの直接的な警告の言葉をも、人々は聞き入れず、背くばかりであった。エレミヤはその状況を目の当たりにして彼らが滅びていくのが確実に霊の目で見えたのであった。そのとき、エレミヤは怒り、汚れた行動に走る人々を見下し、見捨てるのでなく、深い悲しみをもって見つめ、祈り続けたのであった。
そのエレミヤの愛ゆえの悲しみがここに引用した言葉に表れている。今から二千六百年ほども昔に、このように一人の人間の深い悲しみ、滅びゆく人々への深い愛ゆえの悲しみが記されているのは驚くべきことである。

あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。(エレミヤ書十三・17

ここには、神の言葉に聴こうとしなかった、神の民の都が滅ぼされ、人々は多くは殺され、町や精神的な中心であった神殿も焼かれ、多数の者は遠いバビロンへと捕虜となって連行されていったことを悲しむエレミヤの心が表れている。
彼らがエレミヤを通して語られる神の言葉を聞かないなら、ふつうなら怒り、彼らに絶望して見捨てる気持ちになるだろう。しかし、エレミヤは彼らの傲慢と背信に涙をもってした。
私たちの心が固く浅い場合には、愚かなことをしている人を、見下したり、そのために苦しみにあったりすると、いい気味だと思ったりする。しかし、神の愛は、そうした人から悪の力、悪の霊が追い出されて、そのような悪人の心が清められ、罪赦されること、そこから神を信じる人間として生まれ変わることを願う。
キリストの教えとして最もよく知られていることの一つは、つぎの言葉である。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・4344

エレミヤは、隣人である同胞の人々に対して、かれらが救われるようにと繰り返し語ってきた。しかし人々は従わなかった。そればかりか、エレミヤに敵意を抱き、エレミヤを殺そうとまでするほどであった。
それにもかかわらず、エレミヤは彼らを愛し続けて、この主イエスの言葉のように、敵対する人々を愛し続け、祈りをもって見つめ続けたのである。
「父の涙」という讃美がある。その折り返しの部分をつぎに引用する。

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

この讃美においても、父なる神の涙は、イエスの愛、神の愛のあらわれだと歌われている。
神の愛をもって、背く者たちを見つめ、正しい道に立ち返らせようとする。しかしその愛にもかかわらず背き続ける者が実に多い。そしてその背きの結果は、自分自身が苦しみ、平安なく、喜びなく、生きる力も失われていき、心の清さもなくなって、最終的には死とともに滅んでしまう。そのことをすべてを見抜くまなざしで見つめる神は、深い悲しみをもち、涙をもってそれを見ておられる。
深い愛は同時に深く悲しむ。このような人間の最も深いところでの心の動きについては、今から二千五百年ほども昔にすでに、聖書に記されている。

彼は卑しめられて人に捨てられ、悲しみの人(**)で、苦しみを知っていた。また忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの苦しみを負い、われわれの悲しみを荷なった。ところが、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(イザヤ書五十三・34より)

この有名な箇所は、はるかな古代から、神の特別なしもべは、世間からは評価されず、棄てられる。しかし、そのしもべは、悲しみの人であり、深い悩みと苦しみを知った人であり、それは、我々人間の苦しみ、悩み、悲しみを荷なったのであった。そのような驚くべきしもべが存在することを、類まれなほどに霊的に引き上げられた魂が、神より直接的に示されたのであった。神の愛とは、人間の悲しみや苦しみをあたかも自分のもののように感じて荷なって下さるものである。そのような愛を一身に受けて、人間の悲しみと苦しみを荷なって軽くすることのために、地上に現れたのがそのしもべなのである。

*)「福音」とは、中国語の訳で現在の中国語聖書もこの語を用いている。日本語と思い込んでいる言葉が実は中国語であり、それをそのまま日本に持ち込んで日本語とし、本来の中国の発音とは異なる、日本的な発音で用いているのである。例えば四福音書の一つである、ルカ福音書は医者のルカによって書かれた。そのルカは中国語では、「路加」 と書く。もちろん中国語であるから、これは日本語のように、「ロカ」とは、読まない。しかし、聖路加病院のことを、まちがって「せいろか」と読んでいる人が多い。病院関係者や、有名出版社の人ですら、まちがって読んでいるのに、驚かされたことがある。また、これを中国語だと知らず、当て字と思っている人もいる。これはキリストの弟子の名前であるから、日本語として読む場合には、当然「せいルカ」と読むのが正しい。キリストのことを「基督」と書くことがあるが、これも中国語の表記であって、「きとく」などと読んだら間違いであるのと同様である。この中国語の発音は、チィートーであるが、日本語風にしてキリストと読んでいる。なお、「耶蘇」も、「イエス」の中国語表記であるが、これも当て字のように思っている人がいるが、これも中国語で、yesu(イェースー) と発音する。それをその漢字のまま日本語の発音にして、ヤソと読んで日本語であるかのように用いている。

**)悲しみの人と訳された原語(ヘブル語で、マクオーブ makob)は、「悲しみ、悲哀」の他に「苦しみ、痛み」などとも訳される。口語訳、新改訳、関根訳などは、「悲しみの人、悲哀の人」と訳しているし、外国語訳のうち、英語訳についていえば、KJV、RSV、NIV、NJBなども、「悲しみの人」 a man of sorrows と訳している。新共同訳は、「痛みを負い」と「人」を入れずに訳している。

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