リストボタンパウロと彼を助けた人たち    2004/2

パウロとはどんな人物であったのか、どんな心を持っていたのか、どんなことを見つめていたのか、そして何をしたのか、パウロの心は現代の私たちに通じるものがあるのだろうか。
それは新約聖書のなかのいろいろの書かれたものを見るとあらゆるキリスト者のうち最も高く引き上げられた人物としてのパウロが次第に浮かび上がってくる。
ここでは、ローマのキリスト者へ宛てた手紙(*)の一部からパウロの心がどのようなものであったかを調べてみる。
彼の書いた長い手紙の冒頭で、つぎのように書いている。

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――(ローマの信徒への手紙一・1

このようにまず自分のことを「キリストの僕」である、と言っているが、この「僕」という言葉は、現在では私たちの生活の中ではほとんど使われない言葉です。そのために、まず第一にパウロが自分のことをこの言葉で表しているのに、その意味がはっきりしないので、読む者への印象がうすくなっている。
しかし、原文ではこの言葉は「奴隷」を表す言葉であり、じっさい次ぎのような箇所では奴隷と訳されている。

召されたとき(キリスト者となったとき)に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけない。(コリント七・)

その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてである。(ピレモン一・11

これは、奴隷の所有者に対して、そこから逃げ出した奴隷がパウロと出会ってキリスト者となったので、パウロがその奴隷の主人であった人物にその奴隷を罰することなく、兄弟として扱うようにとすすめた箇所である。
このように、実際に奴隷という言葉であるから、パウロがそのような言葉をあえて用いたということの中にパウロが自分をどのような存在であるかをこの一言のなかに込めているその気持ちが伝わってくるように思われる。
キリストの奴隷、それはキリストを主人とし、キリストの言われるままに生きて、キリストのためには命をも捨てようとしている、それほどにキリストに忠実に生きたいという彼の願いが現れているし、そのようにキリストの持ち物として下さったことへの感謝も同時に込められている。
私たちは奴隷などという言葉は、アメリカの黒人奴隷の悲惨さを思い出すだけで、いまの自分とは何の関係もない言葉だと思っている人が多いだろう。しかし、私たちはつねに何かにとらわれている。それは人間であったり、金や健康管理であったり、また周りの評価であったりする。言い換えれば何かにとらわれていて、それがひどくなると何らかの奴隷となっていると言えよう。
私たちが何かに結ばれているというとき、一番よいものと結ばれていたらそれが一番幸いなことである。そして一番よいものとは、清さ、愛、正しさ、永遠性などすべてにおいて最善のものである神とその神と同質のキリストである。それゆえ、キリストと結びついていることが最高の幸いであり、そのような最善のお方の言われるままに従って生きることは最善の生き方だということになる。
パウロはそのことを、「キリストの奴隷」という独特の言葉で言い表しているのである。
その冒頭でこのように、自分がいかなる人間であるかを述べたが、この重要な手紙の最後の部分においても、彼がどのような心を抱いていたかを映し出す内容がある。

あなたがた(ローマのキリスト者たち)のところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、 イスパニアに行くとき、訪ねたいと考えています。その途中でローマにいるあなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。
しかし、今はすぐにはそちらには行かないで、エルサレムにいる聖徒たち(キリスト者たち)たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。
マケドニア州とアカイア州(*)の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。
それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。
そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。

*)マケドニアとは、ギリシャの北部の地域、アカイア州はその南部地方。

ローマは当時の地中海一帯の広大な領域を国土としていたローマ帝国の首都であった。パウロがふつうの人間であったら、そうした大都市に行ってそこでの伝道に加わってリーダーとしての経験を広くしておきたいと思ったり、そこで大都市の人々によって評価を高められたいと願ったかも知れない。
しかし、キリストの第一の使徒であったパウロは、そのような人間的な気持ちを全く持たなかった。彼は、「キリストの名がまだ知られていないところで福音を告げ知らせようと、熱心に努めてきた」(ローマ十五・20)と言っている。
この方針に沿って彼は、すでに福音が伝えられているローマにはわずかに立ち寄ることだけしか考えていなかった。パウロはつねに霊的なパイオニアを目指していたのである。
しかし、これは決してパウロだけのことではない。キリストを信じたときから、人は何らかの形でこうしたパイオニア的なスピリット(精神、霊)を与えられるのである。
キリストご自身が最高のパイオニアであったからである。全人類の歴史のなかで、最大のパイオニアは主イエスであった。すべての人間が持っている最大の問題である、罪ということ、魂の最も奥深いところにて持っている真実に背く傾向をいかにして除き去るのか、そうしたことは不可能であるとだれしも思った。だから旧約聖書の時代には動物のいのちを象徴する血によってでなければ罪の赦しや清めはあり得ないとされていた。
しかし、そのような最も人間の深い問題である魂の罪を除き去るという前人未到の領域に主イエスは入って行かれた。しかもそれは、十字架刑につけられるという考えられないような残酷な刑罰を受けることによってであった。
パウロは、キリスト教が生れた現在のイスラエル地方にとどまることなく、また、当時の世界の中心であったローマにも住む心もなく、彼が目指していたのは、当時の世界の果てといえるスペインであった。
しかし、パウロはローマやスペインにキリストの福音を伝えるために行くという前に、エルサレムにいる、ユダヤ人の貧しいキリスト者たちへの援助を届けるために行くのを優先させた。そして、万難を排してそのためにエルサレムに行こうとしたのが聖書の記述からうかがえる。
そのことは、使徒言行録に詳しい。

私は(神の)霊にうながされてエルサレムに行く。そこでどんなことがこの身に起こるか、何もわからない。投獄されることなど、苦難が私を待ち受けていることは、聖霊がはっきりと告げている。しかし、福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思わない。(使徒言行録二十・2224より)

そしていよいよ地中海を渡り、エルサレムに近い地中海沿岸の都市に着いたとき、そこでキリスト者となった人々から涙を流し、強くエルサレム行きを反対された。それはその人々が聖霊によってパウロがエルサレムで危険な状態に陥るということを示されたからであった。
しかし、それでもパウロはつぎのように言ってエルサレム行きをあくまで実行することを告げた。

そのとき、パウロは答えた。「あなた方は泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟している。」(使徒言行録二一・13

このような命をかけてもエルサレムの貧しいキリスト者たちに、ギリシャ地方で集めた献金を手渡すために行こうとしたのであった。彼には、ローマやスペインという地の果てにまで、キリストの福音を伝えるという使命を持っていたにもかかわらず、そして彼がローマに宛てた手紙を書いたのは、ギリシャの都市であって、そこからなら、ローマも近いにもかかわらず、そこからローマに行くよりはるかに遠いローマとは逆方向のエルサレムに行くというのである。
こうしたパウロの歩みを見ると、キリストの福音を最初に伝えたエルサレムのキリスト者となったユダヤの人々に対していかにパウロが深い感謝をもっていたかがうかがえる。どうでもよいと思っていたら決してこんなにまで多大の労力を払い、命をかけてまで、献金を持っていこうとは考えなかっただろう。
そして、パウロが、「互いに愛し合え」という主イエスの教えをこれほどまでにして実践しようとしていたのがわかる。エルサレムでは、ユダヤ人からの迫害を受けて職業的にも安定せず、貧しく苦しい生活をしていたキリスト者たちのことがパウロの心深くにいつもあったのであろう。マケドニアとかギリシャの都市の人たちが会ったこともなく、千五百キロ近くも離れたエルサレムのキリスト者たちに多くの献金を捧げるということは、当時のキリスト者たちがいかに信徒相互の間での深いつながりをもっていたかを推察させる。

パウロと人々との関わり

キリスト教の二千年の歴史では、じつにさまざまの傑出した人たちが現れている。キリスト教が伝わっていく過程で、ローマや日本、そして世界の各地では激しい迫害があり、そうした時に命を捨ててキリストに従った人たちは数知れない。
ほんの一例をあげれば、哲学の方面ではアウグスチヌスやカント、科学者ではファラデーやパスツール、音楽や美術では、バッハ、ベートーベン、モーツァルト、ミケランジエロなど、文学では、ダンテやトルストイ、政治の方面ではグラッドストンとかリンカン、福祉的方面では、ナイチンゲールとかマザー・テレサといった人々など、あげればきりがない。
こうしたきら星のような人々がキリスト教信仰のゆえに歴史に不滅の位置を残してきたが、そうした一切の人々にはるかにまさった位置を与えられているのが、パウロである。
主イエス以外にパウロほど、歴史のなかで絶大な働きをしてきた人はいないといえよう。それは彼が受けた神の言葉が聖書となり、すでにあげたような無数の人々の魂を生き返らせ、導いて、それがそうした大きい働きをなす基となったからである。彼らの働きを支えたのが聖書であり、パウロが受けた神の言葉がそうしたなかできわめて大きい働きをしたのである。
宗教改革者のルターや内村鑑三もまた、パウロの書いたローマの信徒への手紙によって、決定的な影響を受けた。
このようなパウロの働きを支えたのは、主イエスであったが、人間もまたパウロを支えたのである。そのことが、ローマの信徒への手紙の最後の部分(十六章)からうかがえる。(読みにくいので人名は○○としたのもある。)

教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介しよう。
どうか、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてほしい。彼女は多くの人々を助けたし、特にわたしをも助けてくれた人なのである。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝している。
わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛する○○によろしく。
主のために苦労して働いている○○○○によろしく。主のために非常に苦労した愛する○○によろしく。
主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのである。(ローマの信徒への手紙十六・113より)

この手紙を見て、私たちはパウロを取り巻いた人々の働きやその人たちの心の動きをいくらかは実感することができる。
パウロはまず、女性であるフェベという人を第一に紹介している。古代において、否、ごく最近まで女性の地位は世界的に低く、男性がまず第一に念頭に置かれるのが一般的であった。日本でも系図にも名前すら女性には記されないという状態が長く続いた。そうした状況を考えるとき、三十名近い人たちの名をあげているのに、その第一に女性をあげるということは、異例のことであった。それほどに、フェベという女性は多くの人々を助け、パウロをも助けたのがうかがえる。迫害が始まっていた時代であり、キリストを信じるということは白眼視され、生活にも苦しみをもたらしつつあったと考えられる。
そのようななかで、黙って主への奉仕の心でそうしたキリスト者たちの困難を助けるということは神のなさるわざとして記憶されていたのであろう。
パウロは可能なときには、テント造りもしたとある。しかし、迫害され逃げていった見知らぬ場所で材料もなく、未知の人ばかりなのであるから、ただちにテント造りといった仕事で生計をたてられるなどということは考えられないことである。
そうした困難な折りにもフェベのような助け手から受けた献金などによって窮地を切り抜けられたということがあったと考えられる。パウロが困難な状況に置かれたことは使徒言行録に見られるとおり再三あったが、そうしたときのパウロの気持ちはつぎのような箇所からもうかがえる。

マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいた。外には戦い、内には恐れがあった。(コリント七・5

そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であった。(コリント二・3

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々であった。(コリント十一・23

こうした困難は数々あったが、そうした追いつめられた状況を多く経験したからこそ、そうした窮状を助けた人のことをいっそう感謝をもって記したのだと考えられる。
もちろん、フェベという女性はその一例であって、別のところでは、ギリシャの都市(ピリピ)の人たちに宛てた手紙において、つぎのように書いている。

ピリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもなかった。(あなた方だけが私を助けてくれた。)
また、テサロニケ(ピリピに近い都市)にいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた。(ピリピの信徒への手紙四・1516

このように、パウロの遭遇したさまざまの困難において、思いがけない人物やキリスト者の集まりによって彼は支えられたのがわかる。
また、このローマの信徒への手紙の最後の部分で、フェベという女性に次いで書かれているのが、「プリスカとアクラ」という二人であるが、この二人は夫婦であって、プリスカの方が妻である。ここにも、意外なことに女性の方を先に書いている。つまり、使徒パウロの最大の重要な書簡で最後に名をあげて感謝を記している人たちの最初の二人がいずれも女性であったということなのであり、聖書においては、このように女性の果たす役割がいかに大きいかが暗示されているのである。
これは、福音書においてもみられる。
主イエスが復活したとき、最初に知らされたのは、意外にも十二弟子でなく、罪の女と言われていたマグダラのマリアやほかの数人の女性たちであった。復活とはキリスト教史上で最大の出来事といえる。それがあったからこそ、逃げてしまった弟子たちも新しい力が与えられ、キリスト教徒を迫害していたパウロもその復活の主イエスによってキリスト者と変えられたのである。
そのようなきわめて重要な出来事に女性が第一に接したということのなかに、当時低い存在だとされていた女性の存在そのものへの深い洞察が感じられる。
また、「主にある、選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」と言っていることからすると、ルフォスという人の母は、パウロには特別な関わりのあった女性であったのがうかがえる。
またこのローマの信徒への手紙の十六章の三十名近いリストのなかには、明らかに奴隷であったと推察できる名前もいくつかあるという。
こうした名前の列挙によって、パウロがさまざまの人たちによって、経済的にも支えられ、また命の危機があったときにも、助けられ、また母親のような愛をもって対した老婦人もあったのがわかる。
このように、多くの人たちがパウロという一人の使徒を支え、助けたのであって、決してパウロ一人の超人的な活動で福音が伝わったのでなかった。多くは名も知られてない人であったが、また地位の高いひと、奴隷のような人もいた。老人から若者、さまざまの人がパウロの周辺に置かれて全体として、ひとつのからだとなり、福音が宣べ伝えられていったのがわかる。
信じる人たち、キリスト者たちは「キリストのからだである」という特別な表現がなされる。これはこうしたパウロの具体的な関わりの記述からもうかがえるのである。
こうした状況はパウロだけでなく、それ以後のキリスト者たちの活動においても、ずっと見られたことであろう。キリストを信じる一人一人が、大きな木の一つ一つの枝のように用いられ、それが全体として一本の木となって、神の国に成長していったのである。
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