リストボタン復活の重要性について     2004-3

四月十一日はイースター(*)(復活祭、復活節)です。クリスマスと並んでキリスト教では最も重要な記念日(祝日)です。イースターは毎年固定した日でなく、「春分の日の後の最初の満月の後に来る日曜日」と定められているので、毎年変わっています。
クリスマスはキリストの家畜小屋での誕生や一般的にも誕生祝いというのは受け入れられやすいこと、またサンタクロースやクリスマスツリー、ケーキ、あるいはクリスマスプレゼントということで広く知られています。
しかし、キリスト教信仰にとってはクリスマスよりずっと重要な復活を記念するイースターのことは一般の人にとってはほとんどなじみがないという状態です。
復活ということがいかに重要であるかは、キリスト教の伝道そのものが、キリストの復活がなかったら行われなかったと考えられることからもわかります。
キリストの教えや奇跡をいくら目で見て体験しても、キリストが捕らわれるときにはみんな逃げてしまったり、一番の弟子であったはずのペテロすら、キリストの弟子でもなんでもないと、固く誓ってしまい、その後も逮捕をおそれて家にて潜んでいた、などからもわかります。
また、イエスの誕生は二つの福音書だけにしか書いてありませんが、復活はすべての福音書、使徒言行録、パウロの書簡など聖書のほとんどどの部分にも記されているのです。
弟子たちの最初のキリスト教伝道のときに語った内容は、「イエスは復活した」という単純な証言であったほどです。
このような重要性のゆえに、私たちもまた復活についてはつねに思いを新たにして学ぶ必要があると思われます。
復活とは死んだものが生き返ること、さらにキリストのように完全なものにされることです。さらに、罪のため死んだ状態といえる人間が罪の赦しを体験し、そこから新しく生まれ変わることをも復活と言われています。
死んだ者が生き返る、そんなことはあり得ない、と一蹴してしまうのがおそらく大多数の人の考えではないかと思います。
復活がないならどういうことになるかを考えてみます。そのときには、死んだらそれで終わりであり、人間とは年齢とともに体はあちこち故障ができて、ますます不完全になり、病気になり、体も精神も衰え、最後に滅んでしまうということになります。
しかし、もし復活があれば、どのような事態になっても希望はあり、闇は決して光に勝つことはできません。復活があるかないかで全くこの世に生きるということは違った世界になります。
復活がなく、死んですべてが終わるのなら、この世のあらゆる善いもの、美しいもの、愛のようなものも最終的にはみんな消えていくのです。それは希望が絶えることであり、すなわち絶望です。
また、キリスト教でいう復活とは単に弱さに満ちた肉体の命よきもや汚れたままの人間の心がそのままよみがえるのでなく、清く、永遠的なもの、神のような存在によみがえるということです。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(フィリピの信徒への手紙三・21

ですから、復活があるというとき、永遠に滅びない真実や愛、清さや正義があるということは前提となっています。それは当然のことで、自然に復活するのでなく、神が復活させて下さるのであり、そのような力を持つ神は当然永遠に存在するお方であり、究極的な愛や真実、あるいは正義といったあらゆる善きものを持っておられる方であることが根本にあります。
最も大切なもの、それは永遠的なものです。ですから神が持っておられるような愛や真実、正義といったものがこの世で最も大切なものとなります。そうしたものをはぐくむことが最も重要な仕事になり、それを破壊しようとすることは、永遠の秩序に背くことであり、神からの裁きを受けてそこには祝福もなく平安もなくなるのです。
このことは、神の存在を信じない人でも、自分の心や周囲の人間を見ればだいたいわかることです。心に愛や真実に反対の憎しみや怒り、あるいは他人への中傷などをいつも持っていればそうした人の表情は曇り、目にもまた、その声にもある種の濁りが生じているのを感じることができます。
だからこそ、人を憎んだり、傷つけたり、その最もひどい形である命を奪うということが悪であり、決してしてはならないことになるのです。
なぜ人を殺したらいけないのか、ということに答えられない教師がいるといいます。もし、復活があり得ないで、すべては死んで消えていくのなら、殺すというような悪も、清い心もみんな最後は消えて同じになるのなら、少しはやく命を断っても同じということになってしまいます。
天才的数学者で物理学者であった、パスカル(*)は復活があるかないかで、人間の生き方にも決定的な違いをもたらすことをつぎのように書き記しています。

魂が死すべきものであるか、死なないものであるかを知るのは、全生涯にかかわることである。

魂が死すべきものであるか、死なないものであるかということが、道徳に完全な違いを与えるはずであるのは疑う余地がない。

どんな理由で、彼らは、人は復活できないというのか。生れることと、復活することと、かつてなかったものが存在するようになることと、かつて存在したもょが再び存在することと、どちらがいっそう困難なのか。存在し始めることのほうが、再び存在することよりも困難なのかどうか。(「パンセ」218222より)(**

*)一六二三年~一六六二年。フランスの科学者,宗教思想家,文学者。16歳で、すでに数学者の仲間入りし、19歳で計算機を史上初めて考案した。23歳のときに今日「パスカルの原理」として学校でも教えられ、広く知られている物理学の法則を見いだしたという天才であった。
**)パンセとは、フランス語で「思想」という意味の語。これは「考える」(penser パンセ)というフランス語の動詞の名詞形。


聖書においては、単に肉体が死んでも魂は残るとは言われていません。悪人も善人も同様に、死んだら魂が同じように残るといったことではないのです。悪事を重ね、悔い改めることもなくして死んでいった人、それは主イエスの言葉でいえば、「ぶどうの枝から切り取られて捨てられて焼かれる」というように表現されています。さきほど述べたように、悪をいつも心に抱いていればその人そのものからそうした善きものが焼かれて、よどんだ雰囲気が出てくることはそのような裁きを暗示するものです。
これは究極的な真実なものに意図的に逆らい続けていった人間の本質(魂)は、裁かれ滅んでいくということであり、逆にそのような真実な存在(神)に心を向け、犯した罪をも悔い改めて神に従おうとする人間の本質(魂)は、生きているうちからすでに永遠的なものに変えられる、そして肉体の死後もキリストに似たものに変えられるということなのです。

イエスは彼女に言われた、「わたしがよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ福音書十一・2526

復活については、主イエスの生きていた当時も、世の終わりには復活がある、と一部の人々は信じていたことが聖書にも書かれています。
しかし、このように、世の終わりに初めて復活があるのではなく、イエスを信じたときからすでに復活したのだと言われているのです。
人間とは、心にどうしても真実な思いや相手への本当の愛を持てずに自分中心に考えたり行動してしまうということでもわかるように、霊的に深くみると死んだも同然だと言えるのです。
新約聖書に表れる最大の使徒パウロには、自分は死んだもの同然だという強い意識があります。

善を行おうとする自分にいつも悪がつきまとっている。
善きことをなそうとする意志はあっても、それを実行する力がない
わたしはなんと惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか。(ローマの信徒への手紙七・1824より)

こうした記述をだれが自分とは縁のないものだと言えるでしょうか。
「自分は正しいことができているし、悪がつきまとってなどいない、人からもたいてい好かれている。生き生きと毎日生きている」などと思う人もいると思われます。
しかし、そうした人であっても自分に敵対する人のために心から愛の心をもって対することができるだろうか。非行少年やわるい道に落ち込んだ人、自分の子供や家族にひどい害悪を与えたような人を好意をもって見つめることができるだろうか。
また、日本では食物を贅沢に食べ散らしているが、現在も飢えて死に瀕している世界の無数の人が目の前に置かれるとしたら、そうした生活の不正はすぐに感じられると思います。
あるいは、会社や職場で、正しいことが行われていないのを知って果たしてそれをはっきりとその悪を止めるように言えるだろうか。
こうしたことはきりがないほどあります。このように考えればすぐにわかるように、人間の正しさとか自然の愛などというものは、影のようなもので、実態がなく、不正や冷たさで満ちているのです。こうした状況をキリストやキリストの霊を受けた人たちは何人にも増して鋭く見抜いていました。だからこそ、人間の自然な状態は死にたとえられているのです。

死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマ五・12より)
自分自身を死者のなかから生き返った者として神にささげ(同六・13より)
あなた方は以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのである。(エペソ信徒への手紙二・1

このように死んでいた自分を救い出し、憐れんで下さって新しい命に生きるようにして下さったというのが、本当のキリスト者たちの共通の実感だと言えます。それは教えられてわかることでなく、そのように魂の深いところで感じることなのです。このようにして、肉体の死後の復活ということが、すでに地上に生きている間からその前味ともいうべきかたちで体得させて下さっています。
こうしたきわめて重要な意味を持っているからこそ、使徒パウロは、キリストが私たちの罪のために十字架で死んで下さったことと共に、復活を最も大切なこととして伝えたと言っているのです。(コリント十五・34
復活には「信仰と希望と愛」が固く結びついています。
信仰というのは、まずこのことは信じることから深い意味が示されていくことで、目で見てから受け入れるということではいつまで経ってもわからないままになるということです。
そして希望というのは、復活があるからこそ、どんな事態になっても私たちは希望を持ち続けることができるのです。死んでも終わりでなく、死とともに完全な復活へと変えられると信じることができます。
さらに、愛というのは、死ですらも私たちを呑み込んでしまわないようにして下さったということであり、それは、神の私たちに対する深い愛の表れなのです。
復活は、信仰と希望と愛という最も重要な三つのことの結晶だと言えます。
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