リストボタン苦しみの後に (近畿地方のある方より送られた詩)    2004/4

後ろを見ないで 前を見よ
自分を見ないで キリストを見よ
人を見ないで 造り主を見よ、と教えられて

なるほど 本当にそうだと
思い、けんめいにそうしようと
つとめているのだけれど 性懲りもなく
その反対を 繰り返しているわたし

果てしもない 私の愚かさ みにくさ
こんな私なのだから 死んでも当然と
思うのだけれど その先に
両手を広げて 待っていて下さる
キリストの姿が見えるのだ

骨の痛みに耐えがたい思いをしながら
十字架のキリストを思っている
十字架に釘づけられたキリストは、
手も足も全く動かすこともできず
息することもままならない

その苦しみの中で イエス様は
「罪を彼らに負わせないで下さい」と
父なる造り主に祈ったという
なんという大いなる愛であろう

しかし、私は手も足も動かすことができている
三度の食事も運んでもらっている…
その私がどうしてキリストの愛を拒むことが
できるだろうか。…
そう思う一方で、なにかにふれると
すぐ舞い上がり さまよい出る 浅はかな私
私のすべてを十字架につけ
「どうぞ あなたの御手で私をとらえ
離さないで下さい!」と祈るのみ。

○これは、四月中旬にある方からFAXで送られてきたものです。(一部省略)
脊椎の圧迫骨折で二カ月ほど入院されていたとのこと。その間のきびしい試練に耐えかねる思いであったが、そこから苦しむ者、重荷を負う者は私に来たれ、との主イエスの言葉のように、キリストへと心を向け、痛みに耐えながらキリストの十字架の苦しみと痛みを深く思ったようです。
十字架は、私たちの生き方の模範でもありますが、それ以上に私たちの魂の深いところで巣くっている罪を明るみに出し、その罪を赦して下さる象徴ともなりました。そしてさらに、私たちが苦しむときに思い浮かべることによって苦しみを耐える意志と力を与えられるというような、さまざまの意味において十字架が大切に思われています。
聖書の中にも、著しい苦しみに耐えがたく、神に日夜叫び続けている魂のすがたが記されているのがあります。長いので一部省略し、また一部表現をわかりやすくしてつぎに引用しておきます。

主よ、わたしを救ってくださる神よ、
昼は、助けを求めて叫び
夜も、祈り続けて御前にいます。
わたしの祈りが御もとに届きますように。
わたしの声に耳を傾けてください。
わたしの魂は苦しみを味わい尽くし、
死ぬばかり。…
あなたは私を、影に閉ざされた所、暗闇の地に捨ておかれる。…
あなたはわたしから
親しい者を遠ざけられた。…
苦しみに目は衰え
来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び
あなたに向かって祈りの手をあげる。…
主よ、わたしはあなたに叫ぶ。
朝ごとに祈りを捧げる。
主よ、なぜわたしの魂を突き放し
なぜ御顔をわたしに隠しておられるのか。
わたしは若い時から苦しんで来た。
今は、死を待つばかり。…
主よ、あなたは、愛する者も友も
わたしから遠ざけてしまった。
今、わたしに近いのは暗闇だけ。…(詩編八十八編より)

こうした激しい苦しみと耐えられないほどの孤独が襲ってくることがある、それをこの詩は明らかに示しています。事実長い歴史のなかで、このような恐ろしい苦しみに打ち倒され死ぬばかりとなり、ついにいのちをも失った殉教者も数多くいます。
主イエスご自身が、十字架にかけられたとき、「主よ、主よ、なぜ私を捨てたのか!」と激しい叫びをあげられたことが二千年の間、人々の心に響いてきました。
神がおられても、また神は愛の神であってもなお、こうした苦しみが襲いかかることがある。そしてキリスト教の真理はそのような暗い谷間をも通って伝えられてきたのです。
それはこの真理がいかなる事態にも耐える力を与え、それに勝利していくということを実際に示すためでもあったようです。
そして地上ではついに得られなかった安住の地を、かなたの国、神の国に得たいという希望を持ち続けていく、力強い信仰と希望を与えられていったのです。
現代に生きる私たちもまた、それぞれが大きな重荷や苦しみに直面していくことはだれにも起こりうることです。
そしてそのときにこそ、こうした詩を書いた人の苦しみや、十字架の主イエスのになった重荷と苦しみの意味が深くわかり、同時に主イエスからの力をも受けることになるのです。区切り線
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