リストボタンことば    2004/4

180)(キリスト者の)最悪の罪は祈らないことである。キリスト者のなかにも、だれの目にも明らかな罪、言動が一致していない状態を見ることはまことに意外なことであるが、これは祈らない結果であって、祈らないことへの罰である。
祈りは食物と同様に、新鮮な力と健康の感覚をもたらす。人は飢え渇きを覚えて祈りへと駆り立てられ、祈りによって、戦いのために新たにされ、力が与えられる。精神もからだも常に活ける神を求め叫び続けている。(フォーサイス著(*)「祈りの精神」1315頁より)

・キリスト者は神を知った者、そしてその神はいっさいのよいことを持っておられるお方。とすればその神に祈り、求めることはごく自然で当然のことになる。
自分のうちなる汚れや罪を清める力もまた神が持っておられるし、神もそのことを願っておられるのだとしたら、その神に求めようともせず、自然のままの悪に心をゆだねていることはたしかに、キリスト者がなおも犯していく罪、悪の源だと言えよう。そこから不和や愛の欠如、正しい感覚がなくなること、この世の快楽や娯楽に負けることにもつながっていくといえよう。
祈りによって私たちはたしかに心が清められ、それによってからだも力づけられることをしばしば経験する。祈りがなければ心もよどんだままであり、人間的なものに惹かれやすくなる。
人間とは心身ともにその深いところで神に向かい、神からの力を受けようとしている存在と言える。
*)一八四八年イギリス生まれ。牧師、神学者。ここに引用した書は、一九一六年にイギリスで発行され、一九三三年に日本でも翻訳が出版されている。彼の記念碑には、彼の十字架信仰を記念して、「十字架によって光へ」(Per Crucem Ad Lucem)と記されているという。
181)この世界におけるただ一切の善き事だけを報道して、悪だの、くだらぬ事柄には見むきもしないというような新聞なり、評論誌なりを、われわれは持つべきである。それを読めば、この世には一体どれほど多くの善事がなされており、特に最初は邪悪だったものが善に転じたり、善に仕えるようになるものがどれほど多いかも、はじめて分るであろう。
「神は、神を愛する者たちとともに働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙八の二八)。これこそ、正しく、しかも永続的な楽観主義である。このようなことを、われわれは生涯において、それが単なる「偶然」とは思われないほど、たびたび経験するものである。(ヒルティ著・眠れぬ夜のために下 四月二十日の項より )
・このような新聞とかはごく小さな規模のものでしか存在できないであろうが、キリスト教関係のさまざまの印刷物は本来はそのようなものを目指して作られ、発行されていると言えるだろう。このことは、また私たち一人一人が、たえず「善きこと、美しいこと」に目を留め、悪しきことに直面してもそこに神の御手が触れて、それが転じて善きになると信じること、そしてそのようにする神の御手を見つめていることの重要さを示している。
悪を見つめてばかりいたら私たち自身もいつのまにか悪に呑み込まれてしまい、染まっていくであろう。
すべてを転じて善きに変える神の御手を思っているなら、実際にそのように悪いことやよくないことが転じて善きに変えられていくのを見ることができる。またはそのようになることを信じて待つようになる。
聖書はそうした意味で、最善の書であり、聖書に書かれている人間の罪や悪も最終的には滅ぼされ、善きことに変えられていくことを克明に記してある書である。
そうした本当の楽観的な見方へと指し示すように、そしてつねに清いこと、良いこと、美しいことを発信する情報源として、青く澄んだ空、夜空の星の輝き、野草などはその単純な美しさを人間に向けている。

182)われらはこの世の旅路の途上で
  ただ休むように生まれてはいない。
(この世的な)安らぎに心をだまされてはならない、
  この世での真の安らぎはただ一つ、
大いなる目標への確信にある。

願うのは、ただ勇者の力が与えられることだけです。
  地上では敵のさなかにあって
  困難な働きにおいて戦いをさせてください。
  天上の救われた人びとの家に行ってから、
  私は平和のナツメヤシの枝をかざしたい。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために上 三月二十五日の項より。)

・人間はたえず娯楽などの安楽を求める。しかし、この地上ではそうした安楽に身をゆだねていたら滅びへと向かっていくであろう。私たちの安らぎは、信仰のうちにある。神の国に導かれているということ、神の国のためのはたらきに召されているという確信のうちに憩いがある。
私たちの願いは、それゆえに困難から逃れて安らぎを得ようとすることでなく、そうした困難に向かう力であり、この世の力と闘うことが私たちの地上のつとめなのである。
そしてそのような歩みのなかにこそ、主イエスが約束された、「主の平安」が与えられるし、さらに神を信じる者には必ず究極的な平和がある。それは地上の生活を終えて天の国に帰ったとき。そのときこそ「主の平和」を心かぎり喜ぼう。


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