リストボタン地の塩・星のように    2004/5

人間はだれでもさまざまの汚れをもっている。正しいことがなしえない。清い心を持続することもできないし、真実な愛を隣人に注ぐこともできない。
このような状況はキリスト者となっても続いていく場合がいろいろある。それを見ていたら、私たちが地の塩だとか光だとか言われても到底そのようには思えない。
しかし、聖書においては主イエスや最大の使徒パウロがつぎのように述べている。

・あなた方は信仰によって義とされた。
(ローマ信徒への手紙三・22、五・19など)
・あなた方は地の塩である。(マタイ福音書五・13
・あなた方は以前には闇であったが、今は主に結ばれて、光となっている。(エペソ書五・8
・あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(ピリピ書二・15 口語訳、NRSNIV など)
・あなた方は自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。コリント三・16

すでにこのように、事実として語られている。未来に、正しい(義)とされるだろうとか、将来そのうちに、地の塩となるとか、もっと完全になったら光となるであろうというのでない。今すでに光となっており、塩となっているというのが聖書に繰り返し現れるメッセージなのである。
主イエスは、つぎのように言われた。

あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは役に立たない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。(ルカ十七・10)」

このように私たちが何かよいことをしたとしても、自分を振りかえって何にも取るに足らない僕だと感じる、それが正しい感情だと言われた。
それは神の無限の偉大さの前には私たちのよい行動などまったく取るに足らないし、また罪深い私たちのなすことであるから神の祝福なくば何の役にもたたないと感じるのである。
しかし、そのような役に立たないような者でありながら、それでも、神は私たちを正しい人間(義とされた)とみなして下さる。私たちがそのようにして神の前に正しいとされたのなら、それゆえに私たちは自ずから光となり、地の塩となり、神の霊のやどる神殿となる。
それは私たち自身が光であるのでなく、パウロが「あなた方は、主に結ばれて光となっている」と言っているように、私たちが義とされ、主に結びついているがゆえに、そして与えられた神の言葉や神を仰ぐ心(信仰)、聖霊のゆえに私たちは光となるということなのである。
それゆえ私たちは、地の塩、闇に輝く光だとみなして下さることを感謝し、喜びをもって受ければよいのである。
パウロが、「あなた方は自分が神の霊が宿る神殿であることを知らないのか」と言っているが、人々は自分のことであっても、神が宿る神殿であることに気付かないということがわかる。
同様に、私たちが自分を調べてみて、自分は地の塩だなどと納得するのではないし、また逆に自分は地の塩でない、星のように光ってもいないなどというべきでもないというのがわかる。それはあなたは義とされたのだ、ということと同様に感謝して受け取るべきことなのである。
それは神から見た事実なのである。いかに初歩的な信仰であれ、ひとたび私たちがキリストを信じて、キリストの赦しを受けたときから私たちは地の塩として主が用いて下さるのである。
しかしそれも注意していなかったら、私たちが神から離れて、信仰が変質したり、与えられている神の言葉が失われて人間の言葉や意見、私たちを取り巻く伝統や習慣、あるいは神学のようなものが次第に私たちに与えられた神の言葉を変質させていくのである。それが、主イエスの言われた、地の塩でありながら、その塩が味を失うということである。
じっさい、そのような例を私もいろいろと知っている。若いときには信仰に熱心であったにもかかわらず、次第にその信仰があいまいになったり、伝統的な日本の神社宗教のようなものに近づいていったりしてしまう。戦前の日本のキリスト者が天皇を現人神とする一種の偶像宗教に引っ張り込まれたのもそうした例の一つであった。
復活はキリスト教では、十字架と並んで最も重要なことである。これについても同様なことがいえる。
ふつうには、復活は将来に生じることと思われているが、現在すでに実現しているということが強調されている箇所がある。
それはマルタとマリヤという姉妹との会話のときである。

マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは知っています。」と言った。
イエスは言った。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
(ヨハネ福音書十一・2426

ここでも、マルタが信じていたのは、世の終わりのときの復活であったが、主イエスが言われたのは、そのような未来のときでなく、今すでに信じるだけで、復活の命を与えられるのだと言われたのである。
さらに、悪との戦いについても同様なことがいえる。キリスト者とは単に自分だけの安らぎの中に安住していることが目標でなく、この世の悪そのものとの戦いの生活を送るようになった人でもある。その意味で、私たちの戦いは最終的に敗北するのか、勝利なのかということは極めて重要なことといえよう。この点についても主イエスはつぎのように言われた。

あなた方には世では苦難がある。しかし、勇気をだしなさい。私はすでに世に勝利している。
(ヨハネ福音書十六・33より)

キリストがすでに世の悪に勝利しているゆえに、私たちキリストに結びついている者もまたすでに勝利している。だからこそ主イエスは、勇気を出せと、励ましたのであった。
このように、聖書においては、通常の考え方では未来のこと、しかもいつになったら実現するかわからないはるか未来のことと思われることが、すでに現在のこととして言われている。
そうしたすべてのことは、信仰によって、すでに今、神の御前で義とされているということに出発点がある。それほどにキリストの十字架での死は大きな意味を持っているのである。

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