リストボタン「天路歴程」について    2004/5

私たちのキリスト集会では、毎月一度、日曜日の午後に礼拝集会が終わった後に読書会をしていてもう三十五年以上昔から続いている。今までにカール・ヒルティの著作、「聖潔のしおり」(救世軍の出版物)、ダンテの神曲、ジョン・ウールマンの「日記」、内村鑑三の著作などを読んできた。「神曲」は、長編であるため、毎月一歌ずつ学んでいったが、時折集会の都合などで、読書会を持てないこともあったので、地獄編から天国編までを学ぶのに十二年ほどの歳月を要した。そして現在は一年ほど前から始めた「天路歴程」の学びを続けている。
「天路歴程」とは、今から三百数十年ほど昔にイギリスで書かれた。これは中国語の書名をそのまま日本でも使っているので、わかりにくい題名である。原題は、「巡礼者の前進ーこの世から来るべき世へ」(The Pilgrim's Progress from this world to that which is to come)というもので、神を信じ、キリストを信じる者がいかにして、罪ゆるされ、力を与えられ、守られ、導かれて天の国へと歩んでいくか、その歩みを書いたものである。
著者は、バニヤンといって、とても貧しい家庭に生まれ育った。父親は鋳掛屋をしていた。これは、鍋・釜などを修理する職業で、それは動物を使う興行師や行商人と同様な扱いを受けていて、社会的地位はことに低かったという。イギリスの文学者、作家でバニヤンほど低い地位にあった人はなかったと言われるほどであった。
そのような低き地位にあった人が、世界的な文学作品、しかもキリスト教信仰の上でもとくに重要な内容のものを生み出すことができたのは、神の導きという他はない。
彼は牧師でないのに、説教をしたということなどの理由で、三回にわたり入獄を経験し、合わせると十二年半もの獄中生活を経験している。
そうした経験をもとに、キリスト者であってもたいていの人が共通して経験すること、神の導きと助け、また罪との戦い、さまざまな霊的な困難や試練など、だれも書いたことのないような表現で著者は表現した。
バニヤンは生涯に六十冊にも及ぶ多くの本を書いたが、そのうちで最も重要なのが「天路歴程」でこれは聖書についでよく読まれてきて、過去三百年ほどの間に、百数十国語に訳されてきたという。
バニヤンは、獄中にあっていつ解放されるか分からない、最悪のときには獄屋で病気となり、死んでしまうかも知れないし、六年もの間獄屋に閉じ込められたことが、二回もあったことからして、判決で二度と獄から出てこられないような重い刑になるかも分からない。
こうした不安や苦しみ、孤独、そして真っ暗で、不潔な牢獄での夜の長い苦しみこんなただなかでバニヤンは「天路歴程」という名作の着想を与えられていったのである。しばしば偉大な作品は著者自身も思いも寄らない状況のときに作られる。それはいわば神ご自身が人間の予想をこえてなされるということを示すためであろう。
キリスト教の文学作品(詩)としてとくに重要なのはダンテの「神曲」である。これは邦訳で五百頁を超える長編で内容的にも実に深く、しかもキリスト教の重要な内容をもとにしつつ、哲学や歴史、当時のキリスト教界の腐敗、ことにローマ教皇の問題、人間の愛、深い霊的な体験、自然への深い洞察等々、実に多様な世界を詩のかたちで描いたものである。
これは、今から七百年ほど昔、イタリアのフィレンツエという町の政治家であったダンテが自分の町から追放され、家族からも離れ、各地をさすらい、財産も失われてしまったそのような放浪のただなかで神曲は書き始められた。
このように、キリスト教の詩としては聖書を除いて、最もその内容の深さや広さをもって大きな影響を与えてきたダンテの神曲は、著者自身予想もしていなかった苦境のなかで、書き上げられていったのであった。それは神がそうした命の危険が伴う状況のなかで、それまで大切にしていたものをほとんど失った状況のなかで、ただ神への切実なまなざしが生れるようにと、神がダンテに苦難を与えたと考えられるのである。
また、旧約聖書の詩集である、詩編の多くを作り、それらの詩がさらに新たな詩を生み出すことにつながっていったと考えられるダビデも、かれの受けた苦難の数々とそこから真剣に神にすがり、神への叫びが生まれ、それが多くの詩を生み出す原動力になったと言えよう。
詩というものは、深い感動がなければ生れないし、また心がまっすぐに向いていなければ他人の心に響くようなものは生れない。
中国の哲人が言ったように、詩を生み出す心の特質は、「思い邪なし」(*)である。すなわち、自然であれ、人間であれ、見つめるものに対する心がまっすぐでなければ、他者の心を打つ詩は生れない。

*)子の曰く、詩三百、一言もってこれを覆う、曰く、思い邪なし。この意味は、「詩経三百編を一言で総括するなら、心の思いに邪なしだ。」(「論語」為政第二の2)

ここでは、バニヤンの「天路歴程」という代表作の中から内容の一部を取り出して、読んだことのない方のために紹介をしたいと思う。ここで「キリスト者」とは、この本に登場する主人公のことである。

キリスト者は人生のあるときに、自分がいかに正しい道からはずれていたか、どんなにさまざまの罪を犯してきたかを思い知り、このままでは自分は滅びていくことをはっきりと知ることになった。その滅びから救われるためには、どうしたらよいのか、それが最も重要な問題となったのである。
キリスト者は野を歩いていて、一冊の書物を読みながら、心に悩み苦しんだ。そして彼から出たのは「救われるためには、私は何をなすべきなのか」という叫びであった。このように目覚めた人間がまず考えることは、自分の現実を知ってそれで絶望したり、それをまぎらわそうとして快楽に走ったりするのでなく、何をなすべきか、ということであった。
聖書においても、キリストへの道を備えるためにあらわれた洗礼のヨハネ(*)は、人々に自分たちがいかに正しい道からはずれて生きてきたか、かれらの罪を自覚させた。すると、人々は初めて目を覚ましたかのように次のように口々に言った。

そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。取税人も来て「先生、私たちはどうすればよいのですか。」兵士も「この私たちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
(ルカ福音書三・1014より)

こうして、そのキリスト者が「何をなすべきか」という強い叫びをもっていたとき、導き手に出会った。その導き手(伝道者)は、聖書を手渡した上で、つぎのようにキリスト者に勧めた。

向こうのくぐり門が見えますか。
あの光から目を離さないで、まっすぐにそこに行きなさい。そうすればその門が見える。そこで門をたたけば、どうすればよいかわかる。

こういわれてキリスト者はその光を見つめつつ出発したが、たちまちひきとどめようとする者が現れて何とかして行かせまいとした。それを振り切ってキリスト者は出発した。
しかし、「背負っている重荷」のために早く前進できなかった。この重荷とは、罪の重荷であった。私たちは罪という重荷を軽くしていただかない限り前進が困難だということを表している。
しばらくして彼は同行していた人とともに、沼に落ち込む。

二人は野原の真ん中にある非常に泥の深い沼地に近づいた。そしてその中に落ち込んでしまった。その沼の名前は「落胆」であった。そのためかれらはしばらく苦しみうめき、ひどく泥まみれになった。キリスト者は背中に背負っている「重荷」のために泥沼に沈みかけた。

この「落胆の泥沼」にはだれでも落ち込んでしまう。バニヤン自身がそうした中に入り込み、神を信じて這い上がろうとしてもどうしてもできず、苦しみもがいたという経験があったのである。
私たちもまた、信仰をもっていても、なお意気消沈したり落胆して祈る気力もなくなってしまうようなこともある。それはこのキリスト者のように、背中に負っている「重荷」があればなおさらそうである。自分は罪深い者だと知ったとき、さまざまの苦しみや悲しみ、弱気な気持ちがあふれてきて、立ち上がって前進する力をなくしてしまうことがある。
罪人がその堕落した状態に目覚めるときには、いつでもその心に自分はさばかれるのでないかという恐れや神は本当に助けてくれるのか、人間の悪の方が強いのではないのかなどの疑いが生じたり、憂うつな気持ちや無力感が襲ってくる。そうした状態を泥沼にたとえている。

そこから自分の力で出て行くことができず、泥のなかにはまり込んでいきそうになったとき、意外な助け手が現れ、かろうじてキリスト者はそこから這い上がることができた。この泥沼にはまったのも背中の重い荷物のせいであったから、キリスト者はそれをなんとかして降ろしたいと願っていた。

この重荷を捨てるということは、それこそ私の求めていることです。しかし、自分では捨てることができないのです。私たちのところの人たちにはこのような重荷を私の肩から取りのけてくれるような御方は一人もいません。
それで私はこの重荷を捨ててしまうためにこの道を歩いているのです。

天路歴程、すなわち天の国への歩みはその最初の段階で、罪の重荷を取り除くということが極めて重要なことになっている。これは重荷があるままでは、旅を到底続けられないし、その重荷のゆえに歩き続けられずに引き返してしまうし、落胆の泥沼に落ち込むし、その上、目的の光も見えなくなってくるからである。
それゆえキリスト者はさらに次のように言う。

背中のこの重荷は、道を歩くときの苦痛や疲れ、飢え、あるいはほかのさまざまの苦難などどんなことに比べてもこの重荷の苦しみが大きいのです。この重荷から解放されさえしたら、途中でほかのどんなことに出会おうがかまわないと思えるほどです。
私は自分が手に入れたいと願っているものが何であるかわかっています。それはこの重荷がとれて楽になることなのです。

こうしてキリスト者はその最大の願いであった重荷を取り去っていただくために旅を続けていく。そしてさまざまのところを経てようやくとある上り坂にたどり着く。そこには十字架がかかっていた。キリスト者がちょうど十字架のところに来たとき、彼をあれほど苦しめた重荷は肩からほどけて背中から落ちて、転がりだして近くにあった墓の中に落ち込んでもはや見えなくなった。
十字架を仰いだだけでこのように長い間の重荷から解放されるとは思いもよらなかったことであった。彼は、涙があふれ出て止まらなかった。それは今までのどんなことよりも深い喜びだと感じた。
そのとき、3人の輝く人が彼のところにやってきて、一人は「あなたの罪は赦された」と言い、第二の者は彼のぼろになった衣服を脱がせて着替えの栄光の衣を着せた。また第三の者は彼の額に印を付けて、封印された巻物(聖書)を与えて今後の旅のためになるようにとのことであった。
こうしてキリスト者は、旅の最大の問題であった重荷を解決することができた。それは罪赦されて新しい歩みを始めるということであり、私たちにとっても三百年の歳月を経ても少しも変わらない真理なのである。
私自身、キリストの十字架を仰いで、ただそれだけでキリスト者となり、それまでの重荷を軽くしていただいた。そこから私のキリスト者としての生活が始まったのを思い出すのである。
それはこの本に出てくる、「キリスト者」(バニヤン)の経験と同じであって、同様の経験をした人たちは数知れないであろう。
こうして、重荷を十字架を仰ぐことによって取り去ってもらったキリスト者は天の国への旅を続けていく。そのとき、悪魔がキリスト者を激しく攻撃してくる場面がある。そこでキリスト者は恐ろしくなって、引き返そうか、それとも踏みとどまろうかと激しく動揺しはじめた。
しかし、キリスト者が落ち着いて考えてみると、彼は前には鎧を来ていて攻撃を受けても防ぐことができるが後ろからの攻撃には、一つの矢を受けても倒されると気付いた。それは背中にはよろいを着ていなかったからである。そこで思い切って踏みとどまろうとした。攻撃をしてくる悪魔に打ち勝つには、後ろをみせて退くことが最も危険だとわかったからである。
このことは、著者であるバニヤン自身の経験であった。
神の国への歩みはただ、前進しかない。
しかし、踏みとどまったキリスト者に対して悪魔は襲いかかり、キリスト者が持っていた剣は手から振り放され、まさに殺されそうになった。キリスト者は生きる望みも失いかけた。
そのような時、神の憐れみによって彼は剣をふたたび手に取ってし悪魔に攻撃をかけて退けることができた。キリスト者の剣とは、聖霊の剣であり、神の言葉であった。
悪魔を神の助けによって退けることができたとき、キリスト者は神への感謝と讃美を捧げた。そのとき、彼は傷をいろいろと受けていたが、思いがけず、命の木の葉を幾枚か持った手が彼のほうへと届いたので、それを取って傷につけると、直ちにいやされた。(この命の木の葉のことは、黙示録に書かれてある。)
神を信じて、神の助けと導きを受けて生きてきても、時に押しつぶされそうな苦難や悩み、神はもう自分を助けてはくれないのではないか、そもそも神はいないのではないか、などという深刻な疑問が生じることがある。「天路歴程」においても、すでに見たように、悪魔の激しい攻撃を受けようとしたとき、真剣に天への道を行くのを止めて引き返そうかと悩んだとある。
このことは、ダンテのような、力強い生き方をした人物であっても、同様であった。彼はその人生の途上においてあまりの困難のゆえに、正しい道から引き返そうと思ったことがある。彼はその主著「神曲」のはじめの部分に、彼自身が人生の半ばで深い悩みと苦しみに出会ったことが記されている。

人生の道の半ばで
正しい道を踏み外した私が
目を覚ましたときは、暗い森の中にいた。
その厳しく荒涼とした森が
いかなるものであったか、語ることは実に難しい。
思い返すだけでも、その恐ろしさが戻ってくる。

このような苦しい経験をしてそこから辛うじて脱出することができた。そして、彼方に光に包まれた山が見えた。
しかし、そこに登ろうとすると、途中に恐ろしい三匹の獣がつぎつぎと現れてその山に登ろうとするダンテに襲いかかろうとした。それに直面したダンテは、あまりの恐怖のために、光のさす山に登ることをすらあきらめて再び暗い谷の方へと退いて行った。
それは自分の今まで生きてきたように自分の力や意志で光の山に登ろうとしても人間的な欲望や高ぶり、野心のようなものが頭をもたげてきてどうしても登れないという、ダンテ自身の精神的体験をあらわしていると考えられている。
そのように、前進しようとしてもどうしても進めない、引き返そうとするような弱気、落胆、自分の罪に前途をとどめられてしまうということが、この大作にも最初から描かれている。
そのようなダンテに近づいて新たな道を示してくれたのが、神からつかわされた導き手であった。その導き手に導かれて歩んで行く道筋が神曲の内容となっている。
このように、私たちが正しい目的地を目指して進んでいこうとするときには、必ずさまざまの誘惑が入り込んで私たちを正しい道からそらし、あるいはそこからこの世の世界に引き返そうとさせる。
聖書にある、ユダという人物はそのような闇の力に敗北した例であったし、現在でもひとたび正しい道を歩み始めてもそのうちにこうした苦しみや罪のなやみなどでこの世に引き返してしまうことがしばしば見られる。
そうした誘惑に打ち勝つためにも、絶えることのない祈りやみ言葉の学び、そして自分以外の同じキリストにつながる人たちによる祈りの支えや励ましなどが不可欠なものとなってくるといえよう。
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