リストボタン返舟だより  2004/9-6

私は、聖書を読み始めてまだ一年余りです。全く思いがけない救いの体験をしたことをきっかけに、松山市のカトリック教会で約半年間、毎週司祭から個人指導を受けるとともに、ミサにも欠かさず参会させていただきましたが、受洗を前にして指導をお断りいたしました。
それは『キリスト教の歴史』(小田垣雅也著、講談社学術文庫)を昨年暮れに読み、信仰のみによって義とされるということをなぜカトリック教会が嫌うのか、それまでの疑問が氷解したことによります.
実は、私は自分で云うのもおかしいのですが、浄土真宗の熱心な信者でありましたので、信のみによって救われる、行いはいらない、行いはできないのだ、という真理は体験的にも教学的にも、たとえローマ教会がどう言おうとこれだけは絶対譲ることの出来ない明らかなことだったのです。
(浄土真宗とキリスト教の)両方から信を賜るというそんな不思議があり得るのかどうか、それが知りたいとカトリック教会の門を叩いたのがそもそもの始まりでした。その結果は、前述のとおりカトリックから離れることとなりましたが、一方では、本願寺派の御同行、御同朋にも別れを告げることとなりました。
この上は、信仰義認の立場に立つプロテスタント教会を訪ねるべきなのでしょうが、数や種類があり過ぎて、かえっていずこにも足が進まず、そんな時に内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』『一日一生』に出会い、無教会に関心を持つようになったのです。
特に、『一日一生』に抜粋されてある内村師の言葉は霊感と力に満ちています。この他、『キリスト教問答』『後世への最大遺物』『代表的日本人』を読み、現在は『ロマ書の研究』を読みつつあるところです。なお、ヒルティの『眠られぬ夜のために』を毎日読むこととしています。(四国地方の方)

八月号の「詩編百三編より」は魂が揺すぶられました。キリストよりはるか以前の詩人の信仰、罪を赦された人の喜びと讃美、とても深い味わいでした。詩編に対して更に更に強く心が引きつけられます。(関東地方の方より)
八月に札幌での交流会がありましたが、その時の参加者から、「はるばるお出で頂いた皆様方から元気と信仰的な力を頂きました。コンピュータを効果的に使っての活動にも目を見張る思いでした。」とのおハガキがありました。私とともに同行した何人かの視覚障害者が、聖書を読んだり讃美をパソコンを用いてできるようになっていることが特に印象に残ったようです。
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