リストボタン二種類の喜び 2004/10

今年はオリンピックがあり、また野球で大記録を作った選手のこともあり、新聞やテレビのニュースでも金メダルをいくつ取 ったとか、記録があといくつで達成とかいうことが繰り返し報道された。
日本の選手がアメリカで稀な記録を達成したことは、喜ばしいことであろう。
しかし、こうした喜びとまったく本質的に異なる喜びの世界があるが、それらは決してそのように新聞やテレビなどのニュースでは扱われることがない。
それは天における喜びである。

よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にある。
(ルカ福音書十五・7
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがある。(同、10

このように、神が特別に喜ばれることは、真実なものに逆らい続けてきた人間が、そのことに気づき、神に向かって自分のそうした罪を悔い改めること、そこに天の国で大いなる喜びがあるといわれている。
これは、よく知られた放蕩息子のたとえ話でもさらに強調されている。
ここに書かれている息子は、父親の財産を父が生きているうちから分け前を受けとって遠いところまで出かけて放蕩のか ぎりをつくした生活をし、もう生きていけなくなるまで、落ちぶれてしまった。そこで初めて自分の罪に気づき、どんな仕打ちを受けてもいいから帰ろう、罪を悔い改めて父のもとに帰ることにした。

そこで息子は、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼を見つけ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
息子は父に言った、『お父さん、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうお父さんの息子と呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせよ。そして、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて喜ぼう。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。
(ルカ福音書十五章より)

ここでの父親とは神をあらわしていて、神はどんなことを最も重要なこととしているかが明確に記されており、神が最も喜ばれることは何であるかが印象に残る描写で描かれている。
スポーツ界の人たちがもたらす喜びというのと、このような聖書で記している喜びとの違いはどこにあるか、それはつぎのようなところにある。
まず、オリンピックでの金メダルとか、スポーツ界で一位となるということは、他の大多数の人たちにはまずできないことである。
生まれつき病弱な人、歩けないような障害のある人、また貧しさのなかにあって、スポーツをするどころでなく、学校を卒業したのちすぐに一日中働かないといけないような多くの人たちには、特別なスポーツの練習する団体に高額の費用を払うゆとりもない。
またアジアの貧しい国々では、生れてから学校すらまともにいけない、病気すら治してもらえない、食物すらまともになく、おびただしい人々が飢えと貧困に今も苦しんでいる。そこでは、一日中ボールを追いかけてするスポーツなどは夢のなかの世界でしかない。
オリンピックで金メダルをもらう選手、あるいは大記録などをつくるような選手の背後には莫大なお金が動くために、その金にむらがる人たちも生じる。そこにはドーピングといった不正な方法ででもメダルを取れば、自分の国からは莫大な報奨金をもらえるという欲望が巣くうことにもなる。
このように、大々的に報道されるたぐいの喜びは、本質的に普遍性をもっていないのであって、時間的にも場所的にも、ごく限られているし、そこにはしばしば金にまつわる暗い影がつきまとっている。
金メダルを取ったという喜びは、敗者の人には分かつことができない。いわんや貧困にあえぐ国の人たちと共有することもあり得ない。日本人が金メダルをたくさん取ったといって喜んでいるその様子を、アジアの飢え苦しむ人が見れば何を感じるだろうか。
それに一番を取ったといって喜ぶその心は、成績がわるいものを無視し、見下すことにつながる。
またそうした喜びはたちまち時間とともに色あせてくる。だれかが金メダルを取ったとかいう喜びは、ほとんどの人にとって数か月もしたら何の喜びにもならなくなっているだろう。
しかし、聖書に言われている悔い改めに伴う喜びは、勝ち負けによる一時的なものではなく、神の喜びであり、それは悔い改めた本人も最も深い喜びを実感するものとなる。放蕩息子の父は最大限に喜びを現したが、その息子はもう奴隷同様に扱われても仕方がないという覚悟で帰って来たのに、かつてないような喜びで受け入れてくれたということは、この息子にとっても初めての深みある喜びであり、かつてまったくそうした喜びがあるとは知らなかったのである。
そしてこのような、悔い改めに伴う喜びは、天の国の喜びであるゆえに、だれにでも分かつことができる。他の人に悔い改めを指し示して、その人が神に心を方向転換するとき、その人も同様な喜びを持つことができる。神が喜んで下さっているという実感がさらにその人の喜びをも新たにしていく。
悔い改めの喜びは、本人にも最大の喜びであり、周囲の人たちにも大きな喜びとなるばかりか、その喜びは他者にも伝わっていく。
私たちが罪赦された喜びの実感は、はるかな古代にペテロやパウロが自分たちの裏切り行為やキリスト教徒を迫害したような重い罪を赦されて感じた喜びと同質のものなのである。それは連綿と二千年もの歳月を超えて、大河のながれのように人類の魂を流れ続けてきたのである。
スポーツや芸能の世界で一番を取るなどはきわめて少数の生まれつきの能力ある人にしか与えられない。しかし、悔い改めて神のもとに立ち返る喜び、そして神からさらにゆたかな霊の賜物を与えられる喜びは、いかなるひとでも、またどんな社会的状況であっても与えられるものであり、他者にも分かち与えることのできるものである。
私たちはこうした静かな、しかし神に根ざす力強い喜びを求めていくものでありたいと思う。

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