リストボタンキリスト者の願い 2004/10

キリスト教の最大の使徒というべきパウロは、新約聖書に収められた彼の手紙につぎのように自分が何者であるかをはっきりと記している。

人々からでもなく、人を通してでもなく、キリストと神によって使徒とされた
(ガラテヤ書一・1より)

パウロは、人によって任命されたのでもなく、人間的血筋とかも関係なく、直接に神によって「召された」(*)と強調している。召されたという原語の意味は、「呼び出された」という意味である。
彼が呼び出されたのは、何のためか、それはユダヤ人以外の人々をキリスト信仰に導き、信仰による従順、すなわち、原語のニュアンスをとって言えば、主イエスに聴き従う(**)ようになるためであった。

私たちはこの方(キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされた。
(ローマ書 一・5

*)・神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ、コリント一・1
・キリスト・イエスの僕、神の福音のために選ばれ、召されて使徒となったパウロから(ローマ一・1

**
従順とはギリシャ語で、ヒュパコエー hypakoe であり、これは ヒュポ hypo(~の下) と、アクーオー akouo(聴く)から成っており、「~の下で聴く」という意味。


人間は、神に聴くという姿勢をはじめからだれも持っていない。神などいないと思っているから当然である。ただ自分の欲望、本能、考え、感情などで動いている。それに聞いているのである。そのような人間の根本的な方向を変えて、神に向き直り、神に聴こうとする姿勢へと転換させるために、パウロは呼び出されたのである。
私たちもキリスト者となったのは、そのためであって、日々の行動や考えることが自分という人間、あるいはほかの人間の言うままに従うのでなく、神、あるいは主イエスに聞いてそれに従おうとする姿勢を持つようにと呼び出されたのである。集会の参加においても、他人との交わりにあっても、自分が○○したいとかでなく、神はどちらを喜ばれるだろうか、と考えること、まず神に聴こうとする姿勢である。
そしてまたそれをパウロは言い換えて、「あなた方がキリストのものになるように、キリストに属するものとなるように、呼び出された」とも言っている。
私たちは、自然のままでは、罪のとりことなっている。罪というものの奴隷だと言われているように、自分中心に万事を考えていく。そのような状態から解放して、キリストのものとならせるためだというのである。
私たちはそれぞれ日本という国に属しているし、それぞれ会社や家庭に属している。しかしキリスト者となったということは、そのように属していながら、魂はキリストに属するようになったのである。私たちの国籍は天にある、とパウロは別のところで言っているがそれと同様である。
次にパウロは、キリスト者とは、神に呼び出されて「聖なる者となった」と言っている。これも、神から呼び出されて、直ちにいわゆる聖人になったというのでなく、「神のために分かたれた者になった」という意味である。
日本語の聖人というのと、聖書の書かれたギリシャ語において、「聖なる者」(ハギオイ hagioi
というのでは意味が大きく異なっている。どんなに不完全な者であっても、私たちがキリスト者となったということは、神から呼び出されたということであり、それはすなわち神のため、神の国のためにこの世から分けられた存在になったということなのである。
キリスト者というのは、器なのである。土で作られた汚れた、しかももろい器なのである。
欠点はある、人間的なところもいろいろと残っている。それはたしかに壊れやすい土の器でしかない。しかしその土の器に、神の国の大いなる宝を盛ってそれを神は他者に分かち与えようとされているのである。
このことを私たちが深く知らされるとき、自分の欠点とか罪、弱点などにいつまでもこだわることはない。ただそのような器にも高価なる真珠にたとえられる天の国の宝を盛ってくださった神に感謝し、その宝を他者に分かち、伝えていけばよいのである。

パウロはローマに行きたいという強い願いを持っていた。しかしそれは、もちろん自分の楽しみのためでなかった。ふつう、人間がどこかに行きたいのは、ほとんどが単なる会社の用事であったり、観光や気晴らしなど、自分の希望や楽しみのためである。 そこには自分というのが中心にある。自分がそこに行きたい、見たい、遊びたい、等々である。
しかし,パウロは、聖霊によって与えられた力や真実、愛、洞察、預言などの賜物をローマの人々に少しでも分かちたい、与えたいということが目的であった。人間は、キリストに導かれるときこのように、人に会う時でも、自分が気の会う人だから会いたい、といった自分中心でなく、相手の人に分かちたいという気持ちになる。 病人に会うということも、そのように会いたいというより、その人に何か力を与えたい、分かちたいという気持ちなのである。

あなたがたにぜひ会いたいのは、(神の)霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからである。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのである。
(ローマの信徒への手紙一・1112

私たちの究極的な生き方がここにある。それは「神から霊の賜物を受けて、それを他者に分かつこと」である。
神からの霊の賜物のうち最高のものは、愛であるから、これを言い換えると、神から愛を受けて、その愛を他者に分かつということである。
ここにキリスト者の最終的な願いがある。
人生の生き方などというと千差万別のように思われているし、実際人間の数だけ生き方はある。
万人にとって共通して一番よい生き方などない、と思っている人が多数ではないだろうか。しかし、神のご意志ははっきりとしている。
霊の賜物の最高のものが神の愛であることは、他の聖書の箇所ではっきりと言われている。

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
愛を追い求めなさい。
コリント十二・31~十四・1より)

このようにパウロは自分が受けている神からの恵みをローマのキリスト者たちに分かちたいという切実な願いのゆえに、彼等に何とかして会いたいとねがっていた。それほどパウロには神からの賜物があふれていたのがうかがえる。旧約聖書の詩集(詩編)に、つぎのようなのがある。

神はわが牧者なり、我には乏しきことなし。
神は我を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われる。
わが杯はあふれる。(詩編二三より)

これは神から与えられた賜物を豊かに与えられていた魂の声である。同様にパウロはさらに深くキリストの恵みと賜物で満たされていた。それゆえこのように、「互いに励まし合いたい」と言っているのである。互いによきものを与え合う。私たちもこのような生き方をすることはできる。その第一歩は、互いに祈り合うことである。
キリスト者たちが日曜日ごとに、あるいは他の曜日に持たれる家庭での集会なども、それはパウロが言っているように、互いに霊の賜物を分かち合うことであり、励まし合うことがその目標となる。
主がそれらの集会のうちにいますとき、必ず参加する者たちは互いに励まされ、各自の受けた賜物を知らず知らずのうちに分かち合うことになっていく。
「二人、三人私の名によって集まるところに私はいる」と主イエスが約束してくださったとおり、その集まりのうちにいます主が、そのように賜物を与え、分かちあえるように目に見えない力で導いてくださるのである。
しかし、もし人々の間に主がいてくださらないならどうであろうか。人間同士は互いに自慢しあったり、他者のわるいところをいったり、あるいは互いのうさばらしなど意味もないおしゃべりに時間を費やすことになりがちである。
しかし、主がそこにいて下さるときには、天の国がそこに実現しているのであって、そうした集まりのなかに命の水が流れはじめる。一人で家にいるときには与えられないような平安や魂の満たしを実感することができる。
「ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたい」とパウロはまだ会ったことのない、ローマのキリスト者たちに、神からの愛と情熱をもって語ろうとする。
音とは、その原語の意味は、「よき知らせ」である。*)(実際、そのように「聖書」のタイトルを「Good News」と付けた聖書も外国にはある。)

*
福音とは、ギリシャ語で、ユウアンゲリオン euangelion という。ユウ eu とは「良い」という意味、アンゲリオンは、アンゲロウ という「知らせる」という動詞がもとになっている。この言葉かは、英語のevangel(福音)とか、人名の エヴァンジェリン(Evangeline)などが作られている。この人名は、エヴァと短縮されたりして、ストー夫人のアンクルトムの小屋とか、ロングフェローの長編詩「エヴァンジェリン」の主人公の名としても使われている。

この世は新聞やテレビ、あるいは、周囲の人間は、本当によき知らせというのを持っていくことはできない。だれかが優勝したとか、試合で勝利したとか、よい人と結婚したとか、出産したとかも一種のよい知らせではある。しかし、次に負ければたちまちわるい知らせとなり、結婚後に悲劇的な離婚となったり、子どもが成長して親に限りない苦痛を与える場合もあり、それらを見てもわかるように、この世のよい知らせはたちまち悪い知らせともなってしまうもろいものである。
パウロが情熱をもって告げようとしている、キリストの福音こそ本当の意味で良き知らせなのである。それこそは、使徒たちの時代から今日まで良き知らせであり続けている。
それはどんな絶望の人、重い罪を犯したり、死の病にある人、孤独な人、貧しいひとたち、そのような最もくらい状況に置かれ、もはや何のよい知らせもないと、絶望しているひとたちにすら、良き知らせであり得るのである。
そのような驚くべき永遠性をもった良き知らせ、だからこそパウロはそれを命がけで人々に伝えようとしたのであり、以後二千年にわたって世界中でその福音は語り続けられてきたのである。
今日も、それはよき知らせであり続けている。神は太陽の光のように、絶えずよき知らせ、罪の赦しと、死に打ち勝つ力の存在(復活)、そしてこの世は最終的に新しい天と地になるという永遠の良きニュースを神の国から私たちへと送信しつづけてくださっているのである。


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