リストボタン伝道について 吉村 孝雄 2004/11

 伝道とはキリストの福音を伝えることである。福音とは、十字架による罪の赦し、死の力に勝利する復活、この世のあらゆる問題の最終的解決としての再臨、これがその基本にある内容である。これらはすべて、人間の直面する根本問題への解決を指し示すものであり、それゆえにこそ、喜びの知らせ、すなわち福音なのである。
 私はこれを大学四年の時に知らされて、それまでの闇と苦しみの生活から引き出された。それがそれまでのどのような経験にもまして深く魂を揺り動かすものであったので、将来の方向も転換し、一年後から職場となった高校で、放課後の自由参加の聖書の会などで伝え始めた。そのとき、私は信仰の経験もなく、聖書に関する知識にもわずかであった。しかし、神が働かれたために、最初の年からその後次々と転じた学校においても信仰を持つ人たちが現れた。
 こうした自分自身の経験から、そして聖書の記述から言えることは、み言葉を伝えることはキリストがあれば足りるということである。キリストによって自らが闇の中から救われ、新しい力を与えられ、この世に神の愛が実際に存在し、生きて働くキリストがおられるということを魂において深く確信し、キリストに導かれつつ伝える。そしてそこにキリスト(聖霊)が働いて下さるなら、それだけで伝わる。他にはなにもいらないのである。それがあれば、思いがけないときに必要な人や書物、あるいは費用なども備えられる。まことに「主の山に備えあり」(創世記二二・14)である。
 主イエスの弟子たちはきわめて重要な時にイエスなど知らないといって逃げてしまったため、自分たちの弱さ、主を裏切った罪というものに打ちひしがれていた。
しかし、祈って待てという、復活のイエスの言葉を信じて待っていたときに、聖霊が突然注がれたのであった。そこから彼等の伝道が始まった。聖霊こそは伝道への原動力なのである。
 パウロにおいても、旧約聖書の多くの知識を身につけ、すぐれた教育を受けたがキリストの真理は全く分からなかった。むしろキリスト者を迫害するばかりであったが、そこに復活のキリストが現れ、パウロに聖霊を注いだ。そのときからパウロはキリストを宣べ伝える者と変えられたのである。
 彼には十二弟子たちのようにキリストからの詳しい教えというのは受けてはなかった。 しかし、生けるキリストが働きかけたゆえに、後の大いなる働きがなされることになった。 
 聖霊とはキリストの霊である。キリストはどのような人にまず近づいたか、それは失われた一匹の羊であり、当時だれも相手にしなかったような重い病人や障害者、そして悩みや悲しみに打ちひしがれている人たちであった。
 現代の私たちにおいても、キリストをまず身近な弱い立場にいる人にまず伝えようとすること、それは主の御心にかなったことであるがゆえに祝福される。主はそうしたことをともに導いて下さる。
 福音伝道こそは、キリスト者に与えられた最大のつとめであり、また特権であり、また戦いであり、喜びでもある。
 キリストの福音こそはあらゆる問題の根本的解決を与えるものであるからだ。
 その福音を伝えることにおいては、キリスト者すべてが招かれている。キリストの罪の赦しに、また生ける神が現実におられるということに心揺り動かされた経験を持つならば、それをもとにして各人が可能な方法で伝えることができる。
 重要なことは、周囲の人がどう言うかとか、自分には経験があるか、聖書の知識、聖書の原語であるギリシャ語などを理解しているか、等々そうしたことを考える以上にまず自分のうちに働くキリストがどう言われるか、を聞き取ることである。
 福音が絶えず命の水の川のように流れ続け、伝えられていくということは、神のご意志である。それはすでに旧約聖書にもしばしば見られる。
今に至るまで、私は驚くべき御業を語り伝えてきた。御腕のわざを、力強い御業を来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩編七一・1718)」
福音を伝えることは、深い神の御計画であり、神のご意志である。それは世の終わりまでなされていく。
「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられる。そしてそれから最後が来る。」(マタイ二四・14) 私たちが幼な子のような心をもって神を仰ぎ、その心をもって福音伝道にかかわるとき、それは神のご意志にかなったことであるゆえに必ず祝福される。福音を受けるもの、伝えるものの双方に恵みを受けるこの福音伝道へと神は私たちすべてを招かれている。
 真理は単純である。それゆえ真理を伝えること、福音伝道もまた単純である。
生きるはキリストとパウロは言った。キリストが私たちに罪の赦しを与え、心動かし、キリストが力を与え、なすべき道を教え、必要な人やものに出会う機会を与え、闇にある人の心に触れさせる。み言葉を伝えることもまたキリストである。(これは、今年の十月十日に福岡市で開催された無教会のキリスト教全国集会における発題で語った内容の要約です。)

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