リストボタンいのちの水 2005/1

水はいのちを支えるものとして広く知られています。食物は食べなくても水さえあれば、一カ月ほども生きられるが、水がなかったら、三日ほどしか生きられないと言われています。
なぜ、水がなかったら生きていけないのか、それは水はからだに酸素や栄養分を運んでいるので、水が十分になかったらそれが運べないし、ことに脳に酸素が行かなかったらすぐにその働きは止まってしまい、それは心臓や肺の動きも支配している中枢が動かなくなるということであり、生きていけなくなるわけです。
水は、体全体に、養分を送り、酸素を送って支えていますが、それだけでなく、筋肉で生じた熱を全身に伝えたり、細胞内での複雑な化学反応なされるためにも水は不可欠です。また体内で不要となったものを排出するためにもなくてはならないものです。
また、私たちの目にする動植物もすべて水がなかったら生きていけないのであって、イスラエルのような乾燥した地域でも、古代からブドウやイチジク、オリーブなどが知られていますが、それらは地中深く根を降ろしてわずかの水分を取り入れて生きているのです。
さらに、地球全体を考えてみると、水は広大な海、川、そしてそれらが蒸発して雲となり、雨となって大地をうるおし、そしてふたたび、川や海に流れと循環して地球上の生物全体を支えています。
こうした極めて重要な性質ゆえに、古代から水は根源的なものだとみなされ、すでに紀元前六世紀のころにギリシャの哲学者、ターレスは、万物の根源物質(元素)は、水だと考えていたし、その後の哲学者たちもやはり水は根源物質とみなしたのです。
私たちに毎日身近なものとなっている、火曜日、水曜日といった曜日の名前のうち五つは、中国の五行説(*)からきていますが、そこにも古代中国の思想家たちも、やはり火や金(金属)とともに、水も根源的なもの、重要なものとみなしていたのがうかがえます。
この水の重要性は精神的な世界、目には見えない世界においても同様です。人間はふつうの水がなくては生きていけないけれども、精神的にも目には見えない水がなかったら生きていけないのです。
それは聖書の世界では古くから、旧約聖書の最初から強調されています。
ふつうの水と同様に、全世界に流れていくべき霊的な水があるということは、すでに創世記によっても預言的に記されています。

主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。(創世記二・46

こうして、創世記の天地創造の記述のもう一つの伝承(*)によれば、創造の最初には渇ききっていた状況がまず記されていて、そこに最初の重大な現象として、水が地下から湧き出たということ、それによって地上の全世界がうるおされたというのです。
そして、さらに、つぎのような記述が続きます。

エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川はで、第二の川は、クシュ(エチオピアとも言われる)第三の川は、チグリス、第四の川は、ユーフラテスであった。(創世記二・1014より)

ここで言おうとしていることは、その重要な水はエデンをうるおしたのちに、四方へと流れだし、全世界をうるおしていったということなのです。古代文書において「四」という数は、全世界を象徴的に意味していたのです。
神が完全な園として造られたエデンの園を特徴付けているのは、全体をうるおす水であり、それが流れ出た水がさらに全世界へと流れて行ってうるおすというのです。
この記述から見てもいかに、水の重要性、それは神の楽園だけでなく、全世界へと流れてやまないものであり、世界をうるおし、生かすものだということが強調されているのです。
このような、万物を霊的に支える水があるということを、その創世記の著者は驚くべきことに今から三〇〇〇年近く昔にすでに知っていたのです。それは単なる哲学的考察とかいったものでなく、神からの直接の啓示でそのとようなことを知らされたからでした。

*)創世記はいろいろのもとになる文書を組み合わせて構成されている。ヤハウエ資料による天地創造の記述では、現在の創世記の二章四節後半からがその始まりとなっている。そこでは、まず人間が創造されている。また創世記第一章から二章前半までは祭司的資料がもとになっていて、独特の荘重な記述になっている。このほかに、エロヒム資料というのがある。ヤハウエ資料というのは、神の名を使うときに、ヤハウエという名称を使っているからである。これは、紀元前九五〇年ころに書かれたと考えられている。エロヒム資料というのは、神の名を使うとき、エロヒムが用いられているからであり、紀元前八五〇年~七五〇年頃に北王国で書かれたとされている。また祭司的資料というのは、紀元前五八七年に、当時の大国バビロニア帝国が攻めてきて、ユダの多くの人々が遠くはなれたバビロンに捕囚として連れて行かれた後に、名の分からない祭司が神の霊を受けて書き記したと言われているもの。

さらにこうした啓示は、今から二五〇〇年あまり昔の預言者であった、エゼキエルも受けています。

彼(み使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。更に四五〇メートルほど行くと、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返る。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書四七・19より)

この心を惹く驚くべき記述は、神のいます神殿からいのちの水が湧きあふれ、それがたちまち大いなる川となり、世界へと流れ出ていくというのです。それは周囲のものにいのちを与える水であると言われます。
このような記述は単なる空想でなく、神がたしかに生じることとして、創世記の著者やエゼキエルという預言書に特別に示したということができます。
そしてそのことは一種の預言でもあったので、それはキリストによって成就されることになったのです。
これは、聖書においてはつぎのような箇所をあげることができます。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・3738

ここでは、とくに主イエスが特別に力を込めて強調していることが分かります。それは「最も盛大に行なわれる最後の日に」、とくに「立ち上がっ」て、しかも「大声で」というように記されています。
それはこのことが、キリスト信仰の中心にあるからです。キリストを信じることで何が与えられるのか、それは、ここで言われているような「いのちの水」が与えられて、それまでの魂の渇きがいやされ、さらに、周囲にもそのいのちの水が流れだしていき、まわりをもうるおすというのです。
そのためにこそ、キリストは十字架にかかり、私たちの罪を赦し、清めて下さったのです。
このいのちの水とは、神の聖なる霊、聖霊であるとこの箇所のすぐ後で言われています。
たしかに、キリストを裏切り、逃げてしまった弟子たちが再起して、力強くキリストの復活を証ししていき、キリスト教が世界に伝わっていったのは、まさにこのいのちの水である聖霊を受けたからでした。
このように、いのちの水としての聖霊は、キリストの福音を全世界に伝えていく原動力となりました。たしかに、キリストを裏切り、逃げてしまった弟子たちが再起して、力強くキリストの復活を証ししていき、キリスト教が世界に伝わっていったのは、まさにこのいのちの水である聖霊を受けたからでした。

このいのちの水については、もう一つとくに有名な箇所があります。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ四・14

この主イエスの言葉は、さきほど引用したエゼキエル書の言葉がイエスによって霊的な意味で実現したということを示しています。
つぎの讃美歌はこのことを歌っています。

天つ真清水(ましみず) 流れ来て
あまねく世をぞ 潤せる
永く渇きし わが魂も
汲みて命に 帰りけり

天つ真清水 飲むままに
渇きを知らぬ 身となりぬ
尽きぬ恵みは 心のうちに
泉となりて わき溢る(讃美歌 二一七番)

この「いのちの水」の重要性は、聖書の最後の書である、黙示録にもその終りの部分で現れます。

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。(黙示録二二・1~2)

 このように、キリストの福音の約束する究極的な世界もまた、いのちの水の流れる光景として描かれています。
 聖書の巻頭にある創世記から、黙示録に至るまで、神に動かされた人たちは、一貫していのちを与える水、神の聖なる霊が注がれる世界、その霊の満ちた世界があることを示され、それを人々に指し示したきたのです。
人間は水がなければ生きていけない。しかし、それは人間だけでなく、動物も植物も同じです。
主イエスは、「人は、パンだけでは生きられない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ福音書四・4)と言われましたが、それと同様のことが水についても言えるのです。
人間に特別なことは、口から入る水だけでは生きてはいけないのであって、神から与えられるいのちの水が不可欠です。どんなに口から入る食物や水があっても、心は満たされるということとは別です。日本は水は豊かに恵まれています。食物も同様で、学校給食や宴会場、コンビニなどから捨てられている食物はおびただしい量にのぼります。しかし、心が満たされているかというと決してそうではないは多くの人が感じているところです。
どんなにふつうの水があっても、心まではうるおされない。魂の深い渇きを満たすものこそは、キリストが与えて下さる「いのちの水」にほかならないのです。
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