リストボタン私たちを見つめるまなざし  2005/2

この世には何も私たちを見つめているものはないのだろうか。私たちの日々の生活を見つめ、罪を犯したときも、また苦しみのとき、悩みのときも深い愛をもって見つめるまなざしなどあるだろうか。
自分を愛してくれる人間はそのような気持で見つめていてくれると思うが、そんな人はいないから自分のことを愛をもって見つめてくれる存在などないというのが、多数の人たちの実感ではないかと思われる。
小さな子供を思う母の心、とくにその子供が病気となり、その原因も分からないときには日夜その子供を見つめ、離れているときもそばにいても、忘れることなく心で見つめ続ける。
しかし、そうした人間の愛情深いまなざしは、一時的なものでしかない。 病気がなおればそうした愛の注ぎは少なくなり、また成長していくにつれて、親子の衝突もあると今度は逆に怒りや反感すら生じてくることもある。
親子の愛でなくとも、人間同士の愛や友情などは概して一時的であり、深いところまで見つめることもできない。たとえ人間的な愛情で結ばれていても、私たちが苦しみ悩むときには、また病気で痛みの激しいとき、それをだれが本当に実感できるだろうか。それぞれの心の奥に宿るものはだれも分からない。
人間の世界ではこのように私たちの魂の深みまで見つめてくれる永続的な存在などは到底持つことはできない。しかしそうした人間の孤独に対して、聖書に記されている神、そしてキリストこそはそのような存在だといえる。
聖書には、そのような神のまなざしが満ちている。というより苦しみや悩みに満ちたこの世の人間に対して愛をもって見つめている存在があることを知らせるための書が聖書なのである。

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマの信徒への手紙五・8

この言葉を言い換えると、私たちが正しいことに反し、真実なことを求めないで自分中心に生きていたとき(罪人であったとき)からすでに、神はその愛をもって私たちを見つめ、さらに神の子キリストを私たちのために地上に送り、十字架にかけて私たちのそうした罪をも身代わりに罰して私たちを救い出して下さった。
そしてキリストの死と復活のあとは、聖霊となり、生きて働くキリストとなって私たちを見守り、助けて下さっている。
聖書にはそのような神のまなざしがたくさん記されてている。以下に述べるペテロについての記事もその一例である。
ペテロは漁師であって仕事をしている最中にキリストによって呼び出されてその弟子となった。そして三年間、キリストに従った。
しかしイエスが捕らえられていくとき、彼としては死に至るまで忠実に主イエスに従っていくと言っていたが、三度もキリストなど知らないと言ってしまった。最初にペテロが思わずそういったのは、年若い女のしもべに「この人もあの人(イエス)と一緒にいた」と言われたときであった。(*
命をかけても主イエスに従うといっていた者なのに、何の権力も地位もないそのような少女に言われて、三年も仕えてきたイエスなど知らないと言ってしまったのである。

*)若い女のしもべとは、原語のギリシャ語では、パイディスケー paidiske といい、これは、子供 パイス pais から作られた言葉であり、少女を意味する。

ここにはいかに人間の決心とか意志、感情などが移ろいやすいものであるか、がまざまざと記されている。
こうした弱さ、醜さというのが、罪であって、これはペテロという人物を通して人間とはそのようなものであることを示しているのである。
このように罪深い存在だからこそ、その罪にもかかわらず私たちを見つめ、その罪を赦し、導いて下さるお方が必要になる。
このとき、主イエスは背いたペテロをも見捨てず、一貫して愛のまなざしをもって見つめ続けておられた。
ペテロの裏切りのまえ、主イエスが十字架に付けられる前日の夜、最後の夕食をしたとき、イエスは、弟子たちのうち、特にペテロに対して言った。

私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だからあなたは立ち直ったとき、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ福音書二二・32

ここには、弟子に対して彼等がこれからどのようになるのか、すべてを見通しておられたのがわかる。その上で、主イエスは、ペテロの信仰がなくならないようにと祈ったと言われている。
それはペテロを見つめることである。だれかのためになされる祈りとは心で相手を見つめることだからである。
そしてイエスはさらにペテロが立ち直った後に他の親しい信徒たち(兄弟たち)をも力づけるような働きをすると予見していたのである。
そうした上で、三度もイエスなど知らないと言ってしまったようなペテロを、見つめられた。そのイエスのまなざしを受けて、ペテロは「激しく泣いた」と記されている。
それは自分の恐ろしい罪の深さ、自分でも全くわかっていなかった弱さ、それにもかかわらず見つめて下さっているキリストの愛に触れたからであった。
私たちもまた同様な状態であるのに気付かされる。いかに正しく生きようと思っても、また自分にはそんな罪などない、他人のことだと思っていても意外な弱さや罪を見出して罪深い本性を思い知らされる。
しかし、そこに注がれるものがある。それは神のまなざしであり、主イエスが私たちを見つめる目である。
目に見えるもののうちでは最も神秘的な存在といえる夜空の星は、そうした神の私たちへのまなざしを暗示するものと言えよう。
大詩人ダンテが、その主著「神曲」において、地獄編、煉獄編、天国編の三つの最後の言葉を「星」(イタリア語でステレ stelle)という言葉で終えているのは深い意味を持っている。(*
ダンテもまた、星をこの厳しいこの世において、神の愛のまなざしと感じていたことをうかがわせるのである。

*)あるアメリカのダンテ注解者がそのことについてつぎのように述べている。
Each of the three great divisions of the poem ends with the sweet and hopeful word stelle.
(「La Divina CommediaCharles H.Grandgent 308P Harvard University Press


星は確かに、いかなることがあろうとも、変わらない神の愛を象徴しているからこそ、神曲の注解者が言っているように、心にやさしく(sweet)、希望を与えるもの(hopeful)と感じられるのである。
そしてそれは夜空の闇のただなかに輝いているように、この世のどんなに暗い状況のなかにあっても、なお私たちに神の愛のまなざしが確かにあることを指し示している。

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