リストボタン復活祭(イースター) 2005/3

キリスト教で最も重要な祝日は、復活祭です。主イエスは、十字架で殺されたけれども、三日目によみがえって、死に勝利する力を持っていることを実際に示し、さらに神のところに帰って神とともにおられ、聖霊というかたちでいつも信じる人とともにおられるようになっています。
その重要性のゆえに、復活のことは、新約聖書のほとんどの書物にあらわれます。
四つの福音書はすべてキリストの復活を記しています。とくに最後に記されたヨハネ福音書には、日本語訳で、四ページにわたって詳しく書かれています。
使徒言行録では、復活からその記述が始まり、復活があったからこそ、弟子たちが力を与えられ、復活のキリストそのものである聖霊が注がれて、キリストの伝道が始まり、最大の使徒パウロもその聖霊によって、アジア(小アジア)、ヨーロッパ(ギリシャ)へと送り出されました。
新約聖書の他のところで、どのように復活のことが記されているか、その一部を次にあげてみます。

わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマの信徒への手紙四・2425

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことコリント十五・34

罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エペソ信徒への手紙二・56

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(ピリピ 三・21

キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。(コロサイ書二・12

この御子(イエス)こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒り(神の裁き)から私たちを救って下さる方です。(テサロニケ一・10

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。私の宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(テモテ二・8

死者の中から最初に復活した方、地上の王たちを支配される方、イエス・キリストから恵みと平和があなた方にあるように。(黙示録一・5より)

以上は一部にすぎません。これを見てもわかるように、新約聖書の全体にわたって、キリストの復活はその根本をなすことになっているのがうかがえます。
それに対して、クリスマスのもとになっているキリストの誕生のことは、マタイとルカの二つの福音書だけにしか記されていないのです。このことからも明らかなように、クリスマスよりも、復活祭の方が、聖書的にみても、信仰上からみてもはるかに重要なものなのです。そしてクリスマスが祝われるようになったのは、キリストの死後三百年以上も経ってからでした。
パウロが指摘しているように、もしキリストの復活がないのなら、キリスト者の信仰も空しく、いのちがけでキリストのために生きることも無意味になってしまうわけです。(コリント十五・12~)
復活のキリストがおられるということは、本当かどうか分からないことを信じているというのでなく、私にとっては動かすことのできない事実であり、真理となっています。
私自身は誰からもキリストのことをすすめられたのでもなく、全く突然に偶然的にみえること、古書店での一冊の本を立ち読みしたことからキリスト者となったのですが、これはまさしく、復活したキリストによってそのように信じるようにうながされたのでした。
復活などということは、最も信じがたいことだと一般的には思われるのですが、私自身はその復活のキリストが私の魂に触れて下さったことからキリスト信仰を持つようになったわけで、それが以後の人生の決定的な分かれ目となりました。
このように重要な、キリストの復活であるために、キリスト教の最も重要な祝日として最初から重んじられてきました。キリストの復活が日曜日であったために、日曜日を「主の日」(黙示録一・10)として集まり、礼拝を捧げるようになったのです。最初のうちはユダヤ教の土曜日の安息日と主の日(日曜日)を二つ守っていたのですが、後に土曜日の安息日の内容が、日曜日の主の日に統合されて、日曜日を主の日として守るようになったのです。
旧約聖書で、主の日というと、裁きの日という意味で使われており、新約聖書でも主イエスの再臨の日として用いられることがあるので、それと区別するために、日曜日のことは、主日(しゅじつ)という言い方を用いています。日曜日の礼拝を主日礼拝というのはそのためです。
このように重要な復活祭ですが、一般にはクリスマスよりはるかに知られていません。それは復活という、信仰の中心に直接に関わる内容で、キリストを信じない人にはなじめない祝日と言えるからです。それに対してクリスマスは、誕生というだれでもなじみやすいこと、プレゼントやサンタクロースなど、子供にも、また信仰を持たない人にも親しみやすいことが結びついているからでもあります。
また、復活祭の決め方も、「春分の日の直後にくる満月の次の日曜日」といった分かりにくい決め方になっていて、毎年日が変る移動祝日となっていることもいっそうなじみにくいことになっています。
しかし、復活の重要性は、毎週の日曜日が世界的に休みとなっていることで、歴史的に刻みつけられてきたと言えます。日本人で、日曜日が休みになっている理由が、キリストの復活によっているということをどれほどの人が知っているでしょうか。大多数の人は知らないと思います。私自身、キリスト教を知るまでは、日曜日が休みであるのは当然のように思っていて、それがキリストの復活が日曜日にあったから、主イエスへの礼拝の日として、世界的に休むようになった、などとは考えてみたこともなかったし、周囲の誰一人そんなことは言わなかったのです。
神は人間の思いを超えて、働かれる。それは世界の時間の数え方(西暦)も、キリストの誕生をもとにして数えているし、毎週の不可欠の休みである日曜日も、キリストの復活をもとにして生れていることを考えてもわかります。
このようにして、歴史のなかで、キリストの大いなる力が、世界を導いてきたのを感じさせられます。私たちも求めよ、さらば与えられん、との主イエスの約束によって、そういう大きな翼のように私たちを覆っているキリストの力を受けることができるわけです。

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