リストボタン復活したらどうなるか 2005/3

死は終りではない。キリスト教では死後に復活するということは、根本的に重要なことである。復活がないのなら、キリストも死んだままであり、比類のない純粋な愛と正義の御方もわずか三年の伝道で、ローマの権力者やユダヤ人の指導者たち、さらに人々からも見捨てられ、弟子たちにも裏切られ、無惨に殺されてしまった、ということになる。
それは最大の悲劇であり、そのようなことだけが事実であるなら、この世はまったく絶望的なものとなる。いかに私たちが善きことを目指し、行動によってもそれを証し、純粋な愛をもって生きても、もし最後は周囲からも誤解され、中傷され、死んでいくだけだ、善などというものは伝わらないのだということなら、何のために善いことを目指していかねばならないのか、そんなことは一切意味がなくなってしまう。
だからこそ、新約聖書で、キリストの最大の弟子といえるパウロが、次ぎのように述べている。

キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である。
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになる。(復活もなく、この世だけの希望しかないなら)わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者だ。(コリント十五・1419より)

仏教や神道では、死後は不安定な、人間に災いなどを与えるような恐ろしいものになるとみなされているからその霊魂をしずめるためにさまざまの法事や死者へのまつりごとがなされている。
仏教では人間の死後はたとえ生きているときにはすぐれた人であっても、魂は非常に不安定であって、生きている者にたたりや、災厄をもたらす恐ろしいもの。不自然な死に方をした者はことに大きな災いを生きている人間にもたらすと信じられ、だからその霊魂を安定させて、人間に危害を加えないようにするために子孫が祀りをしなければならないとされる。そのような祀りごとによって霊魂が次第に安定してきて、その期間が死後33年から50年とされてきた。法事ということや各家庭での仏壇に食物などを備えるしきたりもこうした観念から続いている。しかしこれはもともと仏教でなく、日本人独特の神道的な考え方がもとになっている。それと仏教とが組み合わさったもの。日本に伝わるもとの中国の仏教では三回忌までしかなかったのに、日本では、その後に、七回忌、一三回忌、一七回忌、二三回忌、二七回忌、三三回忌などと次第に増やされていった。仏教は日本にきてからこのように、時代とともに法事の数が増やされ、現在も増え続けて五〇回忌が言われるようになったのは、今から五〇年ほど前、一九五五年頃からという。「日本の仏教」(渡辺照宏著・岩波新書)「仏教のしきたり」(ひろ・さちや著)などより。
要するに現代も日本の多くの家庭で行なわれている死者へのまつりごとは、死んだ人の霊魂への恐れからしていることであり、それは原始的な宗教感情が今も続いているということになる。
七月に現在では、観光の祭として有名な京都の祇園祭も、もとはといえば、平安京ができて七〇年ほど経ったころに都で疫病が大流行して、それが恨みをもって死んだ人の霊が祟っているのだとされ、その霊をなだめ、しずめるために始まったものである。

全世界を愛と正義をもって支配されている神がいないということになれば、さまざまの霊的なものがうごめいているということになり、それらに対する恐怖が自然なものになってくるのは必然である。
しかし、キリスト教では、死後はそのような恐ろしいものになったり、生きている者にたたったりするようなものではなく、生きていたときのその人の心が何を見つめていたのか、そのうえでどんな言動をしてきたのかといった観点から、神の御前で裁きをうけるとされている。

神はそれぞれの行いに従って報いられる。
忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命を与え、
真理ではなく不義に従う者には、裁きを行なわれる。(ローマ書二・68より)

ただし、「行い」といっても、それは心のうちでなされることも含んでいる。例えば、十字架でキリストが処刑されたとき、その横でやはり十字架刑にされた重罪人の一人は、その最期のときに主イエスに立ち返ったが、それによって主から「あなたは今日、パラダイスにいる」との言葉を受け、裁かれることなく、救いに入れられることが示されている。そのような重い犯罪人は、処刑されるまでの行動といえば、神から厳しい裁きをうけるようなことであっただろう。しかし、息を引き取る間際であっても、心からの悔い改め、主イエスに帰依することによって、その悔い改めという「行い」によって救いへと入れていただけるということなのである。
このようにただ、神とキリストの力を信じ、キリストの十字架によるあがないを信じて、悔い改めるというだけで、裁きを受けることなく、救いをうけるというのが、キリスト教の根本にある。
肉体が死んだ後には人はどうなるのか、それについては昔からいろいろと想像されてきた。人間の意見や想像はじつに千差万別であるが、このことについて聖書はどのように記しているのかを調べてみたい。
その際、すでに述べたように、真実や正しいこと(その究極的な存在が主イエス)に全く背き続けて、嘘をいったり、人を欺いたり生命を奪って何ら悔い改めもないような人間については、どのように言われているか。 イエスにつながっているとは、イエスの本質である、神に根ざす真実や正しさ、あるいは愛につながっているという内容を含んでいる。
それゆえそのような真実などに意識的に、背きつづけるならばそのような人間の心は次第に枯れていき、心の中のよいものが焼かれていくということは容易に推察できる。
実際、私たちの周囲においても、ひとをいじめたり、間違ったことをしたり、快楽を追求ばかりしているような人の表情には冷たいもの、人を射すような何かがにじみでてきたり、その眼にも暗いものが宿ってくる。これは内なる善きものが、焼かれ、枯れていくということにあてはまると言えよう。

わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五・6

この言葉は、生きているときのこともすでに象徴的に表しているが、死後のことも含んでいると考えられる。この言葉は、表面的にキリストを信じていますという人だけが救われて、キリストを信じていなかった人はすべて焼かれるのだというような意味にとる人もいる。
しかし、主イエスは、別の箇所で「主よ、主よという者がみんな救われるのではない。」と明白に言われたのであって、言葉だけで主を信じていると言っている人がそのまま救いに入るとは言われていない。
ヨハネ福音書は全体としてとくに霊的なことを強調して記されているので、ここで書かれていることも人間そのものについての記述だと受けとることができる。「わたしにつながっている」ということは「永遠的な(神の)真実や愛につながっている」という意味をも含んでいるのであって、そうした真実や愛を受け入れないなら当然その人の心のなかは暗く、枯れていくことになる。

またほかの箇所でも死後のことを暗示する表現がある。

世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもはそこで泣きわめいて歯ぎしりする。(マタイ十三・4950

あるいは次のような記事もある。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。(ルカ十六・1925

このような記事は、愛好されて読まれるといった箇所ではない。
しかし、こうした箇所によって、もし私たちが生前に真実なものと結びつこうとせず、この世的な快楽に身をゆだねて生き続けるとき、地上に生きている時からすでに心は荒れて枯れていくが、死後もそのようなことが確実に生じるということを感じさせられる。
このように、悪をなし続けた者が死後において裁きを受けるということは、聖書に限らず、さまざまの宗教において言われていることであって、聖書のこうした記述は特異なものではない。

こうした厳しい裁きを受ける死後の状況に対して、もし私たちが自分の罪を知り、悔い改めつつ、神とキリストの真実と愛に心を向けるとき、ただそれだけで私たちは全く異なるところにと導かれるということは、すでに述べた、十字架の上でイエスと同じように処刑された重罪人への約束でもうかがうことができる。
どんなにひどいことをしてきた人間でも、ただキリストに心から向かうというだけで、かつての重い罪も赦され、さらにいろいろの苦行や善行を重ねたりせずとも、ただちに「キリストと共に楽園にいる」と約束されている。
これは、ただ信仰によって救われるのであり、水の洗礼とか善行や、何かの組織に加わったりといった条件など全くないということがはっきりと示されている例である。
そしてここで、死後は「キリストとともに楽園(パラダイス)にいる」
と言われている。パラダイスとはどういうところかについては説明されていないが、確実なことは、「キリストとともにいる」という言葉によって、救いの十分なる確証を与えられているのである。
さらに聖書はもっとはっきりとしたことを死後のことについて私たちに指し示している。
それはヨハネ福音書において、永遠の命ということが特に強調されているが、永遠の命が与えられるならば、私たちの死後も当然その延長上にあって完全な命が与えられることになる。永遠の命とは単に長い命というのでなく、神の命を指す言葉だからである。

御子(キリスト)を信じる者は永遠の命を得ている。(ヨハネ三・36

死後も裁かれず、この地上にあるうちにすでに永遠の命を与えられる。それは神の命であるゆえに死後も朽ちることなくその命は続く。死後はどうなるのか、という問いかけに対して、ヨハネ福音書では、信じる者は神の命を受けて死ぬことのない存在に変えられると言っている。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ五・24

このようなヨハネ福音書の表現に対して、最大の使徒パウロはどのように死後の命を表しているだろうか。

私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです。この二つの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。(フィリピ一・23

このようにパウロはこの世を去る、すなわち死によってキリストと共にいることを念頭においていたのがうかがえる。死んだらどうなるのか、それは神と同じ存在となっておられるキリストとともにいることなのである。
キリストは霊的存在となっているのであるから、キリストとともにいることが許されるということは、私たちも死後は霊的な存在となる。
このことについて、パウロはかなり詳しくのべている。
当時の人たちのなかに、復活などといっても眼には見えないではないか。そんなものはない、と強く主張する人たちが多く現れた。今も昔も同じである。 それに対してパウロは、つぎのように説明している。

しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれない。
(からだにも)天上の体と地上の体がある。
死者の復活もこれと同じである。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する。
つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのである。自然の命の体があるのだから、霊の体もあるわけである。コリント十五・3544より)

復活などないという人たちへの反論は、このように、神はわたしたちに自然のままの体だけでなく、霊の体を与えられた。私たちの復活のときには今の肉体がそのまま復活するのでない。そうでなく、目には見えない霊のからだとなって復活するというのである。
その典型的な例は、イエス・キリストである。主イエスは、十字架で殺され、この世からいなくなったと誰もが思った。しかし、キリストは神のような霊のからだとなって今も生きておられる。使徒パウロも、生前のキリストには出会ったことが記されていないが、復活のキリストに出会い、根本から生きる方向を転換することになった。私自身もその霊のキリストによってまったく関心のなかったところから、復活されたキリストの僕へと強い御手で引き出されたのであった。

そしてさらにパウロは私たちの死後の状態は単にキリストとともにいるだけでないという。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(フィリピ三・21

このように述べて、キリストを信じる者の死後とは、驚くべきことであるが、神と同質の存在となっているキリストと同じ形に変えられるというのである。復活されたキリストは、神と同じ万能であり、永遠の支配を持っておられる御方である。そのようなキリストと同じような栄光ある形に変えられるというようなことは、ふつうに考えればおよそ信じがたいことであり、どんなに修養など努力しても到底そのような変化などは起こりようがないと思われるであろう。
しかしそれほどまでに、神が私たちに与えようとされている恵みは測り知れないということなのである。すでに私たちは心の汚れや真実に反する数々の思いや行動によって本来は滅ぼされるべき存在であったのに、それをただキリストの十字架を信じるだけでその滅びから救い出されるという。
死後はどうなるのか、それに対して、「キリストの栄光あるからだと同じかたちに変えられる」と言っているのである。
それはキリストが神の力をうけているように、神のもとにあるあらゆるよいものが与えられるということであり、それは、地上で人間が味わうことを許されているよきことの完全なものが与えられるということでもある。
私たちは地上で生きているかぎり、罪を犯したり、弱い存在であるにもかかわらず、神への悔い改めと、神を仰ぐ心だけあれば、死後はキリストと同じ、栄光あるからだにしてくださる。
それゆえに、夫婦愛、兄弟愛、友人やキリスト者同士の愛など、神によって清められたような愛がすでに地上生活ではじまっていたら、それが完全なかたちで与えられる、成就されると信じることができる。それゆえ、私たちは死後に、かつて先立って召された人たちと会うことができると信じることができるのである。
私たちはだれでも次第に老齢化していく。そしていろいろの病気や孤独という恐ろしい苦しみが増えてくる。あるいは職業も退職してなくなり、することがないということのためにも苦しまねばならなくなる。そのようなことは、二〇代、三〇代のときには考えてもみなかったであろう。
そうして、だれもが確実に死を迎える。死の前には苦しい病気、耐えがたいと思われるさまざまの病気を経てからようやく死に至る場合が多い。そして、死後は、暗い、不気味な世界に行ってしまうとか、生きている人の祀りごとがなかったら荒れ狂う霊となってたたるとか考えられている。 死後の命も地上の命の延長上にあると漠然と思う人も多いし、いや何にもないのだ、一切が無になるのだ、と人間の浅い考えや想像で断定的に信じている人も多い。
しかし、死んだらそれで終わりといった世界が本当なら、なんとそれは空しいことであろう。
それなら私たちの人生などというものは、無に向かって進んでいるのだ。それを本当に突き詰めて考えるとき、人生に目的もなく、すべて死によって崩れ去っていく夢のようなものとなってしまう。
このような死後の世界と、キリスト教が指し示す死後の世界はいかにかけ離れていることであろうか。
私たちは現在の世界が闇であるのに、死後もさらにその闇がもっと深い闇へといくのではないのである。ただ、真実な神とキリストを信じること、仰ぎ見るだけでそうした闇でなく、光に包まれた死後の世界へと導いて頂けるのである。そして、神と同質のキリストが持っておられる完全なよきもの(栄光)を持ったような存在に変えられるのである。
誰にも壊されることのない、そして必ず与えられる消えない希望がここにある。
主イエスこそ我らの希望。栄光とこしえに神にあれ。

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