リストボタン低きを歩む 2005/5

人は、できるだけ、高いところ、目立つところ、人からほめられ、注目されるような歩みをしたいと願う。何かでがんばる、立派な持ち物、車や家、あるいは服を着たい、成績ができるようになりたい、スポーツでも遊びでも人の上に立ちたい、などなど子供から老人になるまで、ほとんどだれでもがそのような願いをもっていると言えよう。
しかし、主イエスは逆に最も低いところを歩まれた。それは生れたときにも、家畜の飼料入れの中で生れたし、伝道の出発点においては、罪人でないにもかかわらず、罪を犯した人間と同じように、汚れたものと同じ低いところまで降りて行かれ、その汚れを清めるための水の洗礼をバプテスマのヨハネ(*)から受けられた。ヨハネは、イエスが罪のないことを知っていたゆえに、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのにどうしてあなたが」、といぶかった。

*)バプテスマのヨハネとは、イエスのさきがけとなった人物。バプテスマ(洗礼)を授けていたので、バプテスマのヨハネ、洗礼のヨハネと言われている。

最後の夕食のとき、主イエスは、弟子たちの足を洗うという意外なことをされた。足は汚れた大地を歩くので汚れている、それに触れて洗うということは最も低い地位である奴隷のすることであった。主イエスは弟子たちの足を洗うという奴隷のようなところまで降りて行った。 主イエスが弟子たちの足を洗おうとしたとき、弟子のペテロは、驚いて「私の足など決して洗わないでほしい」と言った。
最後の道であった十字架への歩み、それは最も重い犯罪人の受ける刑罰であった。主イエスは全く罪もないにもかかわらず、そのような重い罪人と同じところまで降っていかれた。
主イエスの歩みは世の人の歩みとは全くことなる最も低いところを歩む道であった。
そしてそのような道は、限りなく高い天の国へと続いていたのである。

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