リストボタン金持ちと神の国    2005/7

金持ちは神の国に入れないのか、ということについて福音書につぎのように書かれている。

一人の金持ちの男がイエスのところに来て「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのか」と尋ねた。イエスが「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われたところ、その男が、「殺すな、盗むな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛せよ」というような教えはみな守ってきた、と言った。そしてさらに、「まだ何か欠けているのだろうか」とイエスに尋ねるほどであった。そこでイエスは「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施せ。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と厳しく言われたところ、この青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。
このとき主イエスは、
「金持ちが、神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」 (マタイ十九・24
と言われたのである。
これを読んで、自分とは関係ないことだと思う人が大部分だろうと思う。金持ちとは、何億もの金を持っている人、大会社の社長とか一部の政治家を思いだす人もあるだろう。自分はふつうの人間だからそんな金持ちの話しは関係がないと、思ってしまうのである。
しかし、そもそも金持ちとは、どこに基準を置くのかで全く違ってくる。日本にいて、華やかなスターとかプロ野球選手、大会社社長などと比べて自分は金持ちでないなどと考えていても、世界全体を視野に入れてみるとき、日本人はほとんどが、大金持ちの部類に入ってしまう。
そうすればもし、この主イエスの言葉をあてはめるなら、日本人はほとんどみんな神の国に入れないことになる。そんなことは誤りであるのは直ちにわかる。
聖書においても、金持ちであっても神の国に入れていただいたという例がある。

ザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスを見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、いちじく桑の木に登った。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。そして、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」(ルカ福音書十九・19より)

この記事のように、金持ちであったが、それを全部売り払わなければ神の国に入れない、救われないとは言われなかった。金持ちではあったが、主イエス自らがとくにザアカイを呼んだのであった。そして主に呼ばれたザアカイは喜んで直ちに主イエスを受け入れた。そして主はただそれだけでザアカイが救われたこと、すなわち神の国に入れられたことを告げた。
このように、金持ちとは一体だれのことなのかということ自体、だれもはっきりとは言えないし、金持ちだからといってただちに神の国に入れないということは聖書そのものも言ってはいないことなのである。
それならば、この箇所の本当の意図はどこにあったのだろうか。
それは、この金持ちの青年が、律法(神の命令)は何でも子供のときから行ってきたという気持を持っていたからである。律法とは、偶像を崇拝してはならない、唯一の神のみを礼拝せよ、隣人を愛せよ、殺すな、不正な男女の関係を持つな、盗むな、偽りを言うな、父母を敬え、などたくさんある。これらをすべて子供のときから守ってきたということは表面的には言える人もいるかもしれない。
しかし、神だけを敬うということは、果てしない内容を持っているのであって、どんな時でも神ご自身の本質である真実や、愛、絶対の正義、清さ、などなどをいつも最も重要なものとして尊重してきただろうか。そんな人がいるだろうか。人間はどんな人でもとくにまだ信仰的に深められていないときには、たとえキリスト者であっても、自分中心に考えている。他人が困っていても、それを助けることなどほとんどできない。わずかの時間やエネルギー、金などを使うのが精一杯である。神を第一に敬うということは、神の本質である愛や正義を第一にするということになり、それは具体的には出会う人間が誰であっても、相手に対して愛や正義を第一にして交わるということである。
そのようなことは到底できるものではない。まず自分が会いたい人、行きたい場所に行こうとするし、休みや娯楽を求めることは誰にでもある。それはしかし、愛や正義とは何の関係もない。
父母を敬うということにしても、それが全部できているなどとは到底言えない。敬うということも深く考えたら奥がいくらでもあるからである。
隣人を愛せよ、という戒めも愛というのはどこまでも深いから、どのように隣人のために尽くしたとしても、それでその隣人への愛が完全であったなどとは到底言えない。主イエスの言葉のように、友のために命をも捨てるほどの愛まで深まるからである。
このように、もし真剣に神の戒め(律法)を行おうとするなら、全部子供のときから守ってきた、などと到底言えるものではない。子供など、そもそもこうした戒めの深い意味は理解できないからである。
しかし、ここで現れた金持の青年は、こうした神の戒めの深い意味を考えようとせず、全部子供のときから守ってきたと、言い切ったのである。
このような、心に「持っている」という状態、自分は律法を行なってきた、という誇りがこの青年にあった。このような誇りこそ、最も神が退けられる。自分は金を持っているという意識以上に、自分は道徳的にもすぐれている、ほかの者はだめだ、といった意識、それこそ、心の内に「持っている」状態である。
金持となって、生活に不自由がないと、このような傲慢な考え方に傾きやすいと言えよう。
行いや学校の成績、社会での勤務先、地位、家柄や持っている車や家、そうしたものを持っているという意識があればあるほど、神の国には入れないと言われている。地位や経済的豊かさ、あるいは家柄がよくても、それらが神の前では何の意味もないと知っていればいるほど、神の国には入りやすいということになる。
ザアカイは、金持ちであったが、それらによっては深い心の満足が得られないことを思い知らされていたのがうかがえる。だからこそ、多くの人々を不思議な力で引き寄せているイエスという人物に特別な関心を抱き、なんとしてでも会いたい、見たいと思ったのであろう。もし彼が、地位や金で満足して高ぶる気持があったら、そもそもイエスにどうしても会いたいなどという気持が起こらなかったと考えられる。子供のように、木に登ってまで、イエスを見たい、という切実な願いはイエスによって直ちに知られていた。そしてそのゆえにイエスは多くの群衆が取り巻いているにもかかわらず、みんながローマ帝国の手先であり、汚れているとして見下していた取税人をとくに見つめられ、呼び出されたのであった。
何かを持っていても、それに満足したり、誇ったりするのでなく、それは自分のものでなく、神からゆだねられたものと受けとっているときには、神は私たちに目を留め、呼びかけて下さる。

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