リストボタン神の裁きについて    2005/7

新約聖書の世界では、キリストの愛、神の愛が中心であるから、裁きなどはない、と思う人もいる。
しかし、愛が最も重要なものとして記され、また神の愛はすべての人に及ぶからといって神の裁きなどないということはない。新約聖書においても、はっきりと神の裁きは記されている。つぎの箇所はキリストの言葉としては、最初に現れる裁きに関する言葉である。

あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。
もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。(マタイ福音書五・13

地の塩とはどういう意味か。それは塩があると腐敗するのを防ぐこと、わずかの塩で味わいをひきしめ、よくすることである。主イエスがこのことを教えられた当時、弟子たちはまだ主イエスを神の子として十分に信じることもできないし、十字架にかけられて処刑され、復活するといったキリスト教の根本の真理も受け入れることができない状態であった。これはとても不十分な状態だった。しかしそれでもなお、主イエスは「あなた方は地の塩である」と言われた。それは、人間がどれほど完成しているかでなく、人間が完全な賜物である福音を受け、キリストに不十分ながら従っていこうとするだけで、地の塩になりうるというのである。
私たちの行動ではなく、私たちの内にいますキリストのゆえに、また信じて受けた神の言葉のゆえに、地の塩と言われている。
しかしそうした地の塩という状態であっても、そこで私たちが油断して神の言葉を捨て、人間的な考え、自分中心の考えになるとき、私たちは塩気がなくなった、ということである。そのような場合には、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」と言われている。
これはまさに裁きである。最もよきものを受けたにもかかわらず、その大いなる価値を捨てて、別のものを、真実でないもの、偽りのものを一番よいものとして取っていくようなときには、神から捨てられるというのである。
このようなことは、他の有名な箇所においても述べられている。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五・56

このぶどうの木のたとえは、キリスト教世界では特によく知られた内容である。この主イエスの言葉のゆえにぶどうがキリスト教ではしばしば用いられるし、現代でも絵や写真、カットなどでよく見かける。
そしてたしかにぶどうの木は、厳しい乾燥地帯においても成長して、実ができるとその外観も美しく、水分も多く、甘みもつよい果物として貴重なものである。キリストの教えも連想され、食べてよし、また果実を踏みつぶして密閉しておくと、自然に発酵して、ぶどう酒という長くもつ飲み物となる。
そのゆえにこのぶどうの木のたとえも農村ののどかな風景、美しい色に熟したぶどうの実を連想させるのどかな情景がある。
しかし、このことはこのたとえが厳しさを含まないのではない。それは、この後半を見れば直ちにわかることである。もし私たちがキリストにつながっていないならば、投げ捨てられ、枯れるだけでなく、火に投げ込まれ、焼かれてしまう、という。これは裁きである。こんな裁きがあるはずがない、などと思う人が実に多い。
しかし、このことは至るところで見られる事実である。 例えば、私たちが真実そのものの御方であるキリストから離れ、嘘をつき続けるなら、すぐに人から信用されなくなる。あるいは、互いに愛し合え、との戒めに背いてだれかの悪口、中傷を続けるならそのような人間は警戒され、真実な友はいなくなるのは確実である。そしてその人自身、心に平安がなくなっていく。
私たちが、愛や真実に反する思いを持っていれば必ず、心のさわやかな喜びや平安はなくなる、という日常的に経験できることがまさにこのヨハネ福音書で言われていることなのである。
愛や真実そのものであるキリストと結びついていないなら、人間は自分中心となり、他者への愛や祈りがなくなり、平気で他人の悪口や中傷をし、心は汚れていく、それがまさに、「外に投げ捨てられ、枯れていく」ことである。心のなかのよいものがなくなり、心が枯れていくのである。そして最終的に火で焼かれてしまう。人間も実際、そのような真実に反することを続けていく人生を送れば、最後はその人間そのものが死によって焼かれて消えていく。
神に結びついた人間は、たとえ肉体が死んでも、キリストに似たすがたによみがえる、と約束されていることと何と大きな差ができることであろう。
また、つぎのようにも言われている。

わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。(マタイ福音書七・2627

主イエスの言葉、例えば、「となり人を愛せよ、悪い者に対しても敵視したり、憎むな。かえってそのような人間のために祈れ」といった精神に反して、身近な者を憎んで、自分の好感が持てる人だけを大事にするといった狭い心を持ち続けていたら、何か大きな悩みや苦しみが生じたら、そのような狭い心では到底対処できず、その困難な問題に打ち倒されてしまう。
神の国と神の義をまず求めよ、と言われているのに、まず金とか自分の利益を求めていく生き方を続けていけば、心に堅固な柱となるものが生れないから、大きな苦しみが襲いかかるときには、たちまち動転してどこに安らぎの場があるのかもわからず深い闇に落ち込んでしまうであろう。

最近、いろいろの犯罪があり、小学生ですら他人の命を奪うような驚くべきことまで生じている。それもみな、相手に対してよき心を持とうとせず、憎しみという力に身をゆだねてしまったこと、言い換えれば、キリストの教えのように「まず神の国と神の義」を求めなかったゆえに、心が枯れて、倒れてしまった姿に他ならない。これらは聖書の言葉の真理性を示すものである。
しかし、キリストの山上の教えなど、到底実行できないとはじめからあきらめてしまう人も多い。また、裁きとして、火で焼かれるなどというのはあるはずがない、などと反論する人もいる。というより、大多数がそのように考えるからこそ、新約聖書を心を入れて読もうとする人がきわめて少数であり続けているのであろう。
しかし、その山上の教えにある、「隠れたところにおられる、父なる神に祈れ」(マタイ六・6)とか、「地上に富を積むのでなく、天に富(宝)を積め」(同六・19)などということは、本来だれにでもその程度の多少はあれ、できることである。それは何も特別な善行とか、社会的に目立つことではない。神への祈りの心、身近な人のために祈ること、感謝の心を持とうとするだけでも、天に宝を積むということになるからである。

次のような箇所も、神の裁きについて言われている。

主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。(ルカ福音書十九・26

これは一見とても不可解な言葉である。この言葉だけを読む人は、これは現代の社会的状況を言っているのだとまちがって受けとる人もいる。資本家のように持っている者はますます豊かになって、アジア・アフリカの貧しい人たちは一層貧しくなっていくことを述べているのだと思うのである。
しかし、この主イエスの言葉はそのような社会的問題を単に説明するような意味とは全くことなる。これは、 神の国を求めていく心を持っている人は、ますます与えられていくが、神を信じない人、信じているとしても、真剣に神の国を求めようとしないならば、すでに与えられているよきものまでも失っていくということを述べているのである。
ここにも裁きがある。神の国とは神の御支配であり、神の御支配のうちにあるものであるから、それは真実なもの、清いもの、敵対する人、悪いことをしかけてくる人への祈りの心といったものである。そのような心をもって求め続けていく人にはさらに清いもの、真実なものが与えられるということである。
求めよ、そうすれば与えられる、という有名な言葉も同様な真理を述べていると言えよう。裁きとは、何か、絵で見るように、死んでから地獄に投げ込まれる、といった形で想像している人が多い。しかし、本来のさばきはそのように死後初めて生じるのでなく、今も至る所で、生じていることなのである。私たちの心の世界で、また周囲の人間、社会の出来事はそのことを日々実感することができる。
主イエスが、次のように言われたのも裁きが未来のことでなく、今すでになされていることを示している。

彼(キリスト)を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。(ヨハネ三・18

この世で最も真実でしかも神の力を持っている御方、死の力にも打ち勝つ御方を信じないとき、その御方から来る最善のものを拒むことになってしまい、この世で最善のものを受けられなくなる。それがすなわち裁きである。
愛とか正義、真実などといっても、どこにそのようなものを完全なかたちで持っている人がいるだろうか。完全な愛とは、無差別的にいかなる悪人にも、遠くの人にも、近くの人にも及ぶものである。そして一時的なものでなく、永遠的である。今の刻々にも無数の人に同時に及ぶような愛、そのような愛を人間が持つことなどはあり得ないことである。しかし、キリストだけはそのような愛を持っておられる方である。それゆえに、キリストの愛は全世界におよび、今も無数の人たちに何にも代えがたい感動を与え続けている。
私自身、この世で受けた最も真実な力、愛の力は、キリストを信じるようになってから経験した。それまで受けたいかなる人間の愛とか真実なども、魂に迫ってくる力や人間そのものを根底から変革する力において到底比較にならないのを知った。
だからこのような大いなる御方を退けること自体が大きな裁きをすでに受けていると感じざるを得ない。そしてキリストをそのように最善の御方であると信じるかどうかは、各人に任されているのである。自分で信じない方を選ぶとき、信じれば得られる計り知れない宝を自ら拒むことであり、神の裁きとは、その最初において、各人の選択、決断がかかわっている。
さらに、この世の最善のものを信じないで、裁かれた者にとっても、そこからいつでも大いなる恵みの世界、赦しの世界へと移されることができる。それはすでに旧約聖書から繰り返し言われているように、ただ、神を仰ぎ望むだけでよいのである。

地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22

そのような意味において、地上の生活における神の裁きは、単なる罰でなく、真理に立ち返らせようとする神の愛の現れでもある。しかし、もし私たちが長い人生があるにもかかわらず、立ち返ろうともしないときには、その裁きもまた続くであろう。
そうならないように、私たち自身もつねに神に立ち返り、また身近な人が神とキリストを知るようにと願うものである。


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