民意と神意  2005/9

今回の選挙で、ほとんど郵政改革だけを繰り返し主張した首相が、だれも予想しなかったようなやり方で反対派をつぶしていくという目立つことをしたこともあって、若者の浮動票のようなものも流れて、小選挙区制度のゆえに自民党が大勝した。
そしてそれまで郵政改革に反対を強く主張していた人たちまでも、「民意」だと称して、いとも簡単に自分の主張を撤回して、よらば大樹の陰、ということで、首相の側についていった。
本当は民意を重んじるということでなく、自分の利益がある方についたということであろうが、それを民意に従うなどと、いかにも国民本位であるかのように言っているだけである。
民意とは何か、多数の人々の意見ということであるが、それは実に簡単に動き、また間違っていく。
実際、4年前の九月に生じたアメリカ同時多発テロ事件以後、テロとの戦いということで、アフガンやイラク攻撃がなされた。そのときにはそうした軍事行動に反対することを堂々と主張できないほど、国中が武力攻撃を支持する意見が多数を占めていた。
しかし、それからわずか数年で、現在のイラク戦争は間違いであったというのが、アメリカの世論(民意)でも多数を占めるようになっている。
民意の大きな変動は歴史を振り返ってもすぐにいろいろの国々において見られるところである。
第一次世界大戦後、一九一九年のベルサイユ条約は重い戦争賠償をドイツに課した。その巨額の賠償のゆえに、ドイツの経済が悪化し、それがヒトラーの支配を生み出すことになった。そしてドイツ人の民意はヒトラーの悪魔的なやり方すら受け入れていった。そしてそれは世界を巻き込む戦争となって数千万の人々のいのちを奪い、無数の人たちを計り知れない苦しみや悲しみに陥れることになった。
ドイツ人は哲学的な民族で、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、マルクス、エンゲルス、ゲーテ、ニーチェ等々、きら星のような世界に影響を与えた哲学者たち、あるいはバッハ、ベートーベン、ヘンデル等々、古典音楽にその重厚な味わいを与えた人たちが数多く現れた。
そのような伝統を受けているドイツ人であっても、ヒトラーのゆえに戦争に駆り立てられ民意もそれになびいていった。
アメリカが引き起こしたベトナム戦争についても、米軍が本格的にベトナム戦争にかかわっていった一九六六年では、戦争に反対するのは三十一%ほどしかなかった。一年後には四〇%を越え、さらに二年後に五三%に上昇し、一九七一年には六〇%にと上昇を続け、数年後にベトナム戦争は終結したのであった。
このように、「民意」の変動ははっきりと示されている。民意というものは実に変わりやすく浮動的なのである。
日本でも六十数年前には、米英との戦争を始めたときには、人々は米英に激しい敵意を抱くようになっていた。鬼畜米英という言葉がそれを象徴している。
しかし、戦後はその鬼畜とされたアメリカが進駐してきても、そのような野蛮なことをするのでなく、当時は手に入らなかったチョコレートなどをくれたりしたので、国民はたちまちアメリカへの好意と転じたし、政府もアメリカこそが最も重要な友好国と位置づけるようになった。
憲法にしても、戦後六十年その平和主義によって世界のどの国の人をも武力をもって殺害することもなく、軍事兵器を多量に生産して外国に売って戦争に手助けすることもせずにすんできた。あるいは軍事費をGDP(国内総生産)の一%程度に抑えることができてきたのも、憲法九条の平和主義の精神があったからである。
また、日本が最近まで大きなテロ事件に巻き込まれないできたのも、やはり平和憲法のゆえに他国と連合して戦争をしたりしなかったという過去の歩みが大きな理由となっている。
しかし、最近の「民意」は、そのような平和憲法のよさを忘れて憲法を変えようとする人たちが多くなってきた。
このように変動するのが民意の特徴であるゆえに、民意が常に真理であるのはあり得ないことになる。真理とは変わらないのがその本質にあるからだ。
従って、移り変わる民意ではなく、揺るがない真理をこそ、私たちは常に見つめ、それを求めていかねばならない。
それは、永遠に変ることのない真理を持った神のご意志であり、「神意」というべきものである。
新聞やテレビなどマスコミは、たいてい民意に迎合しようとする。そうしなければ売れないし、テレビ局も雑誌社もやっていけないからである。
現代は、情報がはんらんする時代である。今回の選挙のように目立つことをやればたちまちそれが全国に繰り返しその映像が報道され、首相の人気が上がったりする。
そのゆえにこそ、そうした営利にも報道などにも関係なく、時代の流れにも影響されず、国家や民族の特質にも関わりのないような、普遍的な真理、永遠的な真理がますます重要になる。
この点において、数千年あらゆる民族、国家の最も多くの人たちに受け入れられてきたのは聖書であることはその歴史が明らかにしている。
キリストは「まず神の国と神の義を求めよ」と言われた。まず「民意」なる移ろいゆくものを求めるならそれは真理と大きくはずれていくからである。
特に憲法の平和主義については、神意と民意の隔たりがますます大きくなりつつある。そのような時であるからこそ、私たちは聖書によって永遠の真理である神のご意志を学び、そこに立ち続けることが求められている。


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