神の言葉はつながれてはいない  2005/10

人間の世の中においては、つねに何かにつながれ、あるいは縛られている。家族や学校、あるいは会社などどこかに属しているが、そこでも何らかのかたちで縛られている。私たち自身が、自分の罪や周囲の人々の考えや習慣、伝統などにとらわれている。
そして、人間の生活全体が、この地球という狭いところに縛られているのである。宇宙飛行士が宇宙を飛行したというが、地球のほんのわずか上空を飛んでいるにすぎない。地球の半径の二十分の一程度の高さ(地上からの高さ三百キロ程度)を飛んでいるにすぎないのである。
光の速さなら、わずか千分の一秒ほどしかかからない距離である。
そのような小さな地球のうちに縛られているのが、人間である。
また、私たちは肉体の弱さがあるゆえ、いつもある範囲内のことしかできない。荷物を運ぶことも、歩くこと、走ること、また睡眠時間もとらねばいけない。
そして、生きている時間も、せいぜい百年という時間内に縛られている。
また、真理に基づいて生きていこうとしても、さまざまのこの世の力が私たちを迫害し、そうさせないように働くことが多い。日本でも六十年あまり前までは、日本の方針を批判するだけで職業も辞めさせられ、逮捕されることもあった。天皇の批判などとうてい許されてはいなかった。
キリスト教が初めてヨーロッパに広がっていったときにも、迫害がなされ無実の罪であるのに、殺された人も多かった。キリスト者は絶えず迫害され、文字通り鎖につながれ、縛られていった。
このような、状況のもとで新約聖書はかかれたので、次の箇所もそうした背後の状況を思い起こさせるのである。

この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれている。
しかし、神の言葉は(鎖で)つながれていない。(テモテ二・9

ここで、パウロは、自分は鎖につながれ、何もできないようにされても、決してつながれることがあり得ないものがあるのを知っていた。彼の世界の各地でのめざましい活動は、そのような確信に支えられていた。つながれることのない「神の言葉」、それは、文字通り聖書の言葉であり、キリストの言葉であり、また生きて働きかける主の言葉であり、またそれに導かれて生きる人たちの働きでもある。聖書に表されている真理そのものなのである。
真理は単純である。その単純な内容をそのまま信じること、それによって新たな力が与えられる。迫害のゆえに鎖につながれたとき、もし神への信頼を堅く持っていなかったら、神に捨てられたのではないか、神などいないのではないか、などといろいろの疑いが生じ、不安にかられる気持ちになるだろう。
しかし、神の霊によって導かれていたパウロにおいては、いかに人間が縛られようとも、神の言葉はつながれることはない、という確信を持っていた。これは、主が彼に語りかけることによって得られた確信であっただろう。
どんな迫害も、時代の流れも、神の言葉を鎖でつないで、その働きを止めることはできない。日本においても豊臣秀吉が、キリスト教を禁じたのは、一五八七年で、それ以来、一八七三年(明治六年)まで、三〇〇年にわたってキリスト教は厳しく弾圧されてきた。
その迫害の様子は、すさまじいもので、これが人間のすることかと思われるようなひどいことをしたことが記録に残されている。
厳しい真冬のさなかに、キリストを信じる者(キリシタン)を裸にして一部が凍結している池に投げ込み、また引き上げて気を失うまでに苦しめる。 また、別府にある、地下から絶えず高温の熱湯が湧き出ている長崎の雲仙地獄でキリスト者たち苦しめる方法を考え出した。着物を脱がされ、首に縄をかけられて熱湯のなかに投げ込み、それを引き上げ、体中がただれた上で息絶えていった。(「長崎の殉教者」一九七頁 片岡弥吉著 角川書店 一九七〇年刊 )

一六一四年十一月一日、将軍が駿河から大坂に向かおうとするに先立ち、八箇月ほど幽閉されていた七人のキリスト者たちは役人の前に引き出された。彼らは手足の指を親指から初めて、切っていくなどという言語に絶する苦しみを受けた。
暴君は、殉教者たちの指を切り、額に十字架の焼き印を押せと命じた。まず十字架の烙印が額に押された。肉は骨まで焼かれた。ついで大路を引き回された。しかし、そのうちのある者が「もろびとこぞりて、主をほめたたえよ」を歌いだすと、引き回されている他の人たちもそれを共に歌いだした。その状況は、彼らが入ると信じていた、永遠の夕の如くであった。彼らは、安倍川(あべがわ)の岸に立てられ、両手の指を片方三回ずつ、六回で切り落とされた。そして突き転がされて脚を痛めつけられた。こうして、彼らは地面に倒されたままで放置され、しかも、だれも彼らをかばうことは禁じられ、傷の手当てをすることも禁じられた。しかし、夜になると、キリシタンたちが、この殉教者たちを引き取って、らい病者たちが生活していた洞窟へと連れて行き、傷を洗ってやった。ある者はその夜の間に息を引き取り、また別の者は翌日の明け方死んだ。(「日本切支丹宗門史」(*)上巻 三五七頁 レオン・パジェス著 岩波書店刊 一九三八年初版 なお、一部わかりやすい表現にしてある。)

*)現著者レオン・パジェスは、一八一四年生れのフランス人。日本に関する膨大な資料を駆使して全四巻からなる日本史を書いたが、そのうちの第三巻の部分にあたるのが、岩波書店から刊行されたこの著作である。この書は、一五九八年から一六五一年までの、徳川家康、秀忠、家光らの時代のときにキリシタン迫害の実態を詳しく著述した。日本の宗教学者として有名な姉崎正治博士は多数のキリシタンに関する著作を書いたが、彼は「パゼスが、あれだけの著作を残しておいてくれなかったら、到底企て及ぶ事業ではなかった。この点については、パゼスの忠実細密な働きに対して篤く感謝の意を表せざるを得ない」と述べたという。

それほどまでに苦しみを与えたのは何のためか、いろいろ理由はあげられているが、とくにそれはキリシタンたちが、いかなる権力者、たとえ領主や大名であっても、こと信仰に関するかぎり、そうした権力者たちの命令以上に、神の命令を重んじるというその姿が、いっそう当時の支配者たちをして、苛酷な弾圧へと向かわせたのである。 地上の何者よりも、まず第一に神に仕える、という姿勢はそれほどまでにこの世の権力者たちには驚くべきことであり、かつて彼らが経験したことのない何かを知らされたのであった。
こうしてありとあらゆる苛酷な拷問がなされ、かれらの信仰の息の根を止めようとした。それは、文字通り彼らを縛りつけ、彼らの信じていた信仰そのものをも権力という縄で縛りあげて、葬り去ろうとするものであった。
そして多くのキリシタンたちは殉教し、またあまりの苦しさに信仰を捨てるものも現れていった。そして三〇〇年の長い迫害によって、キリシタンは根絶されたかと思われるほどであったが、それでもなお、江戸幕府が倒れた一八六七年になってもなお、長崎県大村地方では、厳しい弾圧(木場村四番崩れと言われる)が行なわれ、一二五名が投獄された。そして夏着のままで獄に入れられたために冬の寒さと飢えに苦しめられ、三年ほどの間に半数近くが殉教の死を遂げていった。
このように三〇〇年ほども続いた迫害であっても、なお、キリシタンたちは根絶されずに残っていた。これは神の言葉はつながれることがないということの証しともなった。
これは、ローマ時代の長い迫害においても同様であった。コンスタンティヌス皇帝が、紀元三一三年に、ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認するまで、皇帝によってその厳しさの程度は違っていたが、三〇〇年近い年月にわたって、キリスト教の迫害が続けられた。
しかし、最終的にいかなる迫害もキリストの真理を鎖でつないで、その働きを止めたりできないことが歴史的に明らかにされたのである。
神の言葉はつながれない。それは神の言葉は神ご自身が支えておられるからである。悪は決して万能でなく、その背後で神が支配されている。それゆえに神の言葉はいかに悪の力が強大なように見えてもそれは一時的なのである。
どのような権力者も、時間の流れと共に消えていく。時間というものによって一時的なものとしてつながれていると言えよう。徳川幕府の権力が大きくとも、時間が経つとそれもある一時期の間だけのものであり、そこにつながれていたにすぎない、と分かってくる。
ローマ帝国の皇帝や、徳川幕府の権力者たちの支配の力が今日も続いているなどと、感じる人はだれもいない。
しかし、キリストの力、キリストによって語られた神の言葉の力は現在も続いている。二〇〇〇年前と同じく無限のエネルギーと力を持っている。私は自分がこのような力に直接に触れたのでなかったら、到底信じなかっただろう。しかし、若き日のあるとき、突然この驚くべき力に触れて生涯の方向が変えられたことによって、神の言葉の力は山のごとく不動であることを知らされた。
現在では、文明国といわれる国では、昔のように、単にキリストを信じているというだけで苛酷な迫害をするという国はほとんど耳にしない。
しかし、新たな思想や間違った解釈、学問と称する真理に背くような考え方によって、キリストの真理、神の言葉をその狭い人間の考えに縛っておこうとすることは随所でみられる。
三位一体ということ、すなわち神とキリストと聖霊の本質が同じであるという、キリスト教真理は、新約聖書のなかで数多くの箇所で明らかに、それを見ることができる。 しかしこの真理に対してもさまざまな人間の狭い考えでその真理を昔のものだ、と称して閉じ込めようとしたりするのは、現在でもよくみられる。
あるいは、復活などない、精神的なよみがえりのことなのだと言い換えようとする学者、また、十字架は罪の赦しなどでない、敗北なのだ、などと言い出す異端というべき宗教もある。
しかし、聖書で記されているこうした真理こそ、キリスト教の力の根源である。これらを信じないとき、長い目で見るなら、確実に永続的な力はうせていく。
神の言葉を人間的な意見や解釈に置き換えていこうとすること、それはそのような人間の考えの内側に閉じ込めよう、縛っておこうとすることである。
しかし、神の言葉はたしかに、縛られることはあり得ないのである。
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二四・35


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