リストボタン英知の言葉から  2005/10

旧約聖書のなかに「箴言」と題する書物がある。しかし、現在のたいていの人にとって、箴言といってもその内容、イメージがつかめないのではないかと思われる。
キリスト者であっても、旧約聖書をわずかしか読まない者も相当いるようである。ある教会に所属するキリスト者が、旧約聖書の神と新約聖書の神は違うというようなことを言っていたのを聞いたことがある。このような人にとっては旧約聖書は単なる参考として読むだけであろう。
しかし、旧約聖書は主イエスが例えば荒野の試みにおいて、サタンを退けるときに旧約聖書の言葉をもってしたことを見てもその重要性はすぐに分かる。
また、隣人を愛せよ、という有名な言葉はたいていの人がイエスの教え、イエスが初めて教えた言葉のように思っているが、それは旧約聖書のあまり読まれない書物である、レビ記に記されている。
また、十戒(*)は単に映画で有名な過去の出来事でなく、現代のキリスト者にとっても、そのままあてはまる基本的な神のご意志が表されている。

*)十戒(じっかい)とは、モーセが今から二千数百年昔に、シナイ半島の高山で受けた啓示。神以外のものをつくって拝むな、ただ神のみを礼拝せよ、父母を敬え、男女の不正な関係を待つな、盗みをするな、安息日を特別に神に捧げた日とせよ、などなどの教えが含まれている。
この禁止命令については、その原文からすると、ふつうの禁止を表す表現でなく、「しない」という否定を表す表現が使われているので、原文の本来の意味は、「あなたは、偶像を礼拝することはないであろう。」という、神の期待の言葉であるともいわれている。(「聖書大辞典」キリスト新聞社などによる)


このように、旧約聖書は新約聖書の源流にあり、新約聖書の意味をより深く知るためにはなくてならないものである。また詩編のように、新約聖書にはごくわずかしか見られない、個人の深い感動、苦しみや悲しみ、賛美というものの集大成によって私たちは、神を信じた古代の人たちの心の深いひだにまで入ってその心を共に感じることができる。
箴言とは、古代の人たちが生きるうえでの、心の世界において成り立つ一種の法則というべきものを集めたものである。ここには、詩編と違って、個人の激しい感情や讃美、苦しみや悲しみの叫びというのはない。箴言にはそうした経験を通して成り立つと確定されるようになった精神世界の法則が書かれてあるといえよう。
箴言はあまり読まれない書物であるが、そこには私たちの信仰の心を耕し、明るくする言葉が随所にある。そうしたものから一部を選んでその意味を考えてみたい。

主を畏れることは知恵の初め。(箴言一・7

この言葉は、箴言の第一章の初めの部分にあり、全体の要約でもあるので、よく知られている。しかし、この重要な言葉において、肝心の「知恵」という言葉が、日本語の「知恵」という言葉のニュアンスとは相当にずれている。
日本語の知恵といえば、
例えばつぎのような用例を考えてみればそのニュアンスが分かる。
「知恵を付ける」というのは、他人にうまい方法や策略を授ける。入れ知恵をする。といった意味であるし、余計な知恵を付けるな、というように、よくないニュアンスでも使われる。さらに、小さな子どもが少し大人びたことを言うようになったら、知恵がついてきた、などとも言われる。 また、「知恵の輪」というのは一種の遊びであり、そのようなことにも日本語では「知恵」という言葉は使われる。
こうした「知恵」という言葉の使われ方が一般によく知られているために、聖書で「知恵」の初め、などと書いてあっても、大したことでないという感じで受けとられることが多いと思われる。
入れ知恵するなどというような、知恵の初めだと思ったら、それは有害なものですらある。
しかし、聖書でいう「知恵」というのは、そのようなこととは根本的に異なる意味を持っている。
新約聖書において、「知恵」と訳された原語(sophia ソフィア)がどのように用いられているかを見てみよう。

・イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ二・40

ここでは、主イエスの精神的特質が、ただ一言「知恵が増した」ということで表されている。これは真理を直感し、見抜く力が増していったということである。

・人の子(イエス)が来て、飲み食いすると、「徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しいことは、その(知恵の)すべての子が証明する。(ルカ七・35

ここでの「知恵」とは、キリストが与えられていた真理であり、キリストの働きやキリストご自身をも意味している。

・神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦された。これは、神の豊かな恵みによる。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださった。(エペソ書一・69

この言葉によって、「知恵」とは、神の秘められた計画(奥義)を知ることであるのがわかる。

このように、新約聖書において、「知恵」という訳語で表されている内容は、日本語の持つ「入れ知恵する」とか「知恵がついてくる」といったニュアンスとは根本的に異なるのがわかる。
それは、永遠の真理を知り、また見抜く霊的な力であり、一般の人には隠されている神の深いご意志やご計画をも洞察する英知のことなのである。
現在の日本語では、「知恵」というとき、「物事を適切に処理する能力」意味し、何かの問題において「知恵を働かせる」といったり、身の回りのことをいろいろ判断できるようになると、「知恵がつく」といったりする。そこから入れ知恵するなどという悪い意味にも使われる。
しかし、聖書での訳語である「知恵」はより適切には、「英知」というべきで、この言葉は、広辞苑などでは、「深遠な道理をさとりうるすぐれた能力」というように説明されている。

箴言は「知恵」の書である、というとき、この知恵という言葉を、日本語のニュアンスでなく、聖書の世界の特別な意味によって読まねば本来の意味がくみ取れなくなる。

「神を畏れることは、知恵(英知)の初めである。」というとき、物事の真理を深く知るためには、神を畏れることがその出発点となるということである。
しかし、現代の大多数の日本人にはこのようなことはまったく考えたこともないだろう。私自身も長い学校教育を通して、聖書でいうような英知というべきものは全く教えられたことがなかった。
学校教育で学び、大学にてさらに多く学ぶと、いろいろの書物に接するし、それによってさまざまの方面における知識はつく。しかし、英知は身につかない。最も価値あるものは何か、死によっても滅びない真理はあるのか、ないのか、あるとすればそれは一体何であるのか、この世の表面的な出来事を全体として支配し、導くような力はあるのか、私たちの人間そのものに宿る不信実、悪そのものはいかにして追いだすことができるのかなどなど、そのようなことにかかわる深い判断こそ、英知である。
神を畏れるとは、神を信じ、その神が万能であって、真実と正義をもって宇宙を支配されていることへのおそれ敬うことである。神に従えばよき報いがあり、背くなら、必ず何らかの裁きがあることを知っている心である。

英知は真珠にまさり、
どのような財宝も比べることはできない。(箴言八・11

このような、神の真理を知ること、それによって生きることは、いかなるこの世の宝にも勝る。私たちにとっての最大の宝は、神の真理を与えられることである。

英知ある人は、沈黙を守る。
誠実な人は、事を秘めておく。(箴言十一・1213より)

これは、この世の処世訓としての、「沈黙は金、雄弁は銀なり」ということとは違う。神の力と、神の愛を深く知っているとき、そしてその生きて働く神が私たちを導いてくださっていることを深く実感している者ほど、言うべきこと以外は、沈黙を守るようになるだろう。だれかの不当な悪口を聞いたりしたとき、また自分が不当なことを言われても、また間違った評価をされても、神が必ずそこに働いてくださり、時が来たら本当のことを明らかにして下さると、信じて待つからである。
これは、うっかり言えば問題が起きてかえって損をするといった、打算的な考えから、言うべきことも言わないということがじっさいは非常に多い。
しかし、聖書における沈黙の指示は、その背後に深い祈りの心がある。議論や説得ではどうにもならないことは多い。かえって対立を深めてしまうこともある。
そのような時、黙して神の力に頼り、神が働いて下さることを待ち望む。

私たちの日常の生活の中で、じっさいの人間関係や、テレビや雑誌などで、無用な言葉があふれている現在において、本当のよき言葉のはたらきも、箴言において言われている。

神に従う人の口は、命の泉。(箴言十・11

他者にとって災いの言葉は実に多い。その言葉によってなにかざらざらしたもの、汚れたものをその辺りに漂わせるような言葉が私たちの周囲にはあふれている。
人間は自然のままでは、主イエスが次の箇所で言われているように、よくないものが出てきてしまう。

口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。 これが人を汚す。(マタイ福音書十五・1820

また、主イエスが神の力で、悪の力を追いだして人々をいやし、死んだような状態にあった者を新しい命に生きるようにしているのを見た当時の宗教的指導者が、イエスの力を、悪霊の力だと断定したとき、つぎのように言われた。

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。(マタイ十二・3435

人間の心には驚くべき悪の力が支配して、口から出る言葉もそのような神の真実を全面的に否定し、踏みつけるような言葉も出てくる。
しかし、主イエスは、人間の心がもしも清くされるなら、その心からは良きものが出されるようになる、その言葉はよきものをたたえ、神の国の香りを持つものになると指し示されている。
たしかに、ある人の言葉から命があふれているような、なにか清いものが流れ出てくるような言葉もある。それを聞く者に命を与えるような言葉がある。
私たちが、苦しみや悲しみのときに主に向かって祈り叫ぶとき、主は私たちに声にはならないような、静かな細い声ではげまし、私たちの悲しみを受けとって下さるのを感じる。こうした経験は本当にキリストを信じ、神に導かれている人ならその程度の多少はあれ、みな感じてきたことであろう。それがあるからこそ、信仰を続けていくことができるのである。
その意味で、生きて働くキリストこそは、私たちにとっての「命の泉」である。またそのようなキリストと深く結びついている人の言葉もまた、命の泉となるだろう。
次の主イエスの約束はこのようなことを指し示している。

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ福音書四・14

このように、キリスト(神)からいただくいのちの水を受けてはじめて、箴言で言われているように、「神に従う人の口は、命の泉」ということが成就するであろうし、次の言葉で言われているようなことが実現する。

人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。(箴言十八・4

聖書は究極的な真実や正さの源である神を信じ、見つめる。それゆえに神のご意志に反することを罪と言って、罪がいかにして清められるかということを特別に重視している。次の言葉はそうした罪に関するものである。

背き(過ち)を赦すことは、人に輝きを添える。(箴言十九・11より)

自分に対して何らかの罪を犯したもの、悪口や不当なことをした者を赦そうとするか、それとも忘れようとするか、憎むか、私たちはつねにそのいずれかを取ることになる。
だれかが自分に不当なことをしたなら、それを憎むとか仕返すというのが多くの人の気持ちとなるだろう。そのようなときに相手に憎しみを持つなら、私たちの心からは輝きが失われ、醜いものが生じる。憎しみはそれを抱く本人に最も害を与える毒であるからである。
これに対して、もし私たちが相手を、主にあって赦すことができるなら、それは私たちの魂を美しくし、輝きを添える。 そしてさらに、主イエスが言われたように、その赦す心がさらに深くされて、相手の悪しき心がよくなるようにとの祈りを持って相手を見ることができるなら、その輝きはさらに強くなるだろう。
このような魂こそ、主イエスが言われた、「地の塩」なのだと思われる。
人間関係のもとは、不当なことをしてくる相手にどう向かうかということになる。それゆえ、主イエスも、弟子が、だれかが自分に罪を犯したら、どうすべきか、七回赦すべきか、と尋ねたのに対して、主イエスは、七回を七〇倍するまで赦せ、と言われた。これは、人間関係でたえず生じてくる憎しみや妬み、中傷などに対して、ふつうの人間的感情とは全く異なる方向からの対処を指し示したものであった。こうした主イエスの示す方向こそ、私たち自身も清くなり、相手もまた正される唯一の道なのだと知らされる。
箴言のこの短い言葉は、新約聖書のキリストによってさらに深い意味が与えられ、罪の赦しということの重大さがはっきりと示され、私たちが他者の罪を互いに赦しあうことができるように、自ら十字架にかかってまで、その道を開かれたのであった。


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