リストボタン神がそのわざをなされるとき ルツの歩み  2005/12

旧約聖書のなかで、わずか七頁にも満たない小さな書がある。創世記は九〇頁を越えるし、イザヤ書は一〇〇頁もの分量があるし、旧約聖書全体では一五〇〇頁にもなる分厚い書物であるから、ルツ記はごく小さな書である。しかし、このルツ記は重要な意味を持っている。
今から三〇〇〇年以上も昔、現在パレスチナ地方と言われているところに、ユダの国があった。そこでは飢饉が激しくなり、ある人が妻ナオミと二人の息子を連れて、外国(死海の南東部のモアブ)に移り住んだ。
しかしそのようにしてたどり着いた外国の地、モアブの地にて、その人は二人の息子を残して死んだ。
二人の息子はその後、外国人であるモアブの女と結婚した。ところがその二人の息子もまた、死んでしまった。
妻のナオミは、飢饉のゆえに住み慣れた祖国を離れて、遠い異国まで逃れていったのに、そこで夫が亡くなり、途方に暮れているときに、さらに二人の結婚していた息子たちまで、相次いで死んでしまった。
古代において、夫が亡くなり、その後に二人も続いて息子たちが亡くなるということは、特別な悲劇であり、それは神からの何らかの罰を受けているからだと思われたのである。しかも、息子たちの嫁は、外国人であり、自分の祖国に連れて帰ることもできないと考えられたから、なおさらのことであった。もし、息子の嫁たちが、同じイスラエルの民ならば、祖国に帰ってから結婚をさせて、夫の持っていた土地を確保することができると思われたが、異国の女であれば、当然その女たちは誰一人知り合いもいないイスラエルに行くことは考えられないことであった。ナオミは文字通り、すべてを失ってしまったといえる状況に置かれたのであった。
夫を失った女(やもめ)は、特別に社会的な弱者となった。昔は仕事というのは、農業、漁業などにしても機械がなかったゆえにほとんどが力を要するものであったから、男手がなければどうにもならない。

支配者らは無慈悲で、孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない。(イザヤ一・23

彼らは弱い者の訴えを退け
わたしの民の貧しい者から権利を奪い
やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(イザヤ十・2

このような聖書の記述は未亡人たちが、特に弱い立場に置かれていたかを示すものである。

このように、ルツ記は、一人の女性の家族も財産も失われた絶望的状況から始まっている。
しかし、何一つ希望がないと思われる状況にあっても、神は人間の予想を超えたことをされる。
それは二人の異国の嫁たちが、ナオミに従って、誰一人知り合いもなく、差別されるであろうイスラエルに帰るナオミに従っていこうとしたことである。ナオミは故国に帰る道の途中で、自分について来てくれるのは嬉しいが、ユダヤ地方に帰っても嫁たちには何のよいことも期待できない、だから自分の里に帰るように、と諭した。
モアブの地を出発するときには、ナオミも傷心のあまりであろう、二人の嫁たちにあなた方は私について来なくていい、自分の国に留まりなさい、そうして新しい夫を見出しなさい、と諭すことはしなかった。
しかし、三人で故国に帰るその道すがら、二人の嫁の前途を思うと、自分のことばかりを悲しんでいてはいけない、この二人も不幸な自分の道連れにして苦しめることになるのだ、そんなことをしてはいけない、という気持ちに駆られた。

ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。
どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、「いいえ、ご一緒にあなたの民のもとに帰ります。」(ルツ記一・810

ナオミは、自分は神からの恵みを受けるどころか、神によって不幸にされたと考えていた。それでもこのように、「主があなた方に良き報いを与え、慈しみを注いで下さるように、主が新しい嫁ぎ先を与えて下さるように」と願っていることでわかるように、神への信仰は捨てることはなかった。
この二人の嫁(ルツとオルパ)は、非常な困難が予想されたにもかかわらず、ナオミに従って行こうとした。
モアブの二人の嫁たちは、前途の多大な苦しみや貧しさが予想されるにもかかわらず、ナオミに従っていこうとするほど、ナオミを慕っていた。それを見ても、彼女が愛の深い女性であったのが分かる。
そのような真実な信仰深い女性であっても、すべてが奪い去られるということになったのである。それでもなお、ナオミは神への信仰は失わなかったし、モアブの二人の女、オルパとルツはそのようなナオミの信仰と真実を見て、異邦の国であるのに、ナオミに従って、祖国を離れようとした。
ナオミにしてみれば、彼女たちがついてきてくれれば心強いことであったろうが、途中でやはり自分中心でなく、神と他者中心に考えてみるとき、夫を失った二人の嫁たちを連れてくることはできないと考えたのである。
しかしルツは、前途の希望もなく、親しい人も一人もなく、どんな土地かということもわからないにもかかわらず、すべてを捨てて、ナオミについていこうとした。ここには、愛と神への信仰、そして神がきっと助けて下さるという希望があった。ナオミはすべてを失ったが、そのかわりこのようないつまでも続くものをしっかりと保持している一人の女が与えられたのであった。
目に見えるものは失われても、そしてその苦難や悲しみのただなかではわからなくとも、最終的にはこのように、神は必ずそれに代わるものを与えられる。
このような、姑思いの嫁は現代ではあまり見られないのではないだろうか。このような決断をさせたのは何であっただろう。 それは、自分の前途をまず考えるという自分中心の考えよりも、姑であるナオミへの愛によって決断したのである。
それはまた、ナオミとの今までの生活が、真実なものであったゆえに、嫁たちもその真実によって動かされ、遠い異国への何の希望もないところへと共に歩んで行こうとしたのだと思われる。
しかし、ナオミは自分が彼女たちを幸いにできることは考えられないと言って、さらに強く帰るように勧めた。
そのために、一人の嫁(オルパ)の方は涙を流して分かれを惜しみつつ故国へと帰って行った。
それを見て、ナオミはルツに、さらに勧めて「あなたも、自分の国に帰りなさい」と言った。このような状況となれば、いよいよルツはたった一人外国人として習慣も風俗も違っているうえ、親も友人も一人もおらず、万事において貧困と孤独、あるいは周囲の好奇の目にさらされての苦しい生活が待っているのであるから、それでは自分も帰ります、と言って帰ることになってしまうのが予測される。
しかし、ルツは違っていた。驚くべき決断をする。

ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ記一・1617

ここには、人への真実とともに神への真実な心がうかがえる。ルツはモアブという偶像を神とする国に育った女であったが、ナオミたちとの生活によって、聖書に示されている唯一の神を信じるように導かれたのが分かる。
ルツがナオミについてユダの国に行ったとしても、何一つ希望が持てる状況ではなかった。まず、男手のいない中で、女が二人だけで生きていくのが大変であった。周囲からの差別や無理解があるだろうし、全くの異国における生活は万事が異なるゆえに困難なものとなるであろう。そうしたことはルツも十分に分かっていたはずである。
そのような困難な生活を、あえてナオミへの忠実とその背後におられる神への信仰のゆえにルツは選び取った。二つの道があるとき、どうすべきか分からないことはしばしばある。そのような時、より困難な方を選ぶときにそれが正しい道であった、ということがしばしばある。
より難しい道は、神を見つめ、神の導きと守りを信じなければ歩んで行けないからである。神にゆだねなければならないからである。そして神にゆだねる道こそは正しい選択だといえる。
ルツはまさにそのような、より困難な道を自らの決断で選び取った。
ここまでに現れる三人の女性たちは、それぞれ自分のことを中心に考える人でなかった。ルツとオルパたち嫁二人は、もし自分のこと、自分の幸いを考えたら、夫がいないのに、わざわざ外国まで行こうとは決して考えなかっただろう。しかし二人共まず自分でなく、義母のことを第一として、ついて行こうとした。
そして姑であるナオミも、自分のことを第一に考えると、二人の嫁に「私について来て助けてほしい」と願っただろう。ナオミは夫も息子二人にも先立たれ全くの孤独と貧困に置かれることが確実視されていたからである。
そうした困難が待ち受けているにもかかわらず、ナオミは自分のことより、嫁たちの前途を思って強く彼女たちに自分の国に帰るように、と勧めたのであった。
このように、三人共、自分中心でなく、他者のことをまず考えて行動しているのが分かる。
こうしたうるわしい心の動きは、聖霊の風が吹いているかのようである。
この世は自分中心であり、しばしば悪意や中傷、裏切りなどという暗い心が人間の内に巣くうことがある。そのようなものがふくらんでくるときに、戦争といった多くの人々が互いに憎み合い、殺し合うというような悲劇が生じる。
しかし、聖なる霊が風のように吹いてくるとき、人間のそうした自分中心の心は枯れ、愛の行動へとうながされていく。
ルツは真実な心をもって、義母に従い、異国へとたどり着くことになった。
しかし、そのようなルツが共にいても、ナオミの絶望的な暗い心は変わらなかった。長い孤独な旅を経てようやく故国に帰り着いたとき、町中の人たちは驚いた。そして「ナオミさん!」と声をかけてきた。それに答えた言葉がつぎのようであった。

ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(ルツ記一・2021

このように、ナオミの心は、神によって自分は苦しめられた、と受けとっていたゆえにその苦しみや悲しみはなおさらのことであった。神は絶大なお方であり、その万能をもって自分を苦しめているのなら、どんな方法でもってしてもその苦しみから抜け出すことができない、と考えていただろう。
自分はかつてユダの国を出たときには、夫と二人の息子に恵まれていた。それは祖国の飢饉にもかかわらず「満たされていた」と言える状況であった。
しかし、それから十数年を経て、ナオミは、神が自分を「空ろなもの」にして帰らせたと言う。何のゆえか分からないが、神がその大いなる力をもって自分を苦しめ、三人の男手をすら奪ってしまわれた。
こうした何の光もなく、貧困と孤独が待ち受けているというその中に、神はルツという光を与えたのである。
ルツはかつてアブラハムがそうであったように、自分の愛する祖国や友人、肉親たちをすら捨てて、神を信じて姑の後に従って行った。
このナオミとルツという二人の地位も力も財産もなく、家族も失った女たち、そこから何のよきことも生じないと思われたであろう。しかし、神は人間のあらゆる予想を越えて、そうした貧しさや弱さのなかにその業を起こされるのである。

落ち穂拾い

ルツはそうした絶望的な状況のなかであったが、姑ナオミの故郷に帰ると、すぐに自分ができることを手がけようとした。それは収穫のときに、落ち穂を拾って生活を助けようとしたことである。現代の多くの者にとっては、落ち穂拾いというと、何のことか、分からないだろう。落ち葉拾いと同様なことと思うかも知れない。
しかし、これは聖書に記されている意外な記述に由来することである。

畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。(旧約聖書 レビ記二三・22

こうした貧しい人たちへの配慮が、数千年も前からすでにあり、当時の法律(律法)にこのように記されているということは、四百年足らず前の日本の状況(*)と比べるとき、その大きな違いに驚かされる。

*)日本においては、貧しい農民たちから農産物を徹底して取り上げ、凶作であっても、厳しい取り立てが続いたために、生きることも難しいほどに追い詰められ、厳しい処罰を覚悟で一揆を起こしたりした。
江戸時代の島原の乱も、そうした農民への弾圧がもとにあった。年貢を納められない農民は、迫害を加えられ、妻・娘などは捕らえられ、水攻めなどを行ったり、あるいは、逆さにつり下げたりして苦しめた。さらに蓑踊りと称してミノを頭と胴に結びつけ、両手を後ろ手にして縛り、このミノの外側に火をつけて燃やしてもだえ苦しませたほどであったという。このようなきびしい年貢の取り立てによって農民生活が窮迫したあげく、逃散という捨て身の手段までとるほどであった。これは一つの村全体が団結して、耕作を放棄し、他の領内に逃げることであった。逃げ込んだところでも、監視も厳しく、耕作によい土地はすでに他人が住んでいるのであるから、一つの村全体が移住してきても、そもそも住む家も衣服も金もなく、農具もなく、種もなく、また開墾や耕作をゼロから始めなければならないなど、生活は困難を極めたのは容易に想像できる。

広い農地を、落ちた麦の穂を手で拾う、それは一日そのようなことを続けてもおそらく、わずかしかなかったであろう。しかし、貧しい農民はそのようにして何とか生活をしていったのであろう。
このルツがまず生活のために行なった落ち穂拾いのことを題材にしたのが、有名なミレーの「落ち穂拾い」という絵である。(*)聖書のなかには、穀物の収穫の際に落ち穂拾いができるように落ちた穂を残しておけ、との前述の戒めは記されているが、女性が落ち穂拾いをしている情景は、このルツによるものだけである。
それゆえミレーが、落ち穂拾いをする女性をテーマに描いたとき、このルツの姿が第一に浮かんだであろうことは、容易に推察できる。

*)ミレーの「落ち穂拾い」の絵は有名であって、この絵はたいていの人が学校教育の場で学び、一般の家庭でもよく飾られている。しかしこれを、「落ち葉拾い」と間違って受けとめ、落ち葉を拾っているのだと、思い込んでいる場合もある。

ルツは、まずこのように自分ができることをしていこうとした。悲嘆にくれているナオミの気持ちに引き込まれることなく、全く知人も親族もいない外国の地にあって、信仰によって与えられていることと受け取り、冷静に自らのできることを手がけていった。 ルツは、姑に向かって次のように言った。
「あなたの神は、私の神、あなたがどこに行こうとも、あなたが亡くなるときまで従って行きます。もしあなたを離れるようなことがあったら、主よ、どうか私を罰してください。」
これは、姑のナオミの信仰をそのまま自分の信仰とするということである。ナオミによって知らされた唯一の神への信仰は、ルツに宿って、行動する信仰へと成長していった。
ルツはナオミの故郷に帰って、姑に命じられることなく、自分から申し出て、「畑に行ってみます。だれか厚意を示して下さる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」と言ったのである。
ルツは場合によっては、異邦人ということで、差別されたりいじめられるかも知れないと予測していた。それゆえ、だれか厚意を示してくれる人がいるだろう、との期待だけで出かけたのである。このように、何の助けも希望をも持てない状況であっても、じっとしていることはなかった。姑から受けた神への信仰によって、まずできることへと一歩を踏み出したのである。
今まではそのような落ち穂拾いというようなことはしたことがなかったであろうが、夫を失った自分と、姑という二人の女が生きていくためのさしあたり唯一の道と思われたのがこの落ち穂拾いであった。
そうしたルツの信仰的な決断は、神によって祝福される。ルツは出かけて行って、誰か分からない人の畑で拾い始めた。
それが、たまたまナオミの親族の畑であった。
神を信じて、止まることなく、前向きに歩んで行こうとするときに、神はこのような思いがけない出会いや、助けを与えられるということは、私自身も幾度も経験してきたことである。
そのナオミの親族とはボアズという名で、信仰深い人であった。彼がその畑に来たとき、農夫たちにした挨拶の言葉は、「主があなた方と共におられるように」という祈りのこもったものであった。
そうすると、農夫たちも、また「主が、あなたを祝福して下さいますように」と言った。
このように、畑の持ち主も耕作する者たちも、互いに主が共にいることを願って、神の祝福を祈り合う、という祈りの共同体のような間柄であったのがうかがえる。
こうしたうるわしい人間関係のある人たちというのは、いつの時代にも珍しいことである。この特別なよい状況にあった人たちが耕作している畑に、たまたまルツは何も知らずにやって来たのであった。ここにも、真実な心で身近なこと、たとえいかに小さいことであっても、手がけていくところに、神の祝福の御手が臨むということを示している。
もし、ルツが落ち穂拾いというようなことをしようとしなかったら、このようなよい出会いはなかったからである。
ボアズは、ルツに目を留めて、それが自分の親族のナオミの嫁であるのを知って、特別に落ち穂を拾うことが容易にできるように配慮した。それに気づいたルツは、問うた。

ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」(ルツ記二・10

このルツの姿には、自分が最も低いものであることを自覚しているのを示している。こうした自らを低くし、なすべきことを確実に手がけていく姿勢がここにも表れている。
ボアズは、ルツのことをすでに聞き知っていることを話した。

ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。
どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。
イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ二・1112

故国に帰ったナオミとルツは自分たちの苦しい生活のことで誰かに援助を願うということはしなかった。ルツはただ黙って落ち穂拾いという最も貧しい人たちのする仕事をしただけであった。それにもかかわらず、このようなよきことは本人たちの予想を越えて周囲に知られるようになっていた。隠れたことは現れないことはない、という主の言葉は、悪いことにもよいことにもあてはまることである。
ボアズも単に心のやさしい人間であったとは書かれておらず、神への信仰に生きる人であって、ルツに対しても、自分が何かをしてやろう、と言わず、「主が豊かに報いて下さるように」と神からの祝福を祈り願うのであった。
私たちが他の人に対する最善の持つべき心とは、このボアズの祈りの心である。これこそ、主イエスが教えられた、「御国がきますように」という祈りの心に一致するものである。
このように、ボアズの特別な、主にある厚意を受けたルツは十分な麦を拾い集めてナオミの待つ家に帰ることができた。
ナオミは、ルツが予想をはるかに越える多くの落ち穂を見て、驚いて目をみはった。ナオミは言った。

「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」
「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」(ルツ二・1920より)

ボアズが、ルツに対して、神の祝福を祈り願ったが、ナオミもまた、ルツに示された特別な厚意を見て、神の祝福を心から祈り願っている。
このように、この書物において、ルツがまず、ナオミの神を私の神とすると固い決心をもって告げたことから始まり、ボアズが畑に来たときには農民とも主からの祝福を祈り合うことが記され、さらにボアズ、ナオミもその祝福を互いに祈るのであった。
そして、絶望的であったナオミはルツの毅然たる態度と信仰によって励まされ、新たな力を与えられて、立ち上がることができた。
そして今度は積極的に、ルツのためにその道を開こうとする。ナオミはルツのために、夜になって、ボアズのところに行かせ、いかに自分がルツの前途に対して強く願っているか、を実際の行動によって知らせようとした。
もしも、それが失敗すれば、ナオミもルツも苦しい立場になることをも覚悟の上であった。彼女はいわば非常手段ともいうべき思い切った手段をとって、ボアズが近親者であるゆえに、ルツに対して家を絶やさないようにする責任があることを知らせた。
このナオミのまっすぐにルツの前途を見つめた行動は、ボアズによって受け入れられ、適切な配慮がなされたのちに、ボアズ自身がルツと結婚することになったのである。
こうして、ルツは遠い異国に来て、誰一人知る者もない状況のなかで、ただナオミの信じた神を自らの神としつつ、姑への忠実という一点に集中した。
そこからナオミの暗く沈んだ心にも光が点火され、力がわき起こることになり、新しい道をナオミ自身が示され、たしかにそこから以前には予想もしなかった道が開けていった。
ルツはボアズと結婚し、子どもが生れたが、それは単にルツやボアズ、ナオミたちの家族問題にとどまらず、次に見るように、イスラエルの民全体、否、世界の歴史に重大な関わりを生み出したのであった。

主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。(ルツ記四・1317より)

ルツに子どもが生れたことについても、周囲の女たちは、主がなさったこととして、主を讃美した。ルツ記全体がこのように、神に向かうまっすぐなまなざしで満ちているのを感じさせるものがある。
この書物の最後の部分には、ルツに子どもが生れたことを記し、ダビデへとつながったことが特記されているが、さらに、最後の22節にも「エッサイにはダビデが生れた」と書かれていて、ダビデがルツの子孫に生れたということが二回繰り返され、強調されている。ヘブル語の原文では、ルツ記全体の最後の言葉は、「ダビデ」という名前なのである。
こうした書き方は何を示すか、それは、ルツというすべてを失った異邦の女、神と人への忠実に生きた貧しい女から何が生じたか、それはダビデというイスラエルにとって最高の王につながったということを言おうとしているのである。
しかし、ルツの重要性はダビデ王につながったというだけで終わらない。それは新約聖書の最初の記述を見ればわかる。

ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデをもうけた。ダビデはソロモンをもうけ、マリヤの夫ヨセフをもうけた。このマリアからイエスが生れた。(マタイ福音書一・516より)

新約聖書の最初に置かれたマタイ福音書はその冒頭に、一般的には無味乾燥だと思われる「系図」から始まっている。これはたいていの初めての聖書の読者の首をかしげさせるものである。何の意味があってこんな名前ばかり書いた系図が出てくるのか、と誰しもが思う。私も初めて新約聖書を見たときに不可解に思ったものである。
しかし、このマタイ福音書の著者は、ルツの重要性をはっきりと知っていた。
ルツとボアズとの結婚によって子孫にダビデが生れ、イスラエル史上に決定的な重要人物へとつながり、それがさらに、完全な霊的な王としてのイエスへとつながっていった、ということを示しているのである。
イエスは全世界の歴史にとって最大の大きな変動をもたらした人であり、神の子である。
こうして、誰一人注目もしない、異邦の女、どんな家柄か血筋なのかも分からない、一人の女性が、世界の歴史を動かす人物を生み出す基となったのだと言おうとしている。
それをなしたのが、神であり、神はそのようにして弱い者、取るに足らない者を用いて大いなることをなされ、歴史の流れに組み込んでいかれるのである。
ルツ記という書物は単なる嫁と姑の美談でない。
それは、神は弱き者、とるに足らぬ者を用いて、神の雄大なる御計画を実行されていくということ、さらに、主イエスがたとえで言われたこと、カラシ種のような小さなものが、大いなるものとなって、何十倍、何百倍の実を結ぶというような、聖書全体にわたるメッセージがそこにある。
このルツ記という書物では、ルツという一人の異邦人の女性が重要な役割を果たしているが、それはルツの子孫として生れた主イエスが異邦の世界、すなわち全世界に神の言葉を伝え、弱き者、苦しむ者への喜びのおとずれを告げることへの預言ともなっているのである。


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