単純の深み  2006/3

谷川を流れる水の音、それは実に単調である。毎日毎日ほとんど同じ量の水が、同じように流れ続けている。しかし、その単純な水音、流れのたたずまいであっても、毎日それを目にしても、飽きることのない深い味わいがある。 それは人間の意志でなく、天地万物を創造された神のご意志が直接的に現れているからである。
しかし、人間の世界で多くの人たちが注目することは、例えばオリンピックの金メダリストの演技など、そこには、何とかして一番になりたい、その選手を育てたコーチや親などは、自分の名誉のため、またその母校などもその人がメダルを取れば、自分たちも誇りになるとかの期待、あるいは、外国選手に対しては、その選手が何か失敗すればよいのに、などと思っている人もいるかも知れない。また金メダルなど取ったら、今度はさまざまの団体や会社が、その人を利用して宣伝に使おうとする。背後で多額の金が動く等々。
この世では、美しいようなものも、その背後には実にさまざまの複雑極まりない人間の思惑が働いている。そこには清い美しさなどというものはない。
こうした人間世界の美に対して、天然の美というのは根本的に異なる。夜の闇に輝く星は、それ以上単純なものはないと言えるほどに単純である。闇の中の光、ただそれだけであり、何万年経ってもほとんど変ることがない。
そしてそこには人間の複雑な利害のこもった思惑など、存在しない。その闇の中の光のうちに存在するのは、神の無限の英知であり、また創造のご意志であり、そのような光を人間に示して、神の国へと引き上げようとする神の愛の心だけがある。
また、自然に咲いている野の花は、人間が創造されるよりはるかに前から、存在しているのであって、人間の考えや、もっときれいになろうとかの願望、それを用いて利益を得ようなどといった考えとは無縁である。
こうした単純さの深みということは、この世の幸福ということについても言える。
一般に言われている幸福は、まず健康、お金、よい家族、よい住まい、社会的地位、よい職業、友人などなどが揃ったら幸福だと思われている。そこには、さまざまの条件がある。よい社会的地位を得るために、幼い時から、塾に行かせ、英語を学ばせ、あるいはスポーツクラブに親が送り迎えする。有名大学に入るためには非常な準備をいろいろとする。そして会社に入ってもさまざまの困難な条件をクリアしていかねばならない。 少し病気とか、事故、あるいは失敗などがあっても、そうした幸福は得られなくなる。
この世の幸福とは、実に複雑な迷路を歩むようなもので、そうした迷路をどんなにたどっていっても、目的とする幸福には達することができない。それで魂の深いところで不満や空しさ、疲れを持っている。しかもそれは年老いていくほどに、健康も失われ、家族、友人たちから離れ、仕事もなくなっていき、その疲れや不満、虚無感などは増大していくことが多いだろう。
しかし、昔からそうした複雑な迷路を通っていく幸福への道というのとは全く異なる道、きわめて単純な道が備えられている。
それが、聖書が数千年も昔から示してきた道である。幼な子のように神を信じ、神を仰ぐことによって、壊れることのない幸いが与えられると一貫して記されている。
この世の道はきわめて複雑で錯綜しているが、神の国への道は、まっすぐな単純な道なのである。
主イエスが、「幼な子のようにならなければ、神の国に入ることができない」、と言われたことは、そうした聖なる単純さを指している。そしてこの単純な道は、すでにキリストより、五百年以上も昔から明確に言われてきたことである。

地の果のすべての人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22

ここで「仰ぎ望め」と訳されている原語は、「転じる」(turn)という意味を持っているゆえに、英語訳の多くは、

Turn to me and be saved.

と訳されている。今まで、地上のことばかり、人間のなすこと、目に見えることばかりを見ている魂が、そこからそれらすべての地上の物を創造した神へとまなざしを転換するというただそのことだけで、救いが与えられるという。
後に十字架がキリスト教のシンボルとなって、十字架を仰ぐということが、キリスト教信仰を象徴するような意味を持つことになった。
キリスト教史上で最大の働きをした使徒パウロは、ギリシアの都市コリントを訪れて福音を宣べ伝えたとき、その地方はギリシャ哲学の影響が色濃く残っていたところであったにもかかわらず、あえてきわめて単純な言葉で福音を伝えようとした。
それは、つぎのようである。

私はあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。(コリント二・3

パウロは、若いときから特別にユダヤ人としての英才教育を受けた。すぐれた教師について学んでいたから、さまざまの知識を十分に使ったり、幅広い議論をして相手を説得することもできたであろう。イエス・キリストについてはその生れとか系図、そのさまざまの奇跡、深い教えなど語ればいくらでもできただろう。
しかし、そのような知的な論争とか説得のようなことをせずに、ただ十字架につけられたキリストだけを、心においてそれを宣べ伝えようとしたのであった。
このような単純さ、十字架につけられたキリストを宣べ伝えようとすることによって、神の力が働くことをパウロは知っていた。人間的な議論、博学や論理の巧みさなどをふりかざしても、そこには人間的な思いがしばしば働く。議論ができる、知識を自分がたくさん持っている、自分の方が能力が上なのだ、といった秘かな高ぶりがあれば、神の力は働かない。
神の力がより働くため、そしてその神の力によって一人でも二人でも、キリストの十字架による罪の赦しを受けて救いを得るために 十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えようとしたパウロ。
ただそのことを見つめていれば、神の力はそこに注がれる。
パウロ自身は、決していつも強い状態ではなかった。

兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いなかった。
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからである。
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であった。
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものであった。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためであった。(コリント二・15より)

パウロのような大使徒ですら、衰弱し、恐れに取りつかれ、不安であったという。そのような力の失せたような状況であっても、否、それだからこそ、十字架のキリストだけを見つめる単純な信仰に徹しようとしたのである。そして神はその姿勢を祝福され、多くの人たちにキリスト教を伝えることができたのであった。
主イエスは、「なくてならないものはただ一つ。」(ルカ福音書十・42)と言われた。御国への道は単純である。谷川の水の音が単純で純粋であるように、星の光に二心がないように、キリストの愛は単純で深い。
わたしたちもまた、十字架によって罪赦されるという福音の単純な原点にしっかりと留まり、キリストを仰ぎ望むというただ一つのことを持ち続けていきたいと願うものである。

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