リストボタン復活の重要性について    2006/4

春、それは誰にとっても待ち望まれる季節であろう。その第一の理由は厳しい冬の寒さに終りを告げて暖かくなることであり、次にはそれによって次々に木々や野草、草花たちが蘇ったようになり、花を咲かせていくからである。
こうした春の喜ばしさは、復活の喜びへと指し示すものがある。
けれども「復活」ということは、一般的にはほとんど話題にならない。そのようなことはおよそ問題外だという雰囲気があって、新聞、雑誌、テレビなどでも論じられるというようなことはほとんどない。
このような日本の状況とは全く違って、新約聖書では、復活の重要性は一貫して記されている。
復活ということがいかに世界全体において重要であるか、それは復活を記念する日が、主の日として毎週記念され、礼拝の日となり、それが現在の日曜日を休むという世界的な習慣として定着していったことにも現れている。
日本ではキリスト者はわずかに一%にも満たない少数派である。しかし、キリスト教の中心にある、キリストの復活の記念日と関わりのない人はだれもいない。知らず知らずのうちに、「キリストの復活」は、日本人全体の中に切り離すことができない状況となっているのである。
キリスト教が世界に伝わっていくそもそもの出発点は、イエスの単なる教えでなく、キリストの復活があったからであり、復活したキリストの別の現れである聖霊が注がれたからであった。

ヨハネ福音書においては、とくに復活した主イエスが、恐れている弟子たちの真ん中に立って、「あなた方に平和があるように」と語りかけたということが、次のように特に強調されている。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ福音書二十・1920

このイエスの復活の記事は、ヨハネ福音書の事実上の最後の部分にある。そしてその重要な部分において、「平和があるように!」との主イエスの言葉が三回も繰り返し言われている。ここに、この福音書を記したヨハネがとくに啓示を受けたことが感じられる。そして十一人の弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけてこもっていたとある。そのことも、二回繰り返し記されている。
ここには、キリストと共に三年間、ずっと共に生活し、あらゆる主イエスの驚くべき働き、奇跡、その教えに親しく接していたにもかかわらず、主イエスが逮捕されたときには、みんな逃げてしまったし、弟子たちの代表的存在であったペテロすら三度も、イエスなど知らないと主を否認する状態であった。また十字架にて処刑された後も、このように、自分たちも逮捕されるのではないかとユダヤ人を恐れ鍵を閉めて部屋にいたとある。
こうしたヨハネ福音書の書き方によって、いかに人間は単なる教えや奇跡を見たとか、偉大な人と生活した、というようなことでは力が与えられない、本当には変えられないというのがわかる。
人間はどこまでいっても、人を恐れ、親しかった人や恩人さえも裏切るような弱さがあり、それは鍵をかけてこもっているような束縛感を持っていると言えよう。
人間はもともとそのように真理に対しては、鍵をかけている。それがいくら教えを聞いたり、奇跡を見てもイエスの復活を信じようとしなかった弟子たちや、若いときからすぐれたユダヤ教の教師について学んだパウロのような人でも、キリストの真理を全く受け入れられなかったこと、また、実際に現代の日本人も、キリストの十字架による罪の赦しや復活というキリスト教の中心的真理を全く受け入れようとしない人が圧倒的に多いということからも、人々は真理に対して鍵をかけているという状況がわかる。
しかし、このような状況においても、復活のキリストは、入って行かれる。たしかに、部屋の鍵をかけていた、ということはその文字通りの意味であったが、それとともに彼らの心にも鍵がかかっていたのに、そこにキリストが入って行かれるという、霊的な事実、霊的な真理をも重ねて書いてあると言えよう。
私自身もそうであって、およそ、敵のために祈るとか、愛するなどといったことには全く考えたこともなかった。せいぜいクラスのよくない人間に対して無関心であるとか、反発や嫌うという感情やあるいは見下すといったことでしかなかった。どのような人間に対してでも、その人が本当によくなるように、といった心で対するということは、はじめから思い浮かぶこともなかったのである。
そしてさまざまの苦しい問題が生じて、行き詰まりますます心に鍵がかかってしまう状況のただなかに神は、まずギリシャ哲学という心の世界に目を開かせてくださった。その後に、キリストの十字架による罪の赦しや復活ということ、再臨というキリスト教の中心にある真理に対しても、私の魂の狭い部屋、そこに鍵がかかっていたのに、それを砕いて、その真理が入ってくるようにして下さった。
この世界全体がたしかに、鍵がかかっていた状態になっていた。それは、一人の人間アダムによって罪が入り込んだ、という表現であらわされていること同じである。

一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマの信徒への手紙七・13

世界に鍵がかかっていたが、その中に復活のキリストは入って来られたのである。

もう一つ、キリストの復活に関する箇所で強調されているのが、「あなた方に平和(平安)があるように!」という言葉である。ヨハネ福音書には、短い箇所に三度も繰り返し言われているし、ルカ福音書においても、復活のキリストが現れたということを弟子たちが話し合っていたとき、その復活したキリストが彼らの真ん中に立って、「あなた方に平和があるように!」と言われたことが記されている。(ルカ二十四・36

このような特別な強調と繰り返しは、復活のイエスが与えようとしていたものが何であるかを指し示すものである。それは、すでにヨハネ福音書では、最後の夕食のときに、やはり特別に強調されていたことであった。

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書十六・33

主イエスが最後の夕食のときに、ヨハネ福音書においては詳しくいわば遺言のように最後の長い教えが含まれている。それは十四章から十六章の三つの章であり、六ページにわたって詳しく書かれている。その最後に書かれているのが、右にあげた言葉である。そのように詳しく教えたその目的が、「イエスによって平和(平安)を得るため」なのである。
それは社会的な平和とは大きく異なる本質を持っている。一般のニュースやテレビ、新聞や印刷物で言われているのは、戦争がない状態を指していることがほとんどである。
しかし、ここで主イエスが言われているのは、「私によって平和を得るため」である。このことは、同じヨハネ福音書の十四章でも強調されている。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。恐れるな。(ヨハネ福音書十四・27

ここでも、平和といっても、この世が与えるように、軍縮会議や法律、国連のような国際的組織
、あるいは表面だけつくろうといった仕方で与えるのではない。キリストによってであり、キリストの平和であると言われている。
平和という言葉のもとにあるのは、ヘブル語のシャーロームであるが、これは日本語とは大きく異なっている。日本語は国語辞典を調べるとすぐわかるように、「戦争がなく穏やかな状態」を指しているが、旧約聖書においてシャーロームは、本来は、「完了、完成する」、という動詞、シャーレームの名詞形である。
それゆえ、シャーロームとは、「完成された状態、満たされた状態」といったニュアンスを持っているのであって、「戦争がない状態」という意味が中心にあるのではない。それゆえ、聖書では、平和とか平安という訳語の他にも、勝利、安心、穏やか、勝つ、勝利、繁栄、好意、幸福、善、無事等々、三十種類ほどの訳語が用いられているほどである。(口語訳)
こうした訳語は、原語が、「完成された状態」というニュアンスを持っていることから説明できる。私たちの魂の世界が、完成された状態とは何か、私たちをそのようにするのは神だけができることである。神が私たちの内面を神のよきもので満たすとき、完成する。そのとき、周囲の状況が揺れ動いてもそれに動じないであろうし、さまざまの真理ではないものによっても誘惑されないと言える。また、神に従い、真理に従っていくときに初めて人間の内面は完成する。悪口を言われても、怒らず、かえって神の愛をもって祈るであろう。ほめられるようなよきことがあっても、それは自分でなく、神の力ゆえにそのようになったことをはっきりと実感しているとき、私たちはほめる言葉によっても動かされないだろう。
このように、神のよきもので満たされている状態こそが、完成された状態であり、シャーロームとは、本来はそうした状態を意味する。
だからこそ、次の箇所のように、神ご自身がシャーロームと言われている場合もある。

ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。(旧約聖書 士師記六・24)(*


*)士師記という名称は、ほとんどの人が、書物や新聞でも見たことがないと思われる。私もずっと以前に初めて聖書を手にしたとき、士師とは一体何なのかと思ったものである。士師とは、「中国古代の、刑をつかさどった官。」だと辞書には書いてある。中国語聖書で、士師記というように訳したのをそのまま日本でも受け継いだ名であるから大多数の人にとっては意味不明なのである。文語訳聖書では、中国語訳の聖書名をそのまま受けて、マタイ福音書のことを、馬太福音、ルカを路加、マルコを馬可などと書いていたし、使徒行伝という書名にしても、行伝などという日本語としては使わない言葉も、それが中国語訳の書名をそのまま取り入れたからであった。

そのうち、全うされた状態ということから、戦いに「勝利する」という意味でも用いられている例をあげておく。

「わたしがアンモンの人々に勝利して帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし」(士師記十一・31)(*

*)代表的な英語訳聖書でもそのように訳している。
…when I return victoriousNRS
…I return in triumphNIV,NJB


このように、ふつうは「平和、平安」と訳されることが多いから、シャーローム=平和だと思っていたらいけないのであって、聖書の元の言葉の意味は、ずっと幅広いのである。
こうした、広く深い意味をたたえたシャーロームという語は、神が人間に与えようとしておられるすべてを含んだ言葉としても用いられている。それは例えば次のような箇所である。

たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」
とあなたをあわれむ主は仰せられる。(イザヤ書五十四・10

Though the mountains be shaken and the hills be removed,
yet my unfailing love for you will not be shaken nor my covenant of peace be removed," says the LORD, who has compassion on you.
NIV

神の平和の契約、それは信じる人たちに、いかなることが起ころうとも、今までのべてきたような意味における平和(平安)、原語で言えば、シャーロームを与えるということである。それがいかに固い約束であるかということ、「山が移り、丘が揺らぐことがあろうとも」と言って、そうした天地異変のようなことがあっても、変わらないというのは、そのまま現代の私たちへの言葉でもある。
この部分のイザヤ書は、今から二千五百年ほども昔に書かれたと考えられているが、そのようなはるかな古代からずっと神の平和を与えるという契約(約束)は変ることがない。
それは、このイザヤ書が書かれて五百年ほど後のキリストによって、一層固く約束されたのが最後の夕食のときの言葉である。
主イエスは、最後の夕食のときに、とくに「私の平和をあなた方に与える」と約束された。このことが何カ所かでとくに強調して言われているし、それは主イエスの最後の遺言のようにすら感じられるほどである。
そして、実際に復活のキリストは、「主の平和を与えるために復活された」と言えるのである。また、それは永遠の命とも言われる。永遠の命とは単に長い命でなく、神が持っているような命であるから、それは神の平和そのものである。
ヨハネ福音書、ルカ福音書にはともに、復活したイエスが「弟子たちの真ん中に立ち」と強調されている。ヨハネ福音書では二回繰り返されている。ここには、復活のイエスは、信じる人たちの集り(エクレシア)のただ中に来て下さるということが暗示されている。主イエスご自身が、弟子たちに、次のように言われたことと共通した内容が感じられる。

「二人または三人が私の名によって集まるところに、私もその中にいる。」(マタイ十八・20

ここには、個人の内にも復活のイエスは来て下さることは言うまでもないが、イエスを信じる者たちの集りの中にとくに来て下さるということが、約束されているのである。
このことは、キリストの最大の弟子といえるパウロの次のような言葉においても表現されている。新約聖書においては、キリストを信じる人たちの集り(エクレシア、集会、教会)というものが、「キリストのからだ」であるという驚くべき表現がなされているが、それはいかに信じる人の集りが重要であるかを示すものである。

あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分である。(コリント十二・27
私たちはキリストの体の一部なのである。(エペソ書五・30

また、復活のキリストのことを知らされた弟子は、走って行ったと強調して記されている。走っていく時には、迫り来る時間を後にしつつ一心に前を見つめている。私たちは、そのように真摯に前方を見つめているだろうか。
死があたかも後から追いかけてくるかのように、そしてそれを振り切って復活のキリストに出会いさえすれば、もはや死は自分を追跡することはない。
この世においては、すべてのものを死というものが追いかけていく。そしてその巨大な口に、権力者や金持ちも王たちも、そして天才や一世を風靡したようて才能ある人たちも、みんな呑み込まれていく。人間の集りである国家も同様である。
二千年という歳月を振り返るとき、実にさまざまの国々が起こっては消えて行った。それはこの「死」というものに次々と追いつかれ、押しつぶされていったからである。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(コリント四・810

ここに使徒パウロがなぜ、どのような困難に会ってもそれに打ち倒されなかったかということが記されている。それは、復活の力を受けていたからである。キリストを信じるだけで、打ち倒されることがあった。しかし、滅ぼされることはない。また見捨てられ、さげすまれることがあった。しかし、そのただ中から新たな力が与えられて、立ち上がることができていった。
そのような苦しみは、何のためか。それは、イエスの命が現れるため、である。イエスの命、それは復活の命、死という最大の力を持ったものに打ち勝つ力である。
そしてこのようなキリストのゆえに受ける苦しみは、パウロのような迫害ということだけではない。病気とか人間関係とか、事故や災害など、キリスト信仰を持ったからそのようになったということでない苦しみや悲しみがはるかに多い。こうした苦しみも、それがキリストのため、神の国のために用いていただくための器になるための訓練であると受けとるとき、それはキリストのゆえの苦しみになる。自分の苦しみも悲しみも神の国のためなのだと、受けとるときには、そこから新たなキリストの復活の力が与えられる。そして、自分だけにとどまらない。
「こうして、私たちの内には、死が働き、あなた方の内には命が働いている」
と言っている。それはキリストのための苦しみや悲しみは、決してそれだけで終わることがなく、周りの人に新たな力、命が働くようになるというのである。
キリストのための苦しみや喜び、あるいは祈り、働きというのは、自分だけに留まらないで絶えず周囲にひろがっていこうとする本性をもっている。それが「キリストを信じる者たちは、キリストのからだである」、と聖書で言われているのはこうした意味も持っている。
ここでも、パウロはそのことを繰り返し強調している。
「すべてこれらのことは、あなた方のためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためである。」(四・15

このように、キリストの復活のいのちというのは驚くべき性質をもっているのが明らかにされている。だれかがキリストのゆえに苦しみを受けるとき、他の人に復活のいのちが伝わるというのである。
この最大の実例がキリストであった。キリストの苦しみによって、他の無数の人たちに復活のいのちが伝わる道が開けたのであった。
また、殉教者の血は、新たなキリスト者を生み出してきたのも、このことと関連している。
古いラテン語のことわざに、メメントー・モリー(memnto mori)というのがある。メメントとは、メミニー(覚えておく、忘れない)(memini)の命令形である。この言葉は、いろいろなところで引用されてきた。
私たちがもし、あと一カ月しかいのちがない、と宣告されたとき、どうするだろうか。なすべきことを、できることを精一杯しようと思う人もいるだろう。
悲嘆に打ちひしがれてしまって何も手がつかない人もあるだろう。
あるキリスト教著作家が、「私たちはみんな死んでいくことを忘れるな。自分を苦しめてきた人も、そのうちに死んでその遺骨の上に墓石が乗せられるだけになってしまうと考えるとき、自分を苦しめている人間に憎しみをもっていた人でもその憎しみは和らぐはずである。」と書いていたのを思いだす。
死が近いと感じるときには、私たちの考え方、もののとらえ方は相当異なるものとなってくる。
聖書にもその二つが対照的に記されている。
多くの場合、死んだらもう何もない、それで終りだと考える場合には、つぎのような傾向を生じることが多い。

単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったか。もし、死者が復活しないとしたら、
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになる。
コリント十五・32

こうした考え方と正反対の生き方が、聖書には記されている。例えば、聖書にある例で言えば、使徒パウロは、野獣と戦わねばならないような危険に襲われたり、さまざまの迫害を受けた。それを切り抜けて勝利しつつ歩んで来ることができたのは、死んでも復活する、という確信があったからだ。

兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いであった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるであろう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(コリント一・810より)

このように、復活があるからこそ、いのちにかかわるような危険をも犯して神に従っていこうとする力を生み出してきた。キリスト教が伝わっていく過程でほとんどどこででも生じたのは、このような迫害であった。家族からは切り離され、牢獄に入れられ、拷問を受け、そのような数々の苦難をもあえて受けていくようになったのは、まさに復活の力をいただいていたからであり、死後にキリストの栄光が与えられて復活するという確信があったからである。
人間が死んだらこの世から消えてしまう、というのは多くの人の考え方である。しかし、そのような考え方では、大きな苦難を平安をもって耐えていくことは到底できないであろう。なぜ苦しみを耐えていかねばならないのか、そのまま死んでしまってどうしていけないのか、どうせ死んでしまって、忍耐も善行も悪も正しい考え、悪い考えなどみんな、死とともに消え失せていくと考えるようになり、困難を乗り越えて行こうという気持ちがなくてってしまう。

魂が死すべきものであるか、死なないものであるかを知るのは、全生涯にかかわることである。
魂が死すべきものであるか、死なないものであるかということが、道徳に完全な違いを与えるはずであるのは疑う余地がない。(「パンセ」二一八~二一九 パスカル著)(*

*)フランスの思想家・数学者・物理学者。流体の圧力に関するパスカルの原理の発見は有名。真空の存在を実験によって証明したこと、初めて計算器を発明した。確率論や微積分学の先駆的な業績等々がある。キリスト教思想家としてもその著「パンセ」などで有名。(一六二三年~一六六二年)

著者パスカルはこの文章のすぐあとで、復活について述べているので、ここでは、魂が死すべきものであるとは、復活がないと信じることを指している。死んだらそれで終りで何もなくなる、ということを信じている人たちは、すでに述べたように、悪事をしても善きことをしてもみんな死んでしまうのだ、ということなら、人間は本気で善いことをしようとしなくなる。死んだら無になるのなら、今、苦しみながら少しでも善い事をしようなどと考えるだろうか。
どうせ死んだら終りなら、遊んで楽しんだ方がましだ、と考える傾向を生むだろう。
そのことを、パスカルは、復活があるのかどうかが、人間が正しく生きるそのあり方に決定的な違いを生むと言っている。そして、死とともにすべてが消えてしまうのか、それとも復活があるのかは、全生涯にかかわることであるという。
それは当然である。もし復活がなく、死とともにすべてが失せてしまうのなら、生涯の目標もまた、失せてしまうであろう。
世のために尽くすという、しかし、その世もまた、みんな死んでいくのであって、地球すら消滅してしまうはるかな未来を考えるとき、究極的にはみんな消滅してしまうからである。
こうした問題が解決されるのは、死によってすべてが終わったり消え失せたりするのではないという真理によってである。
人間が死んでもその本質は霊のからだとして復活し、この地球や太陽、宇宙なども、新しい天と地として再創造されるということを信じることができるとき、初めてそのような重苦しい未来から解放される。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。(イザヤ書六五・17

この新しい天と地への信仰こそ、このすべてが移り変わり消えていく世界にあって、私たちに与えられる究極的な信仰である。それゆえこのことは、聖書の最後の黙示録にも示されている。

私はまた、新しい天と地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなっていた。この都にはそこを照らす太陽も月も必要でない。
神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。(黙示録二十一・1節、23節)

古代にあっては海というのは、得体の知れない深淵であり、少し海を深く沈むと暗黒の世界になり、一度荒れると恐ろしい破壊力を発揮することなどから、悪が霊的に存在しているという見方があった。それゆえに、新しい天と地においては、「もはや海もない」と記されているのである。
春になると、一斉にそれまで枯れたようになっていた木々からも初々しい新芽が伸びていき、黄緑色の葉がぐんぐん伸びていく。
宇宙の終りとかいった遠大なことでなく、ごく身近なところを見ると、春になれば、固い幹から次々と新芽が出てきて、花を咲かせていく。またごく小さい種からさまざまの形をした葉をつけ、それぞれに異なった形や色を持つ花を咲かせる。
このような身近なところでの変化、それは神が全く異なるものを、不連続的に創造する、その典型的な形として、復活するのだということを指し示すものとなっている。
使徒パウロも、蒔くときはただの小さな種粒であるが、一度蒔かれると、そこから種の姿とは全く違った植物として成長し、花を咲かせ、実を結んでいく。
人間の復活もそれと同様で、いまの私たちのからだは、復活のときには、「霊のからだ」を神から受けるのである。
復活ということは、単に死のかなたの出来事でない。すでにこの世にあるときから、そのことを体験させてくださる。それは、死んだようになっていたものが、キリストの十字架の罪の赦しを与えられて、新たないのちに生きるようになることである。

あなた方は罪のゆえに、死んでいた。しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さった。(エペソ信徒への手紙二・16より)

このパウロの言葉にあるように、将来死ぬというだけでなく、今すでに霊的に見れば死んでいたとさえ言われているような者がキリストを信じることによってキリストと共に復活させていただき、死にも打ち勝つ神の力を与えられて復活したのが、キリスト者だというのである。
しかも、肉体の死後でなく、今すでに天の王座に着かせて下さったという。それはそれほどに神の力といのちを受けた者だと言われている。
こうした人間の魂をよみがえらせてこの世で全く新しい生きる道を見出し、それを歩み始めるということもまた、復活のキリストの力である。このような意味での復活は、ルカ福音書の放蕩息子のたとえで印象深く記されている。
そして復活という言葉とともに思い起こさせるのは、ロシアを代表する大作家トルストイの最後の長編「復活」である。
これは、一人の女性を深い堕落へと突き落とすことになった重い罪を犯した一人の人間が、その罪の重さを知らされ、神の国に目覚め、悔い改めとともに全く新しい生き方へと変えられていくことをテーマとしたものである。
この作品の最後の部分に次のようにある。

「この晩からネフリュードフにとってまったく新しい生活がはじまった。」
「彼の生涯におけるこの新しい時期がどのような結末を告げるかは、未来が示してくれるであろう」という文で終る。

復活という最も信じられないようなことが、実は最も現実を支え、悪に勝利させる力を与え、現在から世の終わりに至るまでの最大の希望となって今後も闇に輝くともしびであり続けるであろう。


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