リストボタン低きところに  2006-5

谷川のほとりを歩いていてふと思った。水は低いところへと流れる。
この世で与えられる最善のものである、聖なる霊も同様であり、神の前に自分を低くするところに自然に天からの水が流れてくる。
高ぶるところ、自分を第一とする心には流れてこない。自分には与えられるという自信のようなものがあっても難しい。
心の貧しい者、悲しむ者、正しいことができず、しかし真実な正しさそのものに飢え渇く者、自分は罪を犯した者にすぎない、土の器でしかない、と自覚する低い心に主の霊は注がれてくる。
これは、低いところへと水が流れていくように、必然的なことなのである。

可能なかぎりのことを

私たちがなすことは、わずかなことでしかない。よいことだと思ってしても誰からも評価されずかえって悪く言われることもある。人に精一杯の祈りと善意を尽くしても、あるいは印刷物をたくさん作って配布しても何の反応もない、何らかのよき運動のようなことをしても何にも現実は変わらない。そのようなことはよくある。
しかし、結果を見ないで続ける。ほめられてもけなされても、やっていること自体がよいことならば、続けていく。それは時として「水の上にパンを投げる」(コヘレトの言葉十一・1)ようなことだ。全く無駄なようなことに見えることがある。
しかし、内なるものにうながされるなら、無駄にみえることも続けることができる。
そうして続けるとき、意外なことが生じる。思いがけない出来事、予想しなかった出会い、また突然の事故や苦しみ、分裂、そうしたすべてを通して神が働かれていたのが後から分かってくる。
イギリスの広く知られたキリスト教伝道者のスパージョンが次のように言っている。

「海上に風が全く吹かなくとも、帆を降ろしてはならない。
そうすれば風が吹いたとき、あわてて準備せずにすむからである。
恵みが伴わないように見えても、手を尽くせ。
そうすれば恵みが訪れたとき、それを受け止めることができる。
一回の好機を逃してしまうよりは、五〇回の徒労の方がよい。
しばしば祈ることができない、などと考えてはいけない。朝に、昼に、夕に、魂を神に向かわせよ。
望みを失って願うことをやめてはいけない。鳥の声にさえ耳を傾けて下さる神は、時至って、あなたの願いを聞いて下さるはずだから。
神が願いを聞いて下さるまで、あきらめてはならない。

主イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」と言われたのは、こうした持続する祈りと願いなのである。


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