リストボタンイエス・キリストの福音  2006/5

福音という言葉は、日本語としてもキリスト教と関係のない領域においても広く用いられている。新約聖書に現れるこの語の原語は、ギリシャ語では、ユウアンゲリオン(euaggelion)であり、これは、「喜びの知らせ」という意味である。(*

*euとは、「良い」という意味の接頭語、 aggelw とは、「知らせる」という動詞。

この世において、喜びの知らせとはどういうことを指しているだろうか。それは結婚、出産、あるいは、大学合格とか、大会社に就職できた、あるいは自分のひいきするチームが優勝したなどといったことが一番ふつうに連想されるだろう。
しかし、そうしたよい知らせを全く生涯受けとることのない人も相当いる。生まれつきからだが弱いとか、重いからだの障害があって、病院で多くを過ごさねばならない人、あるいはスポーツの勝ち負けなどに関心が持てない状況にある人などにとっては、そうした喜びのおとずれなどはまったく関係のない別世界のことだといえよう。
また、世間の喜びの知らせを受けた人であっても、その後にどんな悪い知らせを受けるかは誰も予測できない。例えば合格した喜びはまもなく、勉強とかサークル活動についていけないとか、健康を害するとか、あるいは人間関係がうまくいかないなどで、まもなく苦しい生活になるということもよくある。
子どもに恵まれなかった夫婦がやっと子どもに恵まれた、しかしその後病気になったとか、少し成長して親に逆らうようになったり、問題を起こして心配の種になることもしばしばである。
このように、この世の喜びの知らせは、たいていが一時的である。
しかし、聖書が示している喜びのおとずれは、本質的に永続的であり、だれにでも本来与えられるものなのである。
聖書全体が、いわばこの喜びの知らせをたたえている。それは、すでに旧約聖書の巻頭にみられる。
天地創造のときには、この世界、宇宙全体がおそるべき混乱と、深い闇のなかであったが、そこに「光あれ!」 という神の言葉ひとつで、すべてを包んでいた闇に光が生じた。これはすでにあらゆる困難な問題への喜びのおとずれなのである。
戦争、飢饉、憎しみ、絶望、差別、貧困、老年の孤独と病気、天災や事故等々、この世には心を暗くし、希望を失わせることで満ちている。しかもそうした闇を解決する根本的な方法はだれもが知らないのである。
しかし、神はそのはてしない闇と混乱のただなかに、根本的な解決の道をはっきりと示したのである。
それこそは、神の言葉であり、光をもたらす神の力である。
このことは、信じるかどうかである。どんなひどい闇や混乱があっても、そして人間の努力や対策、運動が無力に見えても、そのなかに神の言葉が注がれるなら、たちはだかる壁を越えることができる。
ここに喜びの知らせの原点がある。
また旧約聖書における最も重要な人物の一人である、アブラハムについて見てみよう。それは神が人間に呼びかけ、約束の地へと導くということであり、さらに、星のように子孫を増やすということであったが、それもまた、喜びのおとずれである。
どこにいくのかわからない、最終的には死という闇へと向かうのだという一般的な常識は、喜びどころか心を憂鬱にするものである。
しかし、アブラハムを未知の地ではあるが、そこに導き、大いなる祝福を与える、という約束を与えられたこと、それはまさに喜びの知らせであった。
喜びの知らせ、その特質は、一方的に与えられるという点にある。もし私たちの側にいろいろな条件が必要とされるのなら、それは何か苦しいもの、努力を要するもの、あるいは生まれつきのものであったりする。そこからは、自分には喜びの知らせではないのではないか、という恐れや不安がある。
しかし、アブラハムにとっての最大の喜びの知らせは、突然、一方的に神から告げられた。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えよ。あなたの子孫はこのようになる。
私はあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」(創世記十五・7

このように、アブラハム自身がなにか優れたところがあったとか、何かの特別な善行をしたとか、そういうことが全く言われていない。ただ一方的に祝福の源になり、星のように子孫が増やされ、よき土地を与える。」と言われたのである。
このことが、時代がすすむにつれて、祝福の源になるということよりもさらに深いところへと進んだ。それが、人間の根本問題である、罪の赦しのことである。
これが何よりも、深い意味において、喜びの知らせとなることは、すでに旧約聖書の詩編においても、示されている。

いかに幸いなことか、主に罪を数えられず、心に欺きのない人は。
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てた。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てた。
わたしは罪をあなたに示した。
わたしは言った、
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。
神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。(詩編三二より)

ここに、深い喜びの声をあげるのは、罪赦された人である。多くの人々に喜びの知らせを告げることができるのは、罪赦され、それまでのどんなことをしても解決できなかった罪ゆえの苦しみから解放された人なのである。
この詩は、喜びのおとずれをキリストより何百年も昔にすでに知らされていた内容を持っている。
こうした罪ゆえに縛られた状態からの解放が最大の喜びとなり、解放を告げるもののうちに与えられる喜びが、イザヤ書にも記されている。

いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げる

主は聖なる御腕の力を
国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。(イザヤ書五二・710より)

このイザヤ書の箇所は、もともとは、イスラエルの民が彼らの罪ゆえに、新バビロニア帝国に攻略され、滅ぼされて多くの民が遠くバビロンに捕囚として連れて行かれた。そのときから半世紀を経て、新しくペルシア帝国が起こり、その王が意外にも捕囚となったイスラエルの民を解放し、祖国に帰ってもよいとの許可を与えたことが背景にある。
罪ゆえにとらわれていた人たち、その人たちが帰ってくる、という喜びの知らせを指しているものであった。しかし、聖書の箇所は、そうした特定の時代に関して与えられた言葉であっても、驚くべきことに、はるか後の時代のことを預言するものであることが実に多い。というより、聖書とはそうした言葉が収められたものであって、それゆえに神の言葉と言われるのである。 神の言葉とは、永遠性、普遍性を持つものだからである。
実際、パウロは、この箇所を福音を宣べ伝える者を預言した箇所として、その書簡の中に引用している。

遣わされないで、どうして(福音を)宣べ伝えることができよう。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」
と書いてあるとおりである。(ローマの信徒への手紙十・15

この福音とは、パウロがその主著であるローマの信徒への手紙の冒頭で書いているように、神の子キリストに関するものである。

この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
御子に関するものである。
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって神の子と定められた。この方が、私たちの主、イエス・キリストである。(ローマの信徒への手紙一・24

福音とは「キリスト」であり、復活したゆえに「神の子」と定められたと言われている。ここで、神の子とは、単に神が造った子という意味でなく、神と同質という意味である。
この短い表現によっても、福音とは復活したキリスト、神の子キリストに関するものであることが分かる。
そしてそのキリストの福音の中心は、人間の最も深い問題、すなわち罪の問題の解決であった。人間世界の根本問題とは、戦争や、資源やエネルギー問題、あるいは環境問題、人口や貧困の問題でない。それらすべての問題の根源にあるのが、人間が正しい道を歩けず、自分の欲望や意志どおりにしようとする人間中心、自分中心の考えにある。そのことが罪というものである。罪こそは、あらゆるこの世の問題の根本に横たわっている問題である。
それを解決するために来られたのが、キリストであり、キリストそのものがまさに福音なのである。それゆえ、過去から現代に至るあらゆる問題の根本的な解決には、つねにキリストの福音が働いてきた。
そのことは、具体的には、キリストが私たちのどうすることもできない罪そのものを身代わりに背負って死んで下さったということである。これは、あまりにも予想できないこと、人間のそれまでのどんな哲学思想や経験にもなかったことであるゆえに、自然のままの人間には到底信じられない、受け入れられないことなのである。
そのことを、聖書において初めてはっきりと記しているのは、次の箇所である。

かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
彼の姿は損なわれ、人とは見えず
もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、
一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ書五二・14~五三・1より)

このように、神のしもべとして来られた方であっても、前代未聞のかたちでの生き方のゆえに、その人を受け入れられないと記されている。
キリストの時代より、五〇〇年以上も昔に預言されたこのことは、キリストがこの世に来られたことによって実現することになった。福音はその内容があまりにも予想外であるゆえに、まず第一にユダヤ人の救いのために来られたはずのメシアであったが、ユダヤ人そのものがほとんどが受け入れようとしなかった。
そして現在も特に日本において、この簡単な福音を受け入れることができない人がきわめて多い。

このような喜びの知らせが全く予想外のことであるのは、次の言葉でもうかがえる。

これから起こる新しいことを知らせよう
隠されていたこと、お前の知らぬことを。
それは今、創造された。
昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。
それをお前に聞かせたことはない。(イザヤ書四八・67より)

この記述は直接的には、新バビロニア帝国が滅び、新しく興ったペルシア帝国の王によって、捕囚となっていた民が解放されるということを指している。しかし、預言書、とくにイザヤ書にはそうした時代的な状況を越えてはるか先のことをも預言するものとなっていることがしばしばある。預言書というのは本質的にそのような真理を内に持っているのである。
これは、これが書かれてから五〇〇年ほども後に生じる、キリストによる罪からの解放を預言するものなのである。罪の力、人間を自分中心という力に縛られた状態、囚われた状態から、キリストが十字架にかかって死ぬことによって、解放するということは、全く誰も考えたことのないことであった。

また、同じイザヤ書の最後の部分には次のような記述がある。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。
わたしはエルサレムを喜びとし
わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(イザヤ書六五・1720より)

現在、私たちが生きているこの天地と異なる新しい天地、それはどのようなものか、描くことは困難であるが、はっきりしていることは、その新しい天地は霊的なものであるということだ。そしてこの書を書いた人が、神から直接に受けた深い啓示によってこのような新しい天と地が必ず来るということを、世界の人々に伝えようとしていることである。
そして人間も、新しく創造されるという。その特質は、ひとつ、喜びに包まれた存在として創造されるのである。
これは、単にイスラエルの人たちのことを預言しているのでなく、全世界の人たちに向けてこの言葉がある。
このような、全く新しい霊的な世界と、新しく創造される自分とを知るとき、これはまさに喜びのおとずれである。
この預言書の著者、イザヤは神から直接にこの喜びのおとずれを聞き取り、それが永遠的な意味を持っていることを知らされていたであろう。
このことは、当時としては多数の人たちからおよそ信じがたいとして受け入れられなかったであろうが、現在の私たちへも届く光に満ちたメッセージとなっているのである。
人間は、罪深い存在であるゆえ、何か自分にとって気に入らない言動がなされると、相手にも不満や怒り、憎しみとか軽蔑といった様々の感情を持ってしまう。
しかし、そうしたあらゆる暗い感情を越えて、喜びのおとずれがある。
このように、旧約聖書ですでにごく一部であっても、人類に与えられる「喜びのおとずれ」が告げられていたのであるが、それが決定的になったのが、主イエスによってであった。

新約聖書において、キリストの福音とは何か。
キリストご自身は、どのようにこの福音という言葉を用いたであろうか。
福音書の最初のもの、マルコ福音書で福音という言葉はつぎの箇所で現れる。


イエスは、神の福音(喜びのおとずれ)を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。心の向きを変えて、福音(喜びのおとずれ)を信じなさい。」(マルコ福音書一・1415

ここで福音(喜びのおとずれ)と言うが、なぜ、どのような意味においてそれが喜びのおとずれなのであろうか。また、旧約聖書ですでに見られる喜びのおとずれとどのように違うのであろうか。
それは、神の国が近づいた、すでにここにある、ということである。神の国とは、何かということが次の問いになる。日本語で「国」といえば、日本とかアメリカといった国を連想する。そして、王という意味が入っているなどということはない。しかし、新約聖書の原語であるギリシャ語では、「国」と訳された原語は、バシレイアであり、それは王(バシレウス)という語と関連している。すなわち、単に目にみえる国というのでなく、王の支配といった意味を持っている。それゆえ、主イエスが、神の国は近づいた、といわれたのは、神の王としての支配が近づいたということになる。そして単に近づいただけでなく、すでにそこに来ているという意味が込められている。
それは、原文の表現が、単に近づいたという過去でなく、近づいた、そして今そこにある、といったニュアンスを持っているからである。(*
日本語訳をそのまま受けとると、神の国、すなわち神の御支配が近づいた、しかし、まだ来ていないというように受けとられるかも知れないが原文はそうでなく、現に神の愛と真実の支配がそこにあるのだ、という意味を持っている。

*)「近づいた」と訳されている表現は、ギリシャ語で、「(現在)完了」といわれる時制である。これは、単なる過去でなく、「完了した行為の結果としての現在の状態を表現」している。
完了時制は、動作を、いわばひとつの完成した製品のように目の前において眺める時制である。言い換えると、その動作の生起や遂行そのものに注目するのでなく、完成の極点への到達と完成の結果そこに存在する事態を総合して眺め、その時点で現にどうなっているかを表現する。この時制のギリシャ語名は、parakeimenos は、新約聖書の本文にも現れる動詞の分詞形で、「側に来ている」「現に目の前に置かれている」時制を意味する。完了時制の主要な表現機能は、動作が完結して、「現にどうなっているか」にスポットを当てることである。 (「新約聖書ギリシャ語構文法」一七五頁 岩隈直他著、「新約聖書のギリシャ語文法」第一巻一〇五頁 織田昭著 などより」)

そのことを裏付けるように主イエスもつぎのように言われている。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間(ただ中)にあるのだ。」( ルカ福音書十七・2021

ファリサイ派の人たちとは、旧約聖書に記された律法を厳格に守ることを重んじた人たちであった。彼らも神の国が来ることを待ち望んでいた。それは旧約聖書に預言されていたからである。
メシアではないかとうわさされているイエスならば、神の国のことについても答えるだろうと考えてこのような質問をしたと見える。
神の国は、どこか別のところにあるのでなく、「あなた方のただ中」すなわち、私たちが生活し、さまざまの問題を抱えて悩み苦しみつつも、生きている私たち自身のただ中にあると言われた。どんなに悪がはびこり、また神がいないように見える困難な問題が生じようとも、それでもなお、神の国、つまり神の王としての御支配は、そのようなただ中にある、といわれたのである。
イザヤ書の預言から数えるとおよそ七〇〇年ほども昔から、神に特別に選ばれた者が現れるとされてきた。そうした身近なものとなった神の国はじつはそこに来ているのである。
この地上の状況は、昔から今に至るまで変ることがない。聖書にもその最初の書物である創世記に、初めての家庭であった、アダムとエバの家庭に、兄のカインが弟のアベルを妬んで殺すというようないまわしいことが書かれてある。初めて聖書を読み始めたときにはどうしてこんな暗い記事が書いてあるのかと思ったが、それはこの世の現実の状況を鋭く現しているものなのである。
カインが弟を殺したのは、妬みが憎しみへと深まったためである。そのような感情は自分中心の心から生じる。この自分中心という人間の本性のゆえにこの世はさまざまの苦しみや悲しみが生じる。どんなによいことをしてもどこかに自分への報いを期待する心があり、よいことをしていない人を見下したりする心が隠れていたりする。
聖書における放蕩息子のたとえに出てくる兄の態度がそうした人間の本性をよく現している。兄の方は仕事熱心で、落ち度もなかった。長い間怠けることもせずに働いてきた模範的な息子と思われていた。しかし、放蕩のかぎりを尽くしたが、心を入れ替えて罪を告白して帰って来た弟に対してはまるで愛を持てなかった。父が大いに喜んでかつてないほどのご馳走をして、その放蕩息子を迎え、死んでいたのに生きかえったと、その喜びを表したのに対して、兄の方は、あんなに遊び暮らしてきた人間をどうしてあのように迎えるのかと、父への不満と弟や父への怒りでいっぱいになってしまった。ここには、どんなにまじめに働いているようであっても、その心は自分中心であるという人間の現実の姿が描かれている。
人間の善い行いというのも、このように実は自分中心の心がその奥にひそんでいる。しかし、本人ですらそれには気付かないほどに奥に隠されているのである。
このような人間世界の現状のただなかに、神の新しい御支配が近づいた、すでにそこに来ているというのである。それは、悪の支配でなく、神の全く新しい御支配がそこにある、というのである。
人間がどんなにいろいろと努力しても、本質的に自分中心という本性は変わらない。そのただ中に突然、天から入り込んできたのが、神の御支配の新しい世界だという知らせである。
主イエスは、悔い改めよ、福音を信ぜよ、といわれた。この悔い改めと訳されている原文の表現は日本語とはニュアンスが異なっている。このところの言語は、ギリシャ語ではメタノエオーであり、これは、旧約聖書のヘブル語の、シューブという言葉で現わされる意味が背後にある。
そして、シューブというヘブル語は、「立ち返る」とか「悔い改める」、「向きを変える」「心を変える」といった訳語に訳されている。
英語では、このシューブは、英語訳としては最も広く用いられてきた、
(きんていやく)聖書(*)でみると、return(「戻る、帰る、復帰する」という意味) と訳されたのは三九一回、turn(「回転させる、変える、裏返す、方向を帰る、向ける」)と訳されたのは 一二三回というように、合計すると五〇〇回以上も、転じるという意味をもった言葉に訳されているのが分かる。
悔い改めるという日本語は、日本語訳よりも先に訳された中国語聖書からそのまま引き継いだ訳語である。中国語聖書(**)では、手許にある五種類ほどのものは、四〇年ほど前の翻訳から最近の翻訳まですべて「悔改」と訳している。

*)イギリス国王ジェームズ1世の命を受け,五十数人の聖職者,学者たちによって訳され、一六一一年に刊行された英訳聖書。その文体は優れていて、刊行以来今日に至るまで3世紀半以上にわたり広く国民の書として愛誦され,英・米人の精神,思想,感情生活をはぐくんできた。シェークスピアの英語と並び,むしろそれ以上に,近代英語の形成に大きな役割を果たした。それは翻訳であるにもかかわらず,一つの文学作品として,後の英・米文学に与えた影響も絶大であり,日常英語に引用ないし言及される作品として最も広く知られてきた。

**)例えば、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というイエスの言葉は、新しい中国語聖書では次のように訳されている。
神的国近了!当悔改、信福音。

日本語の「悔い改め」という言葉は、ある具体的な罪を犯したことに対してそれを反省して、止めようと思ったというニュアンスを感じる。例えば、以前に盗みをしたことを悔い改めた、という用い方である。けれども、このような個々の罪を悪かったと悔い改めるというのでは、人間の本質は何も変わらない。私たちは、日々、数知れない罪を犯しているからである
罪を犯していない、正しい生活をしている、という人もいるだろう。しかしそれは、仕事もまじめに熱心にする、人間関係もよい、悪い遊びもしていないそのようなことをふつうは正しい生活というだろうし、周囲の人もよい人だとみなし、罪があるなどとは考えない。
しかし、主イエスの指し示された人間のあり方は、そのような表面的なあり方でなく、心の奥の状態まで言われている。それは、この世の標準からみて正しいかでなく、正しさや真実の根源である神を愛し、隣人を愛しているか、ということが問われている。
神を愛しているなら、自分のため、家族のためだけに生きるということは、正しい生き方でないと分かる。神とは万物を創造されたお方であるから、どんな人間をも愛をもって造られている。それゆえ自ずからどんな人間にも同じような心で対することが求められてくる。
それゆえ、主イエスは、神を愛することと並んで、人を愛することが、人間の基本的なあり方であると教えられた。
このような、誰にでも及ぼす愛を持って生きているか、という点からみると、いったい誰がそのような愛を持って日々生活していると言えるだろうか。
何か気持ちが向かない、合わない人、病人、障害者に対して自分の家族に対する心と同じように愛を持っているだろうか、あるいは敵対する人、意図的に悪意を持って攻撃してくる人、欺いた人、裏切った人、等々そのような人たちへの愛はどうか。
さらに、誰にでも及ぼす愛を持っているというなら、通りで出会う一人一人、通りすぎる家々の一人一人、通勤で出会う数知れぬ人たちそうした人たちへの愛をいったい誰が十分に持っているなどと言えるだろう。
主イエスが言われたような、誰でもに及ぶ愛はあるのか、神が求めるような正しさや真実をもって生きているか、と問われたら、そのようなことはとてもできていない、すなわち神が示されている正しいあり方から遠くはずれた者でしかないのが分かる。
このように、もし私たちが個々の罪を悔い改める、などということをするなら、それは無数にある罪を一つ一つ悔い改めていくなどということは到底できないことである。
主イエスが、「悔い改めよ、福音を信ぜよ」と言われたのは、そのような個々の罪を思いだして悪かったと反省することでないのはこうした事実を考えても明らかである。
すでに述べたように「悔い改める」と記されていても、本来のギリシャ語やヘブル語では、そのような個々の罪を犯したことを反省するといったことでなく、「転じる」という意味がある。
神の新しい支配がそこに来ている、だから今までは、この世の罪深い出来事や、戒め、その罰等々社会の表面ばかり、目に見えるようなものばかりを見ていたのを、全身で方向転換して、すでに私たちのただ中にある神の新しい御支配(神の国)を信じ、それを受け入れよ、というのである。
一般の考え方の場合、私たちに近づいているのは、ますます広がる環境汚染、原発やそれと深い関係がある核兵器の危険性、地震などの天災、テロや戦争の広がりといったもので、何もよいニュースではない。それどころか、心を暗くする、悪いニュースが毎日告げられている。
「神の新しい御支配のときは近づいた、そしてすでにそこにある。今までの方向でなく、その神の支配を信じよ」ということは、より具体的に言えばどういうことであろうか。
それは、悪の霊が退けられるということにはっきりと現れている。悪の力が追いだされることである。次の主イエスの言葉がそのことを示している。

しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ福音書十一・20

また、主イエスが、弟子たちを派遣するときの記述も、次のように記されている。

イエスは、十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権威を与えた。
汚れた霊を追いだし、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい。行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、悪霊を追い払いなさい。」(マタイ福音書十・18より)

このように、汚れた霊(悪霊)を追いだすということ、悪の力が退けられることは、天の国(神の国)が近づいてすでにここにある、ということをはっきりと示すものである。
悪の霊の力、働きが追いだされることは、イエスの地上での働きのときに始まった。そして、主イエスが十字架にかけられて処刑されたということも、善の敗北でなく、それによって人間の罪の力が十字架にかけて滅ぼされたという象徴になった。
罪が赦された、ということは何にも代えることのできない喜びであり、平安をもたらすものである。人は自分の過去の長い間にわたる言動や、心に思ったことなどを静かに振り返るとき、じつにたくさんの罪を犯してきたことに気付くだろう。過去の罪によって誰かを傷つけたり、苦しめたことはどうすることもできない。それによって相手がどのような打撃を受け、場合によっては生涯にわたる影響を受けたかも知れない。それはいかにしても償うことはできない。
しかし、そのような赦されない罪の苦しみから解放される道が開かれた。それはそのような罪を赦し、主の平和を与えるために、キリストは十字架にかかったのだと信じて受けいれることである。
それこそ、まさに「喜びのおとずれ」(福音)である。
これが喜びの知らせであることを次のようにパウロは記している。

神は、私たちを愛して、聖なる者、汚れなき者にしようと、キリストによって選ばれました。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちが称えるためです。
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるのです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせて下さいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。(エペソ信徒への手紙一・49より)

ここには、罪の赦しがいかに大きな喜びのおとずれであるかが記されている。その計り知れない大きな喜びのゆえに語らずにはいられない、という著者の熱心が感じられる表現である。
そしてこの罪からの救い、罪の赦しということから、復活ということにつながっていく。
罪赦された者、罪からあがなわれた者は、死からよみがえったものなのである。

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ信徒への手紙二・16より)

ここで、私たちは罪ゆえに死んだと同然な者となっていたと言われている。罪とは人間を死に至らせるからである。しかし、死の根本的原因である罪が赦され、罪からあがなわれたゆえに、死の原因が除かれた。それゆえに、キリストを信じて赦しを受けた者は、死から復活したと言えるのである。
キリストが復活したのはわかる、しかし、罪深い私たちがキリストと共に復活する、などということがあるのだろうか、と信じきれない者もいるだろう。
しかし、そのような本来なら信じられないような恵みが与えられるというのが、一貫した神の言葉なのである。それが喜びでなくして何であろう。
十字架と復活は、このように「喜びのおとずれ」の最たるものなのであり、それこそキリストの福音なのである。
神が、この世の悪の霊的な力に勝利する(悪霊を追いだす)ということは、このように、十字架の罪の赦し、復活ということにも内的につながっていく。
これらすべてがイエス・キリストが地上に来られて、たしかに「神の国」が近づいて、私たちの生活のただなかにある、ということを指し示すものである。
神の国などどこにもない、あるのは、人間の国、人間のさまざまの思惑や計画、策略などなどの混乱した世界しかないのだ、と考えている人間のただなかに、いわば雷が落ちるように、稲妻が闇夜を貫いて大空から光を放射するように、「否、神の国は、そこに来ている、もう来ているのだ」という大いなるメッセージがここにある。


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