リストボタン愛国心    2006/6

教育基本法の改定にあたって、愛国心に関する記述を入れるということが大きい問題となった。
結局、政府案は、「我が国と郷土を愛する態度を養う」と記された。他方、民主党が示した対案は「日本を愛する心を涵養する」という内容となった。
政府だけでなく、野党の一部などがなぜ、このように愛国心にこだわるのであろうか。そしてなぜ、この問題は重要なのか。
それは、すでに卒業式などにおいて「君が代」の強制が行なわれていることからうかがえるように、愛国心を養うことが法律で規定されるなら、一層こうした国家への忠誠が強要されることになると考えられるからである。
実際、一九九九年に成立した国旗・国歌法に関連して、当時の小渕首相が「児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではない」と国会で答弁していたにもかかわらず、現在では、特に東京都などで顕著に見られているが、卒業式での国歌斉唱での起立が事実上強制されているからである。
教育基本法に「愛国心」の記述を入れると、そのための教育が強制される可能性が濃厚となる。
何のために、愛国心教育を強調しようとするのであろうか。
これは、要するに、自民党や政府の命令どおりに従うような人間を養成したいということがその背後にある。
現在、ますます日本はアメリカの軍事的な協力国家への歩みを強めている。
最近も、神奈川県横須賀市の市長が、米海軍横須賀基地への原子力空母の配備を容認する考えを表明したが、それによって、日本は、日本の心臓部である首都圏に危険な原子力空母の母港を持つことになる。これはどこかで戦争状態となったりすると、この空母が支援することになり、日本も事実上、戦争への強力な支援をすることになる。
そして原子力空母に搭載されている原子炉の危険性も同時に抱え込むことになる。もし炉心溶融などの大事故が生じたときには、神奈川県や東京都、千葉県など日本の中枢部に深刻な被害が生じ、百万人以上が被爆して一〇年以内に死ぬ可能性があるという。(「東京新聞」六月一四日の記事による)
こうした危険性にもかかわらずアメリカの言うがままに、危険な空母の配置を受け入れている。
受け入れを認める政府などの説明では、原子炉を搭載しているが、核兵器ではないなどといっているが、長い間、当然のこととして言われてきた、非核三原則、「核兵器は作らず、持たず、持ち込まない」という国是をも事実上踏みにじるようなことである。
こうしたアメリカとの軍事的な一体化は、アメリカが戦争を起こすとそのまま日本にもかかわってくる。そして政府の命令どおりに忠実に従うようにと強制されてくる。政府などが考えている愛国心教育はこうした事態になると、命令どおりに従う人間を作ることになって好都合になるのである。
そのため、表面的には、若者の精神的な堕落は、愛国心教育がなされないからだ、などという理由を持ってくる。
しかし、国を愛するというようなことは、強制してできることなのか、そもそも「愛する」ということは、その対象が何であれ、強制したり、法律で規定してできることだと本当に考えているのだろうか。
例えば、愛国心教育が最も厳しく行なわれた戦前を考えてみる。国が本当によくなるようにと、人々は考えたのか、そうでなく、単に戦争に勝つということへの強い関心にすぎなかったのであり、偽りの情報に踊らされ、政府の言うがままに従っていくような状態へと落ち込んでいった。
日本は隣国に侵略して、上海のような大都市にも大規模攻撃を加えて計り知れない打撃を与えていったが、そうした大量殺人がその本質であった戦争を、聖戦と信じ込み、天皇のために命を投げ出す、などという考えをもって、敵の艦船に体当たりしていく、こうした精神は正しく成長したと言えるであろうか。
そのような大きな間違いを犯すこととなった理由のひとつは、真実を知らされずに、偽りの情報によってあやつられた結果であった。愛国心教育の結果は、世界大戦に積極的に加わり、率先してアジアの侵略をしていったことであった。そして他国の数千万の人たちを殺傷し、自分の国の人たちも三百万人を越える人たちが死ぬことになった。
これが愛国心教育が強力に行なわれたゆえの結果であった。
こうした歴史の事実を振り返ってみても、愛国心教育なるものが、いかに実体のないものであり、それがむしろ戦争を助長していったことがわかる。
ロシアの大作家であって思想家でもあったトルストイ(*)した、愛国心の本性を鋭く見抜いて次のように述べている。

愛国心とは、その最も簡単明瞭で疑いのない意味では、支配者にとっては、権力欲からくる貪欲な目的を達成する道具にほかならない。
また、支配されている国民にとっては、人間の尊厳や理性、良心を捨ててしまうことであり、権力者への奴隷的服従にほかならない。
愛国心とは、奴隷根性である。(「キリスト教と愛国心」トルストイ全集第十五巻 428頁 河出書房新社刊)

*)トルストイ(一八二八年~一九一〇年)ロシアの作家、思想家。十九世紀を代表する作家のひとり。代表作は、「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」、「復活」など。晩年にはキリスト教の福音書の教えをもとにした民話集をたくさん書いた。また、キリストの非暴力、無抵抗の精神を受け継ぐ平和主義者としても知られ、インドの指導者ガンジーの非暴力の精神はトルストイに深く影響されたものであった。そしてそのガンジーの思想が、さらにアメリカの黒人牧師であったマルチン・ルーサー・キングに受け継がれていったことをみても、トルストイの影響は、単なる作家としてでなく、政治や社会的にきわめて大きい影響を与えることになったのがわかる。

こうしたトルストイの批判は、戦前の日本の状況を考えるとよくあてはまる。愛国心を鼓舞して要するに、自分たちの命令どおりに従う国民となるように教育などを用いて造り替えていき、戦争という目的に都合のよいように駆りだすために用いたのであった。
そして国民もまた、愛国ということのために、大事な息子も犠牲にし、働くことも戦時体制となり、戦争の助けをするための労働となり、言論の自由も奪われ、奴隷的な状態へとおとしめられていったのであった。

本当の愛国心
そもそも愛国とはどういうことなのか、国を愛する心というが、国とは何を指しているのか、愛するとはどういうことを意味するのか、そうした基本的なことが明確にされずに、各人がそれぞれにイメージを持って、それをもとにして議論していることが多い。
国とは、そこに住む人間、その人々を統治する組織、その人たちが住む国土などの全体を言う。国を愛するとは、そこに住む人間を愛し、その政府をも愛し、さらに国土をも愛するということになる。
それでは、「愛する」とはどういう意味のことを指しているのか。この場合も、実に曖昧である。
例えば、サッカーの国際競技で日本の旗を持って、応援したり、「君が代」をうたっていると、それで愛国心がある、などと言われる。しかし、そんなものが「愛」であるはずがない。単に自分の国が勝った方が何となく優越感を抱ける、ということにすぎない。 それは、日常生活のなかでも、人より金を多く持っていたり、大きい家、車を持ったり、自分の息子や娘が有名大学や大会社に入ったりすると、周囲に対して優越感を抱くことになるのと同様な感情にすぎない。
自分の国のチームが勝つと、何となく自分が偉くなったように感じる、だから応援を必死になってする。
もしも、弱い者への配慮を持つなら、勝利などたちまち消えてしまう。相手が弱いチームだ、それは気の毒だから、手抜きをして負けてあげよう、などと考えていたらたちまちスポーツの世界では、負けてばかりになり、排除されてしまうだろう。
相手に勝ったら喜ぶ、それは、子ども同士のけんかや、ゲーム、遊びも同様である。そこには、弱者への愛などというものは生れようがない。スポーツは本質的に強者のものだからである。
このような子どもの時から存在する心情が大人になっても続いていく。戦争という事態の背後にも、強者でありたい、という個々の人間の強い欲求がある。戦争となると、国民全体が自分の運命も関わってくるので、自国の勝利を目指し、相手を徹底的に打ち負かすことだけに必死になる。
国を愛するとは、どういうことか、 国(国家)とは、すでに述べたように、領土・人民・主権がその概念の三要素とされているが、第一に重要なのはそこに住む人間である。人間がいなかったら、それは自然の世界にすぎない。人間がいるからこそ、その人々を治める人たち、組織が必要となる。そうした組織が根本でなく、人間が元なのである。だから国を愛するというとき、そこに住む人間を愛するということが、出発点になければならない。そして人間を愛するとは、単にサッカーなどが他国に勝った、などというものではあり得ない。 ボールを小さな枠の中に蹴り込む、それがうまくできたからといって一体どうして日本の人間を愛する心につながり得ようか。それは本来子どものボール遊びの拡大したものにすぎない。
日本はこんなに強いのだ、という感情をくすぐり、自分もその強い一員だ、という一種の優越感を抱くことにすぎない。 しかし、本当の愛とは弱い者、苦しむ者、さらに敵対するものがよくなるように、と願う心であり、そうした優越感とは何の関係もない。むしろ、自分は偉いのだと思って喜ぶ心情は、本当の愛とは対立する感情なのである。
サッカーの応援を必死になってする、そこに愛国心が現れている、などというのは、このように国とはなにか、愛とは何かを深く考えないからである。
本当の愛国とは、そこに住む人を愛すること、言い換えると、そこに住む人間がよくなるようにと心を注ぐことである。偽の愛国心、実体のない愛国心とは、政府のいうがままになることであり、スポーツその他自国のことで優越感を抱くことである。
戦前のように、政府が強制的に天皇のために死ね、といわれれば、そのように行い、この戦争は聖戦だと言われれば、そのままそうです、といって従う、そうした政府への忠誠が愛国心とみなされている。
しかし、これがさらにすすめば、単に政府、権力者への奴隷的心情になる。健康な若者が、飛行機ごと、アメリカの艦船に体当たりして死んでいく、こんなことが全く無意味であることが分からなくなり、それがあたかも愛国心の極致であるかのように錯覚させられた、それは奴隷的と言えるほどに、政府の言うがままになっていった結果である。
愛国心といいながら、愛とは最も反対である、奴隷的な服従を強制させられている状態を、愛国心があるなどということになってしまう。
「君が代」の斉唱を強制する、これも政府の愛国心教育の一環なのである。しかし、「天皇の支配している時代が永遠に続くように」、といった意味の歌を強制させてそれで、日本の人々への愛が増大すると本気で考えているのだろうか。単に教育に関わる人たちは、上からの命令を聞いておかねば、自分の地位に関わるという自分中心の考えからなされていることが多いのではないか。そのようなことを強制している、教育委員会の人たちが、「君が代」をうたってどれほど日本の人たちへの愛を強めたりしているのか、と問いたい。
それならば、本当の愛国心とは何か。これは、愛とは何か、ということをはっきりさせておくことが不可欠である。愛とは、相手が本当によくなることを願い、祈る心である。単にひいきしたり、優越感などではない。

聖書における愛国心
この点で、聖書に現れる真の愛国者を見ればその違いがはっきりとわかる。
旧約聖書における真の愛国心をもった人を幾人かあげると必ず含まれるのは、エレミヤである。彼は、自分の国の人たちを愛し、彼らの生き方が間違っているゆえに迫っている大きな苦難、滅びようとしているのをはっきりと神から知らされ、命がけで人々への警告を発し続ける。その罪の根本は、正義と真実なる神を仰がず、別の神々を敬うということにある、と知った。それゆえ、そのままでは、人々は多数が死に、国も滅びるということが分かっていた。それゆえこの国の人々が救われるためには、正しい道に立ち返ることが不可欠だと、命がけで神の言葉を宣べ伝えたのである。

主はこう言われる。
お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。(エレミヤ書七・36より)

わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。
むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。
「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。
わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」(同七・2223

これらの言葉は、当時の人たちが、真実な神の示す道を歩もうとせず、弱者を圧迫し、不正なことを重ね、そのようなことをしながら、他方では、神殿での儀式や捧げ物などの目に見える宗教的なことには力を入れている、そのような偽善的な宗教は何の役にも立たない。神からの語りかけに耳を傾け、正しい道に立ち返ることこそ、国が滅びないための道だと、人々に説いた。
エレミヤの目には、自分の国の人々が間違った道へと進み続けているその実体がありありと見え、その末路もはっきりと示されていた。それゆえに、彼は深い悲しみを持っていた。

娘なるわが民の破滅のゆえに
わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。
わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ書八・2123より)

あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその高ぶり傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。(エレミヤ書十三・17

エレミヤはこのように、真実な神に立ち返らないゆえに、間近に迫っている滅びとバビロンへの捕囚ということをまざまざと神から啓示されたのである。そして痛みと悲しみをもってこれらの言葉を語り続けた。
見せかけの愛国心というのは、自分中心であり、自分を誇り、自分の益を求める。しかし、真の愛国心とは、このように、祖国の人々への愛であり、真理の道に立ち返るようにという強い願いを持っているのであって、他者中心、神中心なのである。
このように深く国を愛する預言活動の結果、エレミヤは、人々から憎まれ、殺されそうになる危険の中に生きていかねばならなかった。
祖国は、攻撃してきた新バビロニア帝国に滅ぼされたが、その国へと連れていかれること、つまり「捕囚」となる道こそは唯一の生き延びる道であり、神の御手がそこに及び、時至れば救いのときがくる、ということを述べ続けた。それは神からの真理の言葉であり、人々の方向を指し示す言葉であった。
しかし、人々はそのような真理を宣べ伝えたエレミヤを憎み、捕らえ、殺そうとまで謀った。そして最後はエジプトへと連れて行かれたという。
このように、身の危険をも顧みず、ただ人々が正しい道(神の言葉)に立ち返ること、それによってもたらされる国の平和と救いをのみ願い続け、生涯をそれに捧げたのであった。
このような、預言書の心を受け継いだのが、主イエスであった。主は、ご自身が最も深い、真の意味での「愛国心」の持ち主であった。

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。
それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ福音書七・4044

だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
こうして地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。
だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(マタイ福音書二三・3438より)

主イエスは、エレミヤがそうであったように、神からの啓示によって国が滅びようとしているのをはっきりと知っていたのであった。ここに引用した言葉は、イエスがいかに深く人々の現状を悲しみ、その前途を深く憂えているかを映し出している。ここに一人一人の救いと神による平和を願い続ける主イエスの真の「愛国の心」がある。
事実、イエスが十字架で処刑されて四〇年ほど後、紀元七〇年に、ローマの将軍ティトスがエルサレムに攻め込み、人々の精神的な中心であった神殿も焼かれ、無数の人たちは殺され、民は世界に散らされ、祖国なき民となった。
主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」、「人を愛すること」だと言われた。神とは、万能であって天地の創造主、しかも善き正しきこと、真実なこと、美しいものの究極的な存在である。善き存在であるゆえに、小さく弱い者への愛を本質として持っておられるお方であり、罪深い者をも赦し、導いて下さる。
そうした神であるからこそ、その神を第一に重んじ、心を向けることが万人にとって最重要なことになる。そしてその愛の神から受けた賜物を他者へと分かとうとする心が、人への愛である。
こうした神への愛、人への愛こそが、愛国心の根元になけれぱならない。そのような心こそが、いつの時代にも、またどのような状況に置かれた国や人々にとっても最善のものとなる。


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