巻頭言

常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ。これこそ、神があなた方に望んでおられることである。
テサロニケ五・1617より)


リストボタン待ち続ける神    2006/7

仕事が終わって夜帰宅するとき、家がまっ暗で誰もいない、待ってくれている人はいないという状態と、妻なり夫なり、あるいは子どもたちが待っている状態とは大きく異なる。待っていてくれる人がいないとき、帰宅もわびしいものになるだろう。人間は本質的に他者とのつながりを求める存在であり、一人きりというのは必ず心にも影を投げかけてくる。待っている人、それがあるから心の支えになるということも多い。
聖書に記されている神、そのお方は、私たちを待っていて下さるという。

主は恵みを与えようとして
あなたたちを待ち
それゆえ、主は憐れみを与えようとして
立ち上がられる。まことに、主は正義の神。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザヤ書三十・18

私たちがどのようであっても、愛の神であるゆえに、祈りの心をもって待っていて下さる。社会的に活躍していても、神の正義や真実とは相いれない心でやっているということもよくあるだろう。人間の道はつねに間違って、それていく。それゆえに神は正しい道に立ち返るのを待っておられる。
このような神がいて下さるゆえに、私たちの心の家はまっ暗な人気のしないものではない。そこには神が、主イエスが待っていて下さる。
人間の愛も誰かを待ち続けることがあるだろう。しかし、ある人があまりにも背き続けているなら、もう立ち返るのを待つことができなくなり、悲しみのうちにあきらめるか見捨てるかということになる。
しかし、神は無限の愛であるゆえに私たちを見捨てることがない。
新約聖書で最もよく知られたたとえのひとつといえる、放蕩息子のたとえはこのような待ち続ける神の姿を表している。

ある人に息子が二人いた。
弟の方が父親に、まだ父が生きているのに財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
彼は豚の餌を食べたいと思ったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』(ルカ福音書十五・1124より)

このたとえには、何一つよいことをせずに金を使い尽くしてしまった息子ですら待ち続け、心を入れかえて帰って来たら直ちにその息子を責めることもせずに受け入れる心が見られる。
しかし、この兄は帰って来た弟を喜ぶこともせず、そのような人間に最大級のもてなしをした父親を責めて、非難した。ここに待つことのできない人間の姿が、父の心と対照的に示されている。
人間は、悪いことをした者に対してどこまでも待とうとする姿勢はない。悔い改めを待ち続けることをしない。すぐに非難し、裁き、あるいは見下し始める。
このように、人間がよくなることを待ち続けることをしない人間と、どこまでも、十字架上で最後に悔い改めた重い犯罪人のような人をも待ち続けておられた神の愛がうかがえる。

あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。(イザヤ書五八・9

神がこのように私たちを待っていて答えて下さるということを、この書を書いたイザヤという預言者は深く体験していたのである。
通常の私たちの経験はこのような待っていて下さる神、というのは信じがたいかも知れない。待っても待っても何にも答えもなく、祈りを聞いてもくれない、といった不満や不信があるからである。
しかし、そうした多くの人たちの反論を越えて、神はこのように待っていて下さるのだ、ということを預言者は啓示されて私たちに示している。聞いて下さらないように見えるのは、それは神の深いご計画のゆえであり、じつは聞いて下さっているのだ。
神は愛であるという。そして愛とはまさに、どこまでも待ち続ける本性を持っている。新約聖書の最後の書である黙示録にもこのような神の待ち続ける愛が記されている。

悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、私とともに食事をする。(黙示録三・1920

先にあげた放蕩息子とその帰りをどこまでも待ち続けた父親の姿は、この黙示録の言葉にかなったものである。父親は金を持ってどこへともなく行ってしまい、すべてを使い果たしてしまったような役立たずの息子の魂の戸口に立って彼の魂の扉をたたき続けていたのであった。
そして息子が心を開いて父親に向かってきたとき直ちに父親はこの黙示録の言葉どおりにその息子とともにゆたかな食事をしたのであった。
入口に立って戸をたたき、中から戸を開く者を待ち続けている神がおられるということは、いかに私たちの心の間近におられるかということである。私たちはたとえ目に見える家では待つものがなくとも、この世で自分を待っていてくれる者がもはやなくなったような状況に置かれても、神だけは待っていて下さるのを信じることができる。そして私たちのところに来て下さり、霊的な賜物を豊かに与えて下さるのである。
この世の生涯はいずれ終りを告げる。しかし、死の後には永遠の無や冷たい墓が待っているのでなく、愛と真実に満ちた父なる神が待って下さっているのである。


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