リストボタンある日の思いから    2006/8

待ち望む

待ち望む。真実がそのまま真実として受けとられる時を。
真実を言っても、真実な心でしても、疑われ、まったく異なることを言われるようなこの世。
主イエスは、神からの言葉を語った。
だが、多くの人たちから受け入れられず、神を汚す者、悪霊の力でやっているとまで言われた。
長い歴史、それはこのような無理解で満ちている。
幼な子のような心、それが一番重要だと主イエスは言われた。
それは、まっすぐに真理そのもの(神)を仰ぐ心、まっすぐに受けとめる心。
神は、私たちの小さくとも真実な心をそのままに受けとって下さる。
なんというありがたいことだろう。
そのような真実が伝わる世界を待ち望む。

キリストの奥に

誰も知らない。
キリストの奥にどれほどの平和があり、
どれほどの愛があるかを。
「父のほかに子を知るものはいない」とイエスは言われた。
その限りなく深い海のような、キリストの平和と愛、
私たちが受けとってきたのはそのわずかな部分なのだろう。
主よ、その満ちみちたものの中から、
さらなる恵みを私たちに注いでください。

水と風のように

水のように、あるいは風のように流れていきたい。
水も風も、さまざまのところを通っていく。
妨げられても、わずかなすき間から、流れていく。吹いていく。
私の分身が、どんなさまたげに出会ってもそれらを貫いて流れていけばよい。
主によって砕かれた私が、さまざまの壁をも通り抜けていけばよい。
主イエスが初めてユダヤ人の会堂で語られたとき、
その真理を真っ向から反対し、
崖から突き落とそうとする人たちが現れた。
しかし、イエスは、そうした人々とその敵意を風のように通り抜けて行かれた。
真理は、あらゆる壁をも通り抜け、吹いていく。

動かすもの

世の中がどのように変わっていこうとも
変わらないものがある。
私を数十年前に、その魂をとらえ
そしてさまざまの罪を犯し、足りない者であるにも関わらず、強い御手で導かれた何者かがおられる。
自分の考えでもない。身近な者の影響でも、世間に流されたのでもない。
ただ、見えざる御手が私を引いて下さった。
そして今日のところまで、歩んでくることができた。
そのような力がある。
それを私は知ってもらいたい。
その力を知ることこそ、この世に生れた意味を知ることになるのだから。
生きる意味が分からないという人、
かつては私もそうであった。
なぜ自らの命を断ったらいけないのか、
その理由が分からないという。
分からない、つきつめたら他のすべても分からないことばかりだ。
なぜ、こんなに悩みがあるのか、どうしてこんなに悲しむべきことがあるのか。
どうして罪を犯すまいと思っても罪から離れられないのか、
なぜこんなひどいことをする人間がいるのか、どうして破滅と分かっていることをするのか。
どうして、戦争や犯罪、テロが絶えないのか。
なぜ、この地球が存在しているのか、
いつか、これは消滅するという。
そのとき、人はどうなるのか
どんなに考えても分からない、こうした問題の解決はだれも知らないのだと思った。
その疑問、難問、回答不能のようなこの世にあって
ただ一つの道が通っていた。
そうした疑問や心を暗くする問いかけが、氷の溶けるようにその重苦しさが消えていく道がある。
私はかつてこうした重い問いかけを持って、どうすることもできなかった。
しかし、そうした一切のからみつく暗い力を打ち破る力があり、
はるか昔から、永遠の未来へと通じている道があるのを知らされた。
今も、その道は通っている。
そして神の国への旅路を歩む人たちが次々と見えてくる。
遠い御国へとどこまでもその歩む人たちは続いていく。
私たちはそのうち目に見えるすべてを失っていく。
この道は、自分に何もなくなった時でも、不思議にも歩んでいける。
何も持たないでも、この旅はどこまでも続けていくことができる。
見えない手によって引かれ、この世のものでない翼を与えられ、
内に神の言葉という永遠のエネルギーを貯えているから。

清くないものにも

人間は弱く、真実に反することがあまりにも多い。
しかし、そのような人間に、神は驚くべき真理を与えた。
真理が与えられても、なお、人間は変わらずに自分中心であったりする。
しかし、それでも神はそのような人間に神の国の大いなる賜物を預けることがある。
キリストの十二弟子たちは、主がとらえられるときには、みんな逃げてしまったし、
弟子の代表ともいうべきペテロは三度も、イエスなど知らないといって激しく否定した。
そのような自分中心の汚れた者に、尊い神の力、悪霊を追いだす力、病をいやす力など与えられるはずはないと思うだろう。
しかし、キリストは、そのような弟子たちの最初の派遣のときから、すでにそうした驚くべき賜物を与えていた。
神にとっては、どれほど人格を磨いたか、どれほど経験を積んだか、いかに強い信念があるか等々は問題ではない。どんなに不十分であっても、主イエスはそのご計画に従って、思いがけない人を呼びだされる。
どんなに未熟でも、不十分でも、罪の赦しを受け、イエスに従っていきたいという小さな願いがあれば、主はそうした人をも用いられる。否、敵対していたような人間も用いる。
私もごく不十分な者でしかない。
それでも、たしかに主はその大いなる賜物の一部を委ねて下さった。
これからどのようなことが起きるか分からない。
人の心は変わりやすく、動きやすい。
しかし、父なる神だけはいかなることがあっても、私を見放すことがない。
そしてそのように信じて神のもとに行こうとする人は誰でも、拒まれることはない。
神とキリストだけが、究極的に変ることのない道であり、命なのだ。


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