リストボタン祈られ祈る    2006/9

私たちはまず他人のことを深く祈るためには、自分自身が祈られているという経験が必要である。私自身も体調を崩して起き上がれないようなことがあり、体調がすぐれないことが何か月か続くということがあったとき、祈って下さっている、祈られているという実感を持った。
それは何か支えられるといった実感であり、心に平安を与えてくれるものであった。それがあって他者のために祈るということもより真剣になったと思う。
祈りだけでない、他者を愛する前に、私たちは愛されているという実感が必要である。愛というのはエネルギーを注ぐことであり、祈りも同様であるから、まず私たちのうちに愛するエネルギーがなければならない。それは愛されているという事実が必要となる。
この世には至るところで「愛」という言葉がはんらんしている。
しかし、人間の愛は、永続的な愛でなく、また特定の人にしか及ばないという致命的な限界を持っている。そのような人間の愛であるから人間から愛されても必ずその愛はいずれ消えていく運命にある。
私たちが永続的に愛されること、それは神からでしかあり得ないが、その神の愛、キリストの愛を受けて、愛されているという実感をもってはじめて私たちは他者を愛することができるようになる。
それゆえ、ヨハネの手紙で、「イエスは、私たちのために、いのちを捨てて下さった。(それほどに愛して下さった)そのことによって、私たちは愛を知った」(ヨハネ三・16)と言われている。
自分で福音伝道しようと人間的な計画や意図ではできない。遣わされているという実感が必要なのである。
平和を造り出す者は幸いだ、と言われている。しかし、まず私たち自身が平和を与えられていなければならない。それゆえに、主イエスは、最後の夕食のときに、「私の平和をあなた方に与える。これは世が与えるような仕方で与えるのではない」と特に言われたのであった。
同様に、絶えず神から聖霊から教えられているのでなかったら、人に教えることはできない。
神からの赦しを絶えず受けている者だけが、他者をたえず赦し、祈りをもって対することができる。
こうしたすべてのために、主イエスは、私にとどまっていなさい、と繰り返し言われたのである。

私につながっていなさい。私もあなたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなた方は私につながっていなければ、実を結ぶことができない。 (ヨハネ福音書十五・4


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