主はわが光、そして命  祈りの人 好本 督   2006/10

以下の記述は、「主はわが光」という書を紹介するために書いたものである。この本は好本 督著で、一九八一年 日本キリスト教団出版局から発行された。しかし、大分以前から絶版となっており、インターネット古書店でも見つからない状態である。
私は、今回一〇月八日に福岡市で、文中にも出ている、盲人の平方龍男の創設した信愛ホームの九州地区の卒業生たちの集まりで話すことになり、あらためてこの本を読み直したが、好本督の信仰と祈り、それに応えて下さる生ける神に心を動かされた。そしてこの今は手に入らない書物にこめられた真理を少しでも紹介したいと願い、ここにそのごく一部であるが掲載した。
なお、この書は、一九六七年に待晨堂から出版された好本督著の「わが隣人とは誰か」という内容を活字を少し大きくしてそのまま収録し、その後に、「好本督の信仰と生涯」という六〇頁ほどの文を合わせた書となっている。「わが隣人とは誰か」という本は、私が大学四年のとき初めて参加した京都の北白川集会の責任者であった富田和久氏が私に「この本を書いた好本督さんに私がイギリスに留学していたときお世話になったことがある人だ」と言われ、個人的に私に下さった本である。
現在もその本は手許にある。この本が出版されたと同じ年に私はキリスト教信仰に導かれたこと、とくにその本を好本督と直接に交わりのあった冨田氏から手渡されたこと、そして当時は盲人とは全く関わりがなかったが、十三年ほど後になって、予期していなかったことから盲学校に転じることになり、現在の私たちのキリスト集会に多くの視覚障害者が加わるようになったのも神の導きと感じている。

キリスト者は祈りの人である。生きてはたらく神がおられ、またキリストが生きて今も私たちを愛をもって見つめておられる、と信じる者がキリスト者であるならば、その生きた神とキリストから絶えず励ましを受け、罪の赦しを受け、自らの痛みや悩みを訴え、また神からの語りかけを聞き取ろうとするようになるからである。
キリスト者として知られた人の伝記を読むとほとんど例外なく、彼らは祈りの人であったのがわかる。キリストご自身が、しばしば人を退け、弟子たちとも離れて一人で祈った、あるいは、夜を徹して祈った、などと記してあることから、イエスこそが最大の祈りの人であったことを知らされる。
また、パウロも絶えず祈れ、と説いて、祈りが特別な時だけでなく、朝から晩まで絶え間なくなし得ることであると言っている。
このような祈りに包まれた人達のなかで、ここでは、日本の盲人の福祉のために多大のはたらきをした好本督(ただす)という人のことについて紹介しておきたい。
好本は、一八七八年大阪で医者の長男として生れた。東京高商(現在の一橋大学)に入学、このころ聖書と内村鑑三に出会ってキリスト者となった。大学を卒業後、ヨーロッパに出向き、イギリスのオックスフォード大学に入学。そこで多くの信仰深いキリスト者と出会い、自らも聖霊に導かれ、讃美歌を愛好し、祈りと思索を深めた。この頃、オックスフォード大学の医学部主任教授であった、ウィリアム・オスラー(*)と出会う機会があった、オスラーから、「平静(tranquility)」(原題はラテン語)という題の本が贈られた。この本の内容は、好本の信仰的あり方と重なるものであった。

*)カナダ生れの医学者。(一八四九~一九一九)牧師の子として育ち、聖職者を目指したが、すぐれた医学者の影響を受けて、医学者への道を歩む。一八歳のとき、ある牧師から紹介されたトマス・ブラウン著の「医師の信仰」という本を購入し、生涯その書を座右に置いた。晩年になり、命の終りが近づいたときに、自分の柩の上にこの本と白い百合を置いてほしいと希望したというほどであった。彼は、ジョンズ・ホプキンズ大学の医学部の内科教授となり、そのときに新しい構想の医学教育を打ち立てた。それは、医師となるためには、カレッジ卒業生が、四年間の医学教育を受けることを提唱し、臨床教育を病棟で行った。近代医学教育がここに始まったと言われる。それが日本にも伝わり現在までの医学部教育につながっている。また、一八七四年に今日では広く知られている血小板の血栓形成作用を発見した。上述の「平静の心」という著書の中で、医学生にとくに推薦すべき書物として、第一に聖書、そしてシェークスピアの著書、モンテーニュ、プルターク、マルクス・アウレリウス、エピクテートスなどのストア哲学者のもの、セルバンテスのドン・キホーテなどをあげている。
なお、このオスラーの「平静の心」という本に敗戦直後に出会って、オスラーを知り、以後ずっと大きな影響を受けて、「オスラーを師として私は生きてきた」と記し、その著書でも繰り返しオスラーに言及し、日本オスラー協会長となって、オスラーの思想を広めているのが、聖路加(ルカ)国際病院の日野原重明氏である。

このような勉学の後に、帰国し早稲田大学で教鞭をとっていたが、二八歳頃の若いときから、彼はすでに盲人全体の福祉のために、「日本盲人会」をつくっていた。そしてこの会の存在によって、戦後、岩橋武夫らの努力によって、日本盲人会連合という会の結成へとつながっていった。
なお、岩橋武夫は、日本ライトハウス(「光の家」の意)を創設したが、この岩橋が一九二五年にイギリスの大学に留学するときに、とくに便宜をはかり援助したのも、好本 督であった。
好本は、この日本盲人会とは別に、盲人キリスト信仰会(*) という団体をつくった。一般の盲人の福祉のためには、日本盲人会、そして盲人福祉の根幹をなすと確信していたキリスト教信仰を広めるための団体を別個につくるという視野の広い見方を持っていたのである。

*)この盲人キリスト信仰会は、戦後、日本盲人キリスト教伝道協議会となり、その初代委員長に好本 督が選ばれた。この盲人伝道協議会は今日も続いている。

このために、好本は、とくに信仰的にすぐれた人達を集めた。それらの人達とは、中村京太郎、平方龍男、秋元梅吉らである。
中村は、盲人として初めて公費での留学生としてイギリスに学んだが、そのときに生活の面倒を見たのが好本 督であった。中村は現在も発行が続けられている「点字毎日」の創刊のときの編集主任となった。これは毎日新聞社の発行によるもので、一般の大新聞社がこのような点字の新聞を発行することは異例のことであった。当時世界では点字新聞は二つあり、それはいずれもイギリスであったが一般の新聞社が発行するのは点字毎日が初めてであった。
こうした異例のことが生じたのは、好本の祈りの結果であった。当時の毎日新聞社の外信部長が次のように語ったという。
好本さんは自分の使命は盲人に尽くすにあり、と考えるようになった。その一つが点字新聞に現れただけである。
朝から晩まで機会あるごとに、いつもお祈りをしていた。その祈りに応える神様からの声の一つの現れがこの点字新聞になったのだ。」
そして、平方龍男(たつお)は、後に鍼医(はりい)として広く知られる人物となり、東京に信愛ホームというキリスト教精神によって鍼(はり)治療のより高度な学びと訓練をする施設を創設し、それは今日まで続いている。
また、秋元梅吉も、盲人の福祉のために、一九一九年、「盲人基督信仰会」を創立。これも現在も「東京光の家」と改称されて続いている。
このように、神の光が内村鑑三に臨み、それがさらに好本 督にもその光は照らし、そして前述の中村、秋元、平方らにも神の光は照らしていき、その人達へと盲人への働きは受け継がれ、現在まで脈々として続いているのであり、神の光の力の広がりとその永続する力に驚かされる。
光あれ! との創世記最初の言葉は、このように、永遠性を持っているのである。
それは闇に輝く光であるが、それは一時の闇やある特定の場所だけに輝く光でなく、その光をいかなる社会の変動も消すことはできない。
これは内村鑑三や好本 督らの大きな人達だけにその光が及んだのではもちろんない。無名の数知れないキリスト者たち、盲人の信徒たちにも同じような光がその魂に射し込み、それによって動かされ、こうした永続的な事業となっているのである。
さらに、好本が力を注いだ事業として、点字の聖書を全巻刊行するということであった。これは、
亜鉛板に点字を脚の力で製版機のペダルを踏んで一字ずつ打っていくのであり、相当な体力が要求される。このために信仰のしっかりした一人の盲人の青年が選ばれ、彼は二年がかりで、毎日のように打ち続け、六〇〇万字に及ぶ聖書全巻の点字製版を完成させた。好本は、その青年を励まし、その間の生活費をもひき受けるなど経済的な援助も惜しまなかった。

このように、盲人の福祉においてとくに選ばれて多くの働きをした好本 督は、若き日に死を思うほどの苦しみと悲しみの体験を通ってきたのであった。そこから上よりの光を受け、キリストの導きを受けるために、祈りに徹してその苦しい状況を乗り越えていくことができたのである。
彼にとって若き日のとくに重要な出来事は、次のようなものであった。
盲人の福祉のために、 事業を起こしたとき、彼がイギリスに滞在中に、好本が会社を任せていた支配人が富を急増させようとし、ある詐欺師にだまされて投機に手を出して、多額の損失を出したのであった。そのため、神戸の彼の会社を破滅に導いただけでなく、好本の父の財産まで使い果たしてしまったのであった。この大きな災難のために、病気がちであった父が急に悪化し、危篤状態に陥った。
そのことを好本は、イギリスにいたときに知らせを受けて、大きな衝撃を受けてただちに日本に帰ることになった。それは、一九一三年の十二月であり、まだ、日本へ帰るには、極寒のロシアを通って帰らねばならなかった。その途中、ロンドンで買った切符が無効だと言われ、先への旅行はできないと言われた。駅長に懇願してようやく難を超えたと思ったのも束の間、今度は、スリによって財布と旅券が盗まれ、途方にくれた。もはや異国でどうすることもできない。このとき、病床にて苦しむ父のことが思い浮かび、寒さにふるえつつも、彼がしたことは、ひざまずいて長い間祈ることであった。そのような状況において、ただ一つなし得ることは、一羽のスズメをも忘れることもないと記されている全能の神に頼ることだけであった。熱心に長い間祈り続けたとき、彼は平安を取り戻した。そうしてようやく眠りにつくことができた。翌朝、彼がまずしたことは、祈ることであった。
そしてまず心に浮かんだのは次の聖句であったという。

イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。(マタイ福音書十四・3132

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。(箴言三・56

このようにして、祈りによって途中の長い旅路をも無事に乗り越え、ヨーロッパを出発して二週間後にようやく日本(門司)に着いた。そこで彼がまずしたことは、近くの丘に登り、祈ったことである。
そして、「お前が信仰さえ失わなかったら、災いは転じて幸いとなり、すべてのことはお前の周囲の者に益となるのだ」という神からの安心が与えられた。そうして神戸の家に着いたが、家は深い悲しみに沈み闇に包まれているような状態であった。父はやせ衰え、母は看病で疲れ果てていた。彼は自分の部屋に退いて、ふすまを閉めてひざまずいて祈った。
父のいのちは二ヶ月ほどしかもたないだろうと医者が言った。
好本は、それから毎日さまざまの関わりある人達との交渉にエネルギーを費やし、身も心も疲れ果てて帰って来るという状態を繰り返した。彼は、そのようななかでも、わずかの夕食をとると、自分の部屋に退き、数時間を思索と祈りに費やす、そうした日が続いた。死が間近いといわれた父は大切にしていた書画をすべて、ある人から提供せよと言われた。破産という状態であれば相手の申し出に逆らうことができず、長い間手許において愛着のあった書画をすべて失うことになり、父は非常に悲しんだ。しかもその一つ一つを父以外の家族が、数台の荷車に積んで遠いところまで運んでいくことになった。その様子をみていた病床の父の落胆は大きかった。形ある宝に執着するわけではなく、地上の命の終りが近いといわれている父を苦しめその寿命を短くすることが好本には耐えがたかったのである。
そのような状況にあって、彼はどうかこの場を救って下さいと祈らずにいられなかった。何時間祈ったか分からなかった。ところが彼がまだ祈り終わらないうちに、電話がかかってきて、運ばれた荷物をすべてお返しするから、というのであった。
そのことから一か月ほど後のことである。彼は巨額の手形を支払わねばならなかったがその費用がなかった。銀行からは矢のような催促がある。その銀行員は好本たちが被った多大な苦しみに大いに責任があった人なので、そのような人物に支払いを延期してくれるように懇願するのは耐えがたいことであった。
このような苦しい状況に陥ったのは、好本の責任ではなかった。彼はイギリスにいて、その不祥事の直接の責任者でなかったからである。しかし、彼が会社の最終的責任者であるゆえに彼が全責任を負っていかねばならないのであった。
このような事態に直面して彼はあまりの苦い杯のためにあらゆる人に反抗したい気持ちとなった。
そのようなとき、彼は部屋に入って、聖書を読んだ。そのとき、神の言葉から流れ出てくる聖霊の光に照らされて、心に広がっていた闇は朝霧のように晴れた。すべてのことは、主がよしとされるときに解決し、現在の苦難は両親にとってもまた関係者にとっても、祝福に変るにちがいないということが、彼にははっきりと分かった。
自分たちを耐えがたい苦痛の深淵に投げ込んだ者たちに対して、彼は怒りの心をおさえることが難しかった。好本とその家族たちはまったく何の悪いこともしていないのに、彼らは平和の家であったものを悲惨と苦悩の家に変えてしまった。
「主よ、あなたは友に裏切られることがどんなものであるかを、よく知っておられます。あなたを見上げることによって、平和を持てるように助けて下さい」と祈った。
ある人々は、そのようにひどい目に陥れた犯罪者たちを訴えるようにと、好本に、強く勧めた。しかし、ひざまずいて祈って考えるとき、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ二三・34)と主が十字架に付けられたときに祈ったあの言葉を思いだして好本は自分を苦しめた人々に対して、憐れみの情を禁じ得なかった。
そして好本は、彼らを赦すことができるように、また彼らが救われるように、恵みを願った。もし彼を苦しめた人々を訴えていたならば、一層悪意を引き出すばかりであったろうし、誰にも決してよい結果をもたらさなかったであろう。
また、ある友人はそのような不正なことをした者たちを会社から放逐するようにと忠告してくれたが、キリスト者として好本は、自分が彼らの責任を負うべきだと考えた。彼は彼らのために祈り、間違った道から彼らを連れ戻したいと思った。
真夜中に一人外に出て、夜空に光る満月を見つめ、近くのせせらぎの音を聴いていると、心には主にある安らぎが与えられた。月をじっとみていると、次の聖句を聞くようであった。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ五・4445

彼がそうした日々を送っているとき、深刻な会社の状況を立て直すための連日の悪戦苦闘の日々に疲れ、ある墓地まで来た。そのとき、「ここにこそあらゆる悪人も疲れた者も休みがある」(ヨブ記三・17)との言葉が思いだされた。彼は、もし自殺が罪でなかったなら、自分の生命を断つこともためらわなかっただろうと書いている。それほどに当時の苦しみは大きく、前途への道が開けてこなかったのであった。
しかし、それは無責任であり、悪魔の誘惑に屈することであると知り、全力を尽くしてこの窮地から脱するべく生きていかねばならない、との思いへと変えられた。
彼はこのときほど熱心に祈ったことはなかった。
そして「キリストを信じて従え、戦い続けよ、そしてその結果を神に委ねよ、『神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちとともに働いて、万事を益となるようにしてくださる』(ローマ八・28)のだ」これが彼の必死の祈りに対する神からの答えであった。
次の年になり、少し前までは彼の最も手ごわい敵であって彼を苦しめることに関わった数人の人達から、心のこもった感謝の手紙と盲人福祉のための多額の献金が送られてきた。しかも彼らのある者たちは聖書を読み始めているということであった。これらすべては神のすばらしい恵みによるものであった。
もし、この世の方策をもって彼らに対処していたら、彼はきっと打ち負かされていたという。しかし、自分の利害を顧みないで事にあたったために、大きく状況が変わり、神の力によって彼らの心まで変化していったのであった。
好本はこうした出来事の背後に祈りがあったことを述べて次のように言っている。

祈りとは、私たちのうちにはたらく聖霊を通して、主のみまえに私たちを引き寄せる神のわざである。だからそれは神の愛のあらわれ以外の何ものでもない。それは私たちが神をとらえるということではなくて、神が私たちをとらえて下さることである。
祈ることは、私たちが神の「静かな細い声」を聞くことであり、私たちの態度は、「しもべは聞きます。主よ、お話下さい」(サムエル記上三・9)ということになる。
ルターが言ったように、「神が私たちの願いを聴いて下さるということは、すばらしいことである。だが、それよりはるかにすばらしいことは、神が私たちに語りかけて下さることであり、また私たちが神に聞くということである」
しかし、神の声を聞くというだけでは十分ではない。私たちは神の御心を行なうように心がけねばならない。聖霊によって導かれ奉仕することは、すなわち隣人に仕えることを通して、自ずから、神のみわざにたずさわるという計り知れない特権に他ならない。助けてやるというような精神でなく、それを喜びと思い、彼らに仕えることを特権と考えるのである。
御心を行なうことは、私たち自身の力ではできないことであるが、しかし、パウロも言っているように、「私を強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(フィリピ書四・13)し、また「私の力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント十二・9)のである。

ここには、彼が死を思うほどに追い詰められた困難な状況から脱することができた、その理由が語られている。
このような真実な祈りは必ず何かが周囲で起こってくる。それは彼の死に近かった父が元気を取り戻し、二か月の命といわれていたほどに病状は重かったにもかかわらずその後も二年を生きることになり、その晩年になって聖書を読み、キリスト信仰へと導かれていったことであった。
そしてその父の最期をみとった彼の母から聞いたことでは、父の語った最期の言葉は、彼や家族をほとんど破産状態に陥れたその災難の責任者である男に、送金するように頼んだことであったという。
そして父の葬儀は、不思議な導きによって関西学院大学の礼拝堂で行なわれることになった。さらにそのときの弔辞を読んだのは、好本とその一家をどん底に突き落とした人であった。その人はそれを読みながら、途中で感極まり、泣き崩れてあとを続けることができなかったという。
この短い紹介によっても、好本 督が盲人の福祉において実に多方面に渡り、それらが盲人のさまざまの方面において計り知れない益をもたらすことになったのがわかるが、それは彼自身が述べているように、神の愛と真実をどこまでも信じ続け、そこに身を委ねることであり、それをなさしめたのが祈りであった。祈りこそは神の御手が働く場を生み出すものなのである。


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