教育の基本の真理    2006/11

一九四七年三月から施行され、六〇年ほどの間日本の教育の根本指針とされてきた教育基本法は、その前文に、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」とあり、その第一条にも、「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び心身ともに健康な国民の形成を期して行なわれなければならない。」とある。
しかし、私自身の学校教育のなかで、中学や高校、大学を通じて、教育の場で「真理を愛する心」などということは耳にしたことがない。このように基本法の根本精神を表す前文や最も重要な第一条の双方に重ねて書いてあるほどであるにもかかわらず、真理とは何か、正義とは、平和とは、といった基本的な意味すら考えるように仕向けられたこともなく、授業でも語られたことがないのは実に奇妙なことだと言えよう。
それは教育基本法の前文や第一条の精神が無視されているのであって、そこから、高校での社会科の必修科目である世界史などを教えずに放置しておくなどという発想が生じているのである。
真理そのものを重視するなら、長い人間の歩みでどんなことが真理として重んじられたのか、どのような人が、いかに困難な状況にあって真理に従って生きたのか、といった歴史や倫理はおのずから重要な教科となるし、世界のさまざまの動きのなかにいかに真理が働いているか、といったことを知るためにも世界史は不可欠な教科となる。
真理に背を向け、目先のことや、生徒や保護者に迎合し、教師や校長の側もそれで評価されることを願っているからこそ、点数をあげることを至上目的とする受験教育に最大の重点を置くということになっていく。
しかし、いかに教育基本法を変えようとも、本当に人間を造る真理そのものは変えることができない。人間の目に見えない奥深いところでその魂を真に良くすること、造り上げることは、法律とか人間の強制では決してできないのである。
それは、この世のさまざまの議論とは全くちがって、神が私たちの魂に触れるのでなければ人間は本当にはよきものへと教育されないからである。
教育とは、その言葉は、教え、育むということであり、英語では、educate であり、それはラテン語の educo(エードゥーコー) に由来する語であり、「引き出す」という意味を持っている。人間を、真に内にあるよきものを引き出し、育て上げることができるのは、いったい何なのか。
英語や数学、音楽などの教科においてはたしかに教える教師がすぐれていたらその生徒に与えられている能力をより効果的に引き出すことができるのは容易にわかる。しかし、引き出そうとしても元からないものは引き出せない。誰であっても人間を兄弟として愛する、たとえ敵対するような者であってもその人のためによきことを祈る心、などといったものは生まれつき持っていないのであって、引き出すこともできない。
そしてそのような無差別的に人間を大切にし、愛をもってする心こそ、最も重要なものであり、そのような心こそ、どんなことよりも価値あるものである。
しかし、それはいかにすぐれた教師といえども、またどんな設備や法律を作っても引き出すことができない。
それは、人間を超えたところから与えられなければならないのである。
そのことを、聖書においては、すべての人間は罪あるものであり、神とキリストへの信仰によりその罪が除かれ、神からの聖なる霊を受けて初めて、人間は真になるべきものへと変えられ、造り上げられていくと、明確に主張している。そしてこのことは、二千年の間、無数の人たちがこの真理を体験してきたことである。
教育基本法の条文は変えられようとも、教育の基本となる真理そのものは、神とキリストによるのであって、決して変えることはできないのであり、今後どのような状況が訪れようとも、人間を本当に育み、造り上げるのは、神とキリストであり、上より与えられる目には見えない力(聖霊)であり続けるのである。


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