リストボタンいじめの背後にあるもの    2006/11

最近毎日のようにいじめの記事があり、自殺までするということが繰り返し報道されている。そしてそうした記事から受ける印象は、いじめる子供は悪く、いじめられるこどもは弱い、犠牲者だ、というものである。
最近、京都大学大学院の木原助教授らのグループが全国の高校生六四〇〇人を対象にして、いじめの実態調査を発表した。それによると、いじめと、いじめられることの両方を経験したのが、男子では、二八・七%、女子でも十六・七%で、いじめられただけ、とかいじめをしただけ、というのを抜いて最も多かったという。
そして、小学生のときに「いじめをした経験がある」子供は、六三・四%もあり、「いじめられた経験がある」のは、五五・六%、女子でもいじめた経験を持っているのは、五八・一%、いじめられたのは、六二・七%だという。
これを見ると、相当数が、いじめられるだけでなく、ほかの子をいじめたことがあり、被害者がまた加害者となっている実態が浮かび上がってくる。こうした調査は今回のが初めてだというが、この調査をした木原助教授自身が、これほどまで両方を経験している子供が多いとは予想外であったと言っている。
この数値は、実際に見えるいじめをしたり、されたという経験の調査であり、心の中で他者をいじめたいという気持ちははるかに多いと考えられる。
これは、制度とか環境などによらない、人間の深いところにある、自分中心の考えや感情によっていじめが生じているからである。
いじめるとは、愛とは正反対の感情であり、相手の苦しみを少しでも軽くして共に担おうという心とは逆に、相手に心の重荷を押しつけよう、苦しめようという心であり、人間の心の深いところに働く闇の力からきているのを思わせる。
こうした他人を苦しめようという心は、何も子供だけでなく、大人の世界にも至るところにある。国家、民族同士といった大きな規模においても、はるか昔から続いている。戦前の政府が、治安維持法で逮捕した思想犯や戦争に反対したキリスト者などをさまざまの方法で苦しめたが、それは国家権力によるいじめであったし、さらにさかのぼって江戸時代ではキリストを信じているというだけで捕らえられ、厳しい拷問がなされた。それは厳しい寒中に氷の張る池に投げ込んで、また引き揚げるといったことを繰り返したり、水牢に入れる、人が重なり合うような狭い牢獄に何十人も閉じ込めて飢えと排泄物の汚れで苦しめる等々、すさまじい迫害を行なった。これらもいじめの極限状況であった。
つい六〇年あまり前にも、日本は中国や韓国に行って、戦争で捕らえた人たちを命を失うほどに苦しめたことがあった。戦争とは大規模な、国家的いじめなのである。
これらはすべて人間がその奥深いところに愛を持っていないこと、それゆえに状況の変化でどんなことを他者に対してしてしまうか分からない。
結局、いじめの根本問題は、人間の魂の変革なければいじめはなくならないということである。子供の世界だけでなく、大人になっても、否、死に至るまで、何らかのいじめを受け、また他人にいじめをするのが、この世の実態なのである。
これは、他者の本当の幸いのために、祈り、祈られること、互いに他者の重荷を負う、という姿勢といかに違っていることだろう。
このような暗い現実からの救いのために、主イエスは来られたのだと分かる。キリストが一人一人の内に住むようになるとき、私たちはいじめ、いじめられるという世界から、祈られ、祈るという神の御手に置かれる世界へと移っていくことができる。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。